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31話 嘘吐きの代償

 

 ――バシャッ


 水音と同時に、咽返るようなお酒の匂いがした。



「……え?」


 困惑した私がその正体に気が付くまでには、数十秒……いや、体感では数分かかったと思う。事態が全く飲み込めなかった。


 でも、今ははっきりと分かる。突然顔に浴びせかけられたのは、宰相のグラスに入っていた白ワインだったのだ。



 何かの間違いよね?

 きっと手を滑らせただけよね?


 ……いいえ、違う。手元が狂っただけじゃこうはならないわ。



 それなら、どうして?


 どうしてそんな瞳で私を睨んでいるのですか?




「どうして……」


 私が度を失っていると、突如、カーテンの陰から数人の男達が飛び出してきた。そして、少しの迷いもなく私に詰め寄ったかと思えば、そのうち一人が私を羽交い絞めにする。


「……っ」


 没落寸前とは言え、私は男爵家の娘だ。未だかつてこんな乱暴な扱いを受けたことはない。痛みと屈辱で気が狂いそう。


「こ、これはどういうことですか!?」


 私を締め上げた男が体を宰相の正面に向けたので、私は必死の形相で尋ねた。藁にもすがる思いだった。


 でも、宰相は無表情のまま動じない。

 それどころか、懸命にもがく私の両腕と頭を、男達に命じてしっかりと固定させた。


 すると次の瞬間、男達は粗末なボロ布で私の顔を拭き始めた。

 いや、正確には『擦り始めた』、もしくは『皮を剥ごうとし始めた』と言う表現がぴったりかもしれない。荒々しいそれは、私への気遣いなど一切感じられない仕打ちだった。


「い、たっ……痛い!」


 摩擦で肌が焼け付きそう。むしるように解かれた髪も痛くて堪らない。全部ボロ布に染みこんでしまったけれど、涙が止まらない。


 淑女の仮面を強引に剥ぎ取られ、私はついに悲鳴を上げた。


「止めてください! お戯れがすぎますッ!!」



「それはこちらの台詞だ」



 ……え?



「愚かな娘よ。お前の猿知恵など最初からお見通しなのだ」


 射抜かれそうなほど鋭い声で、宰相が忌々しそうに言った。青い色の瞳には、明らかな敵意が滲んでいる。


 宰相と目が合った瞬間、私の足はがくがくと震え出し、「何とかしてこの場を切り抜けなければ」と思う心とは裏腹に制御がきかなくなった。


 本心では、情けないほどに怯えていたのだ。


「あ、わ、私は……」

「まったく、汚らしい顔だ。こんな顔でよくも私の前に立てたものだな。身の程を弁えている分、貧民街の住人共の方がまだマシだろう」


 そう言い捨てると、宰相は力任せに私の頬を叩いた。羽交い絞めにされている私は、力を受け流すことも、倒れることもできない。


「う、あっ……!」


 私は自分でも初めて聞くようなうめき声を上げた。


「グラドールの人間は……特にお前の両親のような卑俗な人間は、残飯にたかるハエにも劣るクズだ。莫大な援助をしてやったと言うのに恥知らずな」

「んっ」

「しかし、私も舐められたものだ。こんなモノで、こんな不良品で、私の目を欺けると思ったのか」


 往復で繰り出される平手打ちにひたすら耐えていると、唇が切れたのか、口内に血の味が広がってきた。鉄臭くて、なんとも不愉快な味だ。


 私は思わず苦い顔をしたけれど、実はそう悪いことばかりでもなかった。朦朧として手放しかけていた私の意識を、ぎりぎりのところで繋ぎ止めてくれたのだ。



 痛い。

 悲しい。

 悔しい。


 でも、ここにいるのが私でよかった。

 こんな目に遭うのが、ルリアじゃなくてよかった。


 私みたいな野の草は、温室育ちの名花より頑丈だもの。

 どんなに踏みにじられたって、最後までしぶとく生き残ってみせるわ。


 きっと、きっと大丈夫よ……。




「気は……すまれましたか……?」

「は?」

「どう言い訳しても、私があなたを欺いた事実は消えません。本当に申し訳ありませんでした。全ては私の独断でしたことです。どうぞ気のすむまで私を罰してください」


 私が顔を上げると、宰相は胸糞悪そうに舌を打った。そして、少し考え込んでから、閃いたように「そうだな」と切り出した。


「お前の罪状は契約違反、身分詐称、私への不敬罪。その他にも挙げればきりがない。よって、お前の死体は砂漠に晒すことにする。獣や猛禽に喰われ、砂風にさらされ、骨だけになったところでグラドールの実家に送り返してやろう。そのくらい当然の報いだろう? ん?」


 酔いしれるような宰相の表情を見て、ゾッとした。


「お前の家族にもそれなりの報復は覚悟してもらうぞ」

「……っ、両親は今回のことを何も知りません!! 姉がここにいないのも、異国での裕福な暮らしを夢見て私が出し抜いたからです! 私はどうなっても構いませんから、どうか私の家族だけはッ……!!」

「黙れ、耳障りだ」

「いいえ、どうかご容赦を!! 処罰なら私一人に」

「もういい、興覚めだ。この喧しい小娘を連れて行け!」


 一心不乱に訴える私の言葉を遮って、宰相は無情に言い放った。


「ま、待って! お願い、放してッ!!」


 目が眩むような思いがして、私は叫んだ。

 こうなってしまえばもう、貞淑さなんて邪魔なだけだ。私はわずかな希望にすがりながら、宰相の名前を呼び続けた。


 でも、きつく締め上げられた腕が緩むことも、宰相が振り向くこともなかった。


 朦朧とする意識の中、私の喘ぎ声だけがいつまでも響いていた。


いつも読んでくださってありがとうございます。

ブックマークや評価をいただき、とても嬉しく拝見しています。

物語はそろそろ佳境ですので、最後まで応援をお願いします!

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