32話 肺腑をえぐる毒
「今日のハリド様、いつにも増して機嫌が悪かったですね」
「美人と評判の花嫁に会う日を指折り数えて待ってたんだ。こんな薄汚いブスとすり替わってたら、俺でも不機嫌になるさ」
「薄汚れているのは、ハリド様が責めさいなんだせいだと思いますけど?」
「まあな」
「はー、またいつも通り斬首ですかねぇ」
「あの様子から察するにもっと惨いやり方だろ。例えば、闘技場でトラと戦わせるとか。血飛沫と飛び散る臓器、女の叫声……うーん、いかにも好きそうだ」
「おえっ、自分には無理です。ほんと、無理……」
遠くで、誰かの話し声が聞こえる。
あれは、誰の声?
私はどうなったの?
今はいつで、どこにいるの?
……ああ、もどかしい。考えが上手くまとまらない。今後のことを考えなくちゃならないのに、まるで頭に霞がかかったみたいだわ。
「それより、問題は本物の令嬢の方ですよね。あと、偽物を売った親も」
「ああ、ご愁傷様だ。最悪の相手を敵に回しちまった。ハリド様は執着心が強いから、地の果てまでも追い駆けて八つ裂きにするぞ」
「……駆り出される方は憂鬱です」
「だな。『地の果てまで』と言えば、あの7年前の事件でも……」
「ああ、東の端っこの辺鄙な村でしたね。名前は確か、あー、えーと」
「ギュズ村だ。激戦地になった不運な村」
……ギュズ、村?
ラシードと過ごした村の名前だわ。
あの平和な村が戦場になったってどう言うこと?
「…………う……ん」
私は、小さくうめき声を上げた。
本当は「今の話を詳しく教えてください」と言ったつもりだったのに、喉が引き攣って声が上手く出せなかったのだ。
おまけに、屈強な男達に締め上げられた体は軋むように痛い。散々殴られたせいか、頭もろくに働かない。そして、最も甚大な被害を受けた頬が腫れ上がり、熱を持っているのは言うまでもない。
まったく、なんて酷い有様だろう……。
じれったくなった私は、ぼってりと腫れた瞼を無理矢理こじ開けた。
「おい、見ろよ。悲劇の花嫁殿のお目覚めだぞ!」
「ですね。僕、ハリド様に報告してきます」
「止めとけ。寝所で愛妾といちゃついてる頃だ。邪魔をすると首が飛ぶぞ」
下卑た口調にうんざりしつつも、私は黙って我慢した。文句を言って、これ以上酷い目に遭うのは御免だからだ。
そうして無心で瞬きを繰り返しているうちに、次第に視界がクリアになり始めた。私はしたり顔で視線を泳がせ、
すぐに落胆した。
……ああ、また投獄されたんだわ。しかも、住み慣れたギュズ村の牢屋とは雲泥の差ね。
「いっそ壁を作ればいいのに」と言いたくなるくらい、隙間なくびっしりとはめられた格子。これは、神経質そうなあの老宰相の趣味かしらね。
それに、周囲が真っ暗で細かいことは分からないけれど、この圧迫感からするとかなり狭い牢屋だわ。空気が淀んでいるし、おそらく換気用の窓すらないのでしょうね。
灯りと言えば、格子の向こうに置かれた小さなランプだけだし、頭を抱えたくなるくらい劣悪な環境だわ……。
「はは、顔中見事にシミだらけだな」
「……っ!?」
ハッと我に返ると、格子の向こう側から牢番らしき二人の男が私を見下ろしていた。さっきの会話の声の主だ。
驚いた私はやっとの思いで頭を持ち上げ、上体を起こす。
「あっ、無理に起き上がらない方がいいよ。随分殴られた後なんだし」
「…………え、あ、はい」
「そうだ、水を持ってこようか? 僕ので良ければハンカチも使う?」
のっぺりとした素朴な顔立ちの牢番が、私の前にしゃがみ込んで言った。私は心底びっくりしつつも、有難い申し出にコクンと頷く。
でも、喜んだのも束の間だった。
「おい、そいつは罪人だぞ。余計な世話を焼くな!」
下品で威勢がいい方の男が、「調子に乗るな」と言わんばかりの面構えで凄んできたからだ。
私はじっとりとした目で男を見る。
何よ、水くらいくれたっていいじゃないの。
引っ掛けられたワインがベタ付くし、『薄汚いブス』呼ばわりするなら顔を洗わせてほしいわ。
喉だってカラカラで、今にも焼けそう……。
「何だ? 反抗的な目だな、おい」
「……」
「そんな風に可愛げがないから、明日の朝さっさと処刑されるんだぞ! お姫様」
「!?」
突然の死刑宣告に、私は息を呑んだ。
殺されることは聞かされていたけれど、まさかこんなにも早いなんて思わなかった。気が短いにもほどがあるわ。
私は言葉を失くし、顔の筋肉も麻痺したように硬直してしまった。
すると男が、私の頭から爪先までを舐めるように見てから「そこで提案だ」と口を開いた。ねっとりとした、鼻に付く口調だった。
「なあ、色仕掛けで俺をその気にさせてみろよ」
「?」
「あんたの成績次第では、宰相に頼んで助けてやってもいいぞ? ははは!」
男はそう言って、格子の隙間から右手をスルリと差し入れた。「好きに使え」と言いたげなその手に嫌悪の眼差しを向け、私は思った。
不埒な毒に侵された汚い手だ、と。




