24話 大切だから手離した
「……これでよし、と。奴らがいるとアンタは落ち着けないだろう?」
手下達を全員追い払うと、おかみさんは少しからかうように微笑んだ。
「おかみさん、これはどう言うことです? 俺には仕事が」
「そんなことより、アンタ! ここ数日ろくに食べてないって小耳に挟んだけど?」
「……あー……それは、その」
「ったく、お嬢ちゃんの不摂生を責めたくせに何だい! グダグダ言わずにさっさと食べな。じゃなきゃ無理矢理口に押し込むよ!?」
追加で手渡された山盛りのパンからは、ふんわり甘い香りがした。
仕事に忙殺されているうちに極限を越え、すっかり忘れていたが、そう言えばしばらく何も食べていなかった。
急激な空腹を感じた俺は、行儀が悪いことを承知でがぶりとパンに食らいついた。
じゅわり。
かじった瞬間、口の中に蜂蜜とナッツの旨味が広がった。やや大袈裟な感想ではあるが、五臓六腑に染み渡るとはこう言うことかと、俺は素直に思った。
「美味い……」
「アタシが焼いたパンだ、当然だろ?」
おかみさんは誇らしげに胸を叩き、「それからね」と付け加える。
すると、長いスカートの後ろから、待っていましたとばかりにシャロンがひょっこり顔を出した。
「よお、お前もいたのか」
「はい! おかみさんの介助のために付いてきました」
「そうか、見上げた心掛けだな。駄賃はせいぜい弾んでもらえ」
わしゃわしゃと髪を撫でてやると、シャロンは満足げに「えへへ」と笑った。そして、何かを思い出したように目線を上げる。
「そうだ、ラシード様にこれを!」
そう言っていそいそと差し出されたのは、あの日と同じカップだった。
突然のことに俺は目を丸くし、ぎこちない声で答える。
「……シュカが最初に飲んだやつか?」
「そうです、メエメのミルク。花嫁様のお気に入りだって話したら皆が飲みたがって、今じゃ貴重品です。花嫁様ブランドですね♪」
「はは……美味そうにしてたもんな、あいつ……」
シュカの顔を思い浮かべて、俺は薄く笑った。
あの時の俺は、シュカのお嬢様らしからぬ見事な飲みっぷりに心底驚かされた。だが、それ以上にホッとしたんだ。
絶望の淵にあっても、生きる気力を失っていなかったことに。
「……なあ、アンタ。もしかして今回のが初恋だったのかい?」
おかみさんのその言葉に驚き、俺は口に含んでいたミルクを勢いよく吹き出した。災難にもそれを浴びたシャロンは、今にも泣き出しそうな表情で俺を見る。
「と、突然何の話ですか!?」
「誤魔化すんじゃないよ。こっちはダテに女を50年もやってないんだ」
そう言って俺の額を小突き、おかみさんはどっかりと椅子に座りこんだ。どう言うわけか目をらんらんと輝かせ、これまでに見たことないほど楽しげな様子だ。
「答える必要はありません。黙秘します」
「あー、無駄無駄。毎日こっそり観察してたからね、よーく知ってるんだよ」
「……悪趣味な」
狼狽する俺を見て、おかみさんは「今更気付いたのかい」と鼻で笑った。
「見た目より奥手なアンタが、今回はえらく頑張ってるなぁと思ってた。初めて本気になれる相手を見つけたんだろうな、嫁にもらうんだろうなってさ。なのに、何で引き留めなかったんだ?」
「何で……」
「うん?」
「何でかって、それは……」
大切だから。
好きだから。
理由はそれしかない。
最初はおかしな女だと思った。
気の強い女を屈服させて楽しむ、一風変わったゲーム。そう思っていた。
だが、次第に本気になり、シュカの反応に一喜一憂する自分に気が付いた。
芯の強いところに惹かれた。
俺を真っ直ぐに睨み付ける、強い瞳に惹かれた。
そして、強がりの裏に隠された脆さにも心を奪われた。
溢した涙の綺麗さが忘れられなかった。
それなのに、後ろめたさもあって少しも優しくできなかった。
向かいの牢から黙って見守ることしかできなかった。
大切だから、手離した。
愚かな俺はそうすることしかできなかったから。
「……最初の出会い方が違えば、あるいは。でももう遅い」
「ふん、真剣な恋に早いも遅いもあるもんか」
おかみさんがキッパリ言うと、隣にいたシャロンも「そうですよ」と頷いた。子供に何が分かるんだと言いたげな俺の視線に気が付いたのか、シャロンは素早く続ける。
「花嫁様ね、ラシード様が帰った後はいつもニコニコしてましたよ。それに僕、鼻歌を歌ってるのもこっそり聞きました。本当に嫌いだったらもっと不機嫌になるはずでしょ?」
「ちょ、おまっ!?」
「姉君様のことを聞かせてくれた時も、『ラシードと同じく、姉も度を越した心配性なのよ』なんて笑ってた。僕なら、大事なお姉ちゃんと嫌いな相手を並べて話したりしないよ」
俺は目を見張った。
「それよりてめえ、牢には行くなとあれほど……!」
「シャロンに当たるんじゃないよ。アタシが行かせたんだ。女の体の事情なんか、アンタにゃ分からないだろうが!」
「う……はあ」
説教をするつもりが逆に激しく非難され、俺は言い淀んだ。
それを見たおかみさんはフッと表情を緩め、さっきと同じ口から発せられたことを疑うくらい優しい声で言った。
「それはさて置き。なあ、ラシード?」




