29話 私が愛した陽だまり
――時を遡ること5年
グラドールの古都・グルージュベル郊外
ダラ・セラグラード男爵邸にて
「シュカお嬢様、それは貴婦人の挨拶ではありません! 何度練習すれば覚えるのですか?」
私のお辞儀を見て、ばあやが悲鳴に似た声を上げた。小枝のように細い体をブルブルと震わせていて、少し突いたらポキリと折れそうだ。
私は気まずさに耐えかねて、ぎごちなく顔を上げる。
「……あの、私は何か間違っていた? 両手でスカートの裾を軽くつまみ上げて、片足を斜め後ろの内側に引く。もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばしたままお辞儀をする……でしょう?」
「本気でおっしゃっているのですか?」
「え? ええ、もちろん」
ふざけてなんかいないわ。あくまで『つもり』だけれど、私はいつも真面目に教本通りの動作をしている。だからこそ、“針金”などと揶揄される度に心が折れそうになるのよ。
「そうですか。でしたら、今日こそはっきりと言わせていただきますけれどね? そんなにドレスをたくし上げたら足が露わになるでしょう、はしたない。それに、クロスした足が不格好で美しくありません。膝を深く曲げすぎ、腰も低く落としすぎなのです。その動きの硬さもどうにかなりませんか!」
「……ご、ごめんなさい」
四方八方全てを鏡に囲まれた練習室にいるんだもの、出来が悪いのは重々承知よ。情けなくて、隣で完璧なお辞儀をしたルリアの顔が見られないくらいだわ。
でもだからって、そんな風にはっきりとトドメを刺さなくてもいいのに……。
心の中ではそう思いつつも、ばあやの剣幕に圧倒されて私は黙った。そして、お馴染みの台詞が飛び出すのを、うんざりした気持ちで待つ。
本当はすぐにでも逃げ出したいのだけれど、そうすると後でネチネチと小言を言われて余計に面倒なのだ。
「はぁ、少しはルリアお嬢様を見習ってくださいませ。ばあやは悲しゅうございます」
「……うふふっ」
ばあやが飽きもせずいつも通りの台詞を漏らした途端、隣にいるルリアがクスクスと笑った。そして、小首を傾げながら「ねえ、ばあや」と一歩前に出る。
「お願いよ、そんな風にカリカリしないで。少なくとも私は、シュカのこの挨拶が可愛くて大好きだわ。社交場で見かけたら真っ先にお友達になりたい」
「いいえ、いいえ。上品さが欠落しています!」
「そうは言っても、私達はまだ12歳なのよ? 焦ることなんかないでしょう」
「淑女の嗜みである刺繍や詩吟ならまだしも、基本のご挨拶もままならないなんて……私が奥様から叱られてしまいます!」
心底面白くなさそうに、ばあやが私を一瞥した。その視線に気付き、私はがっくりと肩を落としたけれど、ルリアは全く違う反応を見せた。
満面に喜色を浮かべ、ばあやの胸に飛び込んだのだ。
「うふふ、慌てなくても大丈夫! だって私達には、グラドールで一番の最高の先生が付いているんだもの。ね? そうでしょう、ばあや?」
「まあ、お嬢様。私のことをそんな風に……」
ルリアの口上に、ばあやは少女のように頬を赤らめた。
落第生の私には厳しいばあやも、ルリアにだけは弱い。晴れた日の空を思わせる青い瞳で見つめられると、借りてきた猫よろしくコロッと大人しくなってしまうのだ。
ルリアは春の日差しのように柔らく微笑んでから、今度は私の腕にきゅっと抱き着いた。
そして、こっそり耳打ちをする。
「ばあやを黙らせるにはこの手が一番だわ。おだてて、気持ちよくさせて、こんな不愉快で退屈な練習をさっさと終わらせてしまうのよ」
「え?」
「だって、そろそろお茶の時間なんだもの。今日はジンジャープディングをおねだりしてあるのよ。ふふっ、それから私達の大好物も」
イタズラ好きの少年のように声を弾ませ、ルリアはペロッと舌を出した。
「……っ、アーモンドチーズケーキ?」
「正解よ。さあ、分かったら演技をするの。とびきり素直で可愛い令嬢のね」
その瞬間、ばあやのお説教など綺麗さっぱり吹っ飛んだのだった。
ルリアは模範的な淑女だったけれど、とても可愛い人でもあった。
私はもうずっとあんな女の子になりたかった。
“じゃない方”
“淑女になり損ねたもう一人”
そんな私じゃなくて、誰からも愛されるルリアになりたかったわ。
だからね、シュカ。
怖いことなんか何もないのよ。
だって、一番近くに素晴らしいお手本がいたんだもの。
私がずっと憧れていた、とびきり素直で可愛い令嬢の演技をすればいいのよ。
そうすればきっと、私達の秘密は露呈しやしないわ。
“きっと上手くいく”
あの時の私は、そう信じて疑いもしなかった。
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