35話 もう目を逸らさない
「ラシード、あの……」
「ん?」
私は一体どのくらい泣き続けていたのかしら。
はっきりとした時間は分からない。でも、顔を埋めていたラシードの袖がぐっしょりと濡れているから、かなり長い時間だったのだと思う。
私は赤く腫れていた頬を更に赤らめ、ラシードからパッと顔を背ける。
「ごめんなさい。服の袖が……その……」
「ああ、気にすんな。鼻水もよだれも結局はただの水だ」
「よ、よだれなんか垂らしていないわよ!? あなたは女性に対する配慮が圧倒的に足りない!」
ひとしきり怒鳴ってから、私は静かに息を吐いた。そして、もう一度手を繋いでから、名残を惜しむようにラシードに向き直った。
「でも、ね……来てくれてありがとう。最期に一目会えて嬉しかったわ」
私がそう言うと、ラシードは訝しげな顔をした。
「最期?」
「……明朝、私は処刑されるの。毒杯を干すくらいならいいのだけれど、前情報では斬首か猛獣に食べられるそうよ。いくら何でもそんな姿は見られたくないから、あなたはもう行ってちょうだい。どうか、ずっと息災でね」
私の言葉に嘘はなかった。一目会えたどころか、たった一時でも心を通い合わせることができて、心の底から満足していたのだ。
ラシードの言葉を借りるなら、憂いは全て色々な水分と一緒に流れ出たみたいだ。
でも、ラシードは呆れ顔で頭を掻いた。
「寝ぼけたことを言うな」
「あなた、まさか見物するつもりなの? 悪趣味だわ、冗談じゃない」
何が悲しくて、好きな相手に自分の解体ショーを見せなければならないの?
あまりのやりきれなさに、私はカッとなった。すると、ラシードは私の手をきつく握り、珍しく真剣な声で言った。
「何でそうなる。あんたは俺と一緒にここを出るんだ」
「え?」
「ここを出て村に帰るんだよ」
「村に、帰る……?」
そんなことができるならどんなに幸せかしら。
でも、ここは宰相の邸の牢の中だ。あの厳重な警備を見た後じゃ、無傷で逃げ切れるなんてとても思えない。
ましてや私は、7年前の話を聞いたばかりなのだ。
「だ、だめよ……そんなことできない。お願いだから早く逃げて!」
「そんなことできるか」
「お願い、行って。あなたまで殺さるわ」
「御託はいいからとっとと立てよ。おふくろがあんたの帰りを待ってんだ。美味いものを食わせて肥えさせたいんだと」
「おふくろ……ラシードのお母様?」
目をぱちくりさせる私を無視して、ラシードはすくっと立ち上がった。そして、周囲を見回して言った。
「スィナーン! スィナーンはいるか?」
「誰もいないわ。私達以外は人の気配だってしないも、のおっ!?」
――ドスッ
暗く、静まり返っていた牢の内側。それも私の背後から、突然ドスッと鈍い音がした。どうやら、何かが天井から降って来たらしい。
「ネズミ!? でも、こんな大きな音……!」
「ふふ、そんなに怯えないでください。私です、スィナーンですよ」
震える私の肩を叩いた巨大ネズミの正体は、見た目よりもお茶目なあの人だった。
以前身に付けていた裾の長い服とは違い、今日は体のラインがしっかり出る黒装束姿だ。おまけに厳重に覆面をしているから、恐怖は倍増した。
「スッ……ど、どうしてこんな所に? いつから?」
「シュカ様が邸に来られてからずっとです。拷問されている間も、投獄された時もずっとお側に控えていたのですが……立場上、お助けできなくて申し訳ありませんでした。それでも、有事の際には飛び出そうと思っていたのですが」
「は、はあ……え? え?」
スィナーンの返事は私を更に困惑させた。
「ああ、そうだ。シュカ様に無礼を働いた牢番は、私がお仕置きしておきました。泥酔状態で戻って来たので、あっさり方が付きましたよ」
「そ、それはどうも」
私は気後れし、覆面を取り払ったスィナーンの整った顔を呆然と見つめていた。
村の一農夫にしては行動が不自然すぎるわ。一盗賊にしても随分と手際がいい。この人は一体どう言う人なんだろう……?
「お喋りはその辺にしろ、スィナーン。宰相と鉢合わせると面倒だ、夜明け前にはここを出たい」
ラシードが呆れた調子でそう言うと、スィナーンの表情は一変した。
「はっ、心得ております」
「中庭に続く地下通路は塞がってないな?」
「はい、昨日確認しました。退路は確保してあります」
ラシードは一瞬考えこんでから、小さく頷いた。そして、懐から真鍮らしい小さなカギを取り出して、にやりと私を見る。
「それ、牢屋の鍵? どうしてそんなもの……」
「はは、俺は誰かさんみたいに腕力で脱獄したりしない。さあ、早いところこんな辛気臭い場所から引き揚げよう」
読んでくださってありがとうございました!
これから最終話までは毎日更新できると思います。
(ざっくりとですが、最終話まで書き上げました。頑張って手直しします!)
あともう少しお付き合いいただけると幸いです。




