33話 最果ての黒
「なあ、色仕掛けで俺をその気にさせてみろよ。成績次第では、宰相に頼んで助けてやってもいいぞ? ははは!」
男はお腹を抱えて笑ったけれど、どこが面白いのか私にはさっぱり分からなかった。ただただ哀れな気持ちしか湧いてこないのだ。
私は男から視線を逸らさず、静かに口を噤んでいた。
馬鹿な男。
あの宰相は、あなたなんかの嘆願には耳を傾けない。
居室の壁沿いにずらりと並んでいた側仕えではなく、こんな所で牢番をさせられているのがいい証拠だわ。
あなたは取るに足りない人間だし、その言葉には何の効力もない。
たとえその話が本当だとしても、私は思い通りにはならないわよ。
これまでに幾度となく死を覚悟したんだもの。今更もう怖いものなんかないのよ。
……それにね。
ラシード。
私、あなたに顔向けできない人間にはなりたくない。
誰に見下されても、どんなに失笑を買っても、最期まであなたが好きだと言ってくれた私でいたい。そう思うのよ。
「なーんてな。絶世の美女に化けてたあんたなら大歓迎だけど、今誘惑されたって萎えるだけだ。あーあ、俺もハレムの美姫を下賜されてぇな……ふわあぁ」
男はあくび混じりに言った。
「しかし、眠いな……あふっ……ふぁ。夜明けまではまだ時間があるし、厨房で酒でもくすねてくる」
「そう言って逃げる気でしょう」
「ちょっとは信用しろよ。つまみはピスタチオでいいな?」
ピスタチオと聞いた途端、私のお腹が「くぅ」と鳴った。私は自分の図太さに心底驚いて、同時に堪らなく可笑しくなってしまった。
私も案外たくましいわね。もうじき殺されるって言うのにお腹がすくなんて……。
でも、そうね。諦めるのは最後だわ。
私にはまだやることが残っているんだもの。
「あの……7年前の事件とはどんなものだったのですか?」
下品で低能な方の牢番が出て行ったのを見計らい、私は尋ねた。
「え? いや、それは」
男は困った顔をして言い渋ったけれど、私はめげない。
こっちの牢番は囚人にも人間らしい気遣いができる人だし、真摯な態度で訴えればきっと分かってくれるはずよ。
「ギュズ村は、ここに来る途中でお世話になった村なの。どうか教えてください。知りたいんです」
「……あー……昔、謀反を企てて捕まった大宰相がいたんだよ」
「謀反?」
随分と不穏な話だけれど、あの村と何の関係があるのかしら。
「忠臣の謀反にイルファハン王は激怒し、大宰相の一族を処刑するようハリド様に命じた。確か、五親等まで斬首されたよ」
「……っ」
「女性に聞かせる話じゃないね、ごめん。もうここで」
私が首を振ると、牢番は呆れたように息を吐いて続けた。
「でも、ハリド様は大きなミスを犯した。まだ幼かった大宰相の末の娘を、手違いで逃がしてしまったんだ。その結果、王に厳しく叱責され、信用も失墜した」
「それでどうなったのですか?」
「大宰相側の残党は、娘を連れて命からがら逃げた。もちろん、野心は捨ててない。娘を旗印にして再起を誓い、体勢を立て直すためにグラドールに亡命しようとしたんだ」
グラドールに、亡命……?
ああ、そうか。そう言うことだったのね。
「誅伐に来た宰相と残党達が、国境の手前にあるギュズ村で交戦したのですね? 大宰相のお嬢様もあの村で?」
「ご名答だよ。ハリド様は大軍を差し向けて残党を追い詰め、ギュズ村で皆殺しにしたんだ。田畑を踏み荒らし、残党をあぶり出すために火をかけた。あの時、村長と数十人の村人が巻き添えになり、村長の嫁さんが片足を失くしたらしい」
「……そう。村人達はさぞ悔しかったでしょうね」
のどかなあの村にそんな過去があったなんて、まったく気付かなかった。
知ってさえいれば、もっと違う接し方ができた。
村人達の優しい眼差しに、もっともっと感謝することができたのに……。
「今の話は絶対に内緒だよ?」
「え……?」
私は眉をしかめた。
「だから、誰にも言わないでほしいってこと」
「……ええ、私は明日死ぬんだもの。逆立ちしたって無理だから安心して! それとも、こんな粗末な牢屋に吹聴する相手がいると思って?」
「あっ」
私が意地悪く言うと、牢番は気まずそうに俯いた。
「無神経だったよ、ごめん」
「……っ、いいえ、違う。謝らないで。こちらこそごめんなさい。あなたは秘密を打ち明けてくださったのに、八つ当たりをしてしまいました……」
私はなんて底意地が悪いのかしら。
あの村に帰れないのは、逃げ出した私のせい。
明日処刑されるのも、宰相を侮っていた私のせい。
両親やルリアにまで害が及ぶのも、上手く立ち回れなかった私のせい。
全部、全部……ラシードの言葉を信じなかった私のせいよ。
なのに、人に当たるなんてどうかしているわ。
私は酷い人間だ。
(ルリア、心配しないで? 私はね、政略結婚だからって何もかもを諦めたわけじゃないのよ。宰相を愛し、愛されて、あなたが羨むくらい素敵な夫婦になってみせるわ。一人でも、遠く離れていても、幸せになるための努力を怠らない。だから……きっと、きっと大丈夫よ!)
調子のいいことを言ってルリアを送り出したのに、私は何もできなかった。結局私は、約束一つ満足に守れない子供だったのだわ。
「……ふふ……私は無力だわ」
宰相になぶられた頬が痛い。痛くて、熱くて堪らない。
本当は死にたくない。
生きたい。
もう一度、あなた達に会いたい。
「…………っ」
遠ざかっていく牢番の足音を聞きながら、私は体を小さく丸めた。そして、膝を抱えたままきつく目を閉じたのだった。
考えたくない。無心になりたい。
そうすることでしたか、私はもう救われなかったのだ。




