30話 淡い願い
「顔を上げなさい」
深々と低頭していた私に、宰相が言った。
私は「はい」と短く返事をして、ゆっくりと顔を上げながら、密かに胸を撫でおろしていた。宰相の声は相変わらず重かったけれど、さっきよりもいくらか丸みを帯びている気がしたからだ。
「遠路はるばるようこそいらっしゃいました。ルリア・セラグラード」
「ありがとうございます。お会いできて光栄です」
え!?
窓を背にして立つ宰相の姿を見て、私はぎょっとした。
何故なら、宰相は両親より二回りも年上だと聞いていたのに、今目の前にいる男性はどう見ても初老くらいなのだ。
しっかりと日焼けをした精悍な肌、白髪と言うよりは銀髪に見える男らしい顎ひげ、瞳の色は深海の青。頭には白いターバンが巻かれているけれど、もしこの下が薄毛や白髪頭だったとしても60歳を超えた老人には見えないだろう。
宰相は想像よりもはるかに魅力的な外見をしていて、これならお妃が11人いてもおかしくない。私はそう納得してしまったのだった。
「はは。レディ、私の顔がそんなにも珍しいですか?」
挨拶も忘れ、ただただ目をぱちくりさせる私に気を遣ってくれたのだろうか。宰相が先に口を開き、楽しそうに目を細めた。
「!」
心臓を掴まれる思いで、私は目を見開いた。
「ご、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。初めてお目にかかります、ルリア・セラグラードと申します」
練りに練った計画は呆気なく頓挫したけれど、私はすぐに冷静さを取り戻し、背筋をぴんと正した。そして、両手でスカートの左右を摘まみ上げ、静かに腰を落とす。
「不束者ですがどうぞよろしくお願いいたします」
目指すのは、見る人の心を温かくするルリアの微笑だ。
私は瞼の裏のルリアの真似をするようにして、にっこりと微笑んで見せた。
「ああ、可愛らしい挨拶をありがとう。ここに来るまで筆舌に尽くし難いご苦労があったでしょうに、あなたの笑顔はそれを一切感じさせない。噂通り……いえ、噂以上に美しい顔立ちをしていますね。その声も鈴が鳴るようです」
歯の浮くような台詞も、宰相の口から聞くとストンと胸に落ちた。
普段なら「何か企んでいるの?」とうがった見方をしてしまうところだけれど、今は素直に嬉しく思った。
「まあ、嬉しゅうございます。私などには身に余るお言葉ですわ」
「ははは、謙虚な方だ」
宰相は軽快に笑い、白ワインらしい液体が入ったグラスを悠々と傾ける。
良かった、所作が綺麗だわ……。
宰相の品のいい飲み方を見つめ、私はホッと安堵の息を吐いた。粗さがしなどできる身分ではないけれど、生涯を共にする相手だもの。安心材料が多いに越したことはない。
「さあ、こちらへいらっしゃい。もっと私の近くに」
「はい。ありがとうございます」
ああ、本当に良かった。
私の到着をこんなにも喜んでくださるなんて嘘みたい。
それに、とても穏やかで優しそう。
この方となら上手くやっていけるかもしれない。
お互いを尊重し、労わり合っていけるかもいけるかもしれない。
夫として愛することは生涯できなくても、きっと……
――バシャッ
私は目を見張った。
「……え?」
突然のことで、何が起きたのか理解できない。
呆気にとられ、何が何だか分からないまま、私は自分の頬に触れた。すると、額からは水滴がポタポタと落ち、顔中がびっしょりと濡れている。
私を包んでいるのは、芳醇なお酒の香りだ……。
私は蒼白になり、言葉を失った。
さっきまで優雅にグラスをあおっていた大きな手が。
私に手招きをした温かそうな手が。
私の頭を愛しむように撫でてくれるだろうと思っていた手が、急に邪悪な何かに見えた。
とてつもなく恐ろしい、何かに。
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