19話 もしも許されるのなら
「……痛いわ、手を離して」
「離すわけねえだろ、俺はあんたに求婚したんだぞ!? その答えがこれか! 俺は本気で……あんたのことを……」
私はぎゅっと唇を噛み、「やめて!」と強引に話を打ち切った。
だって、これ以上、聞いていられなかったんだもの。傷付いた子供のようなあなたの顔を、もう見ていられなかった。
「聞きたくないわ。あなたは自分のしたことを覚えていないの?」
「それは……」
「御者の鮮血の赤が、瞼の裏に張り付いて離れない。硝煙の匂いが鼻をついて離れない。この先何を食べようと、噛み締めた唇から滲んだあの血の味を思い出すわ……全部、あなたが私に負わせたのよ!」
「……」
「ねえ、私があなたに心を許したと本気で思ったの? ふふ、おめでたくて呆れるわね。全てはあなたに復讐するためよ。最初からずっと、あなたが憎くて仕方がなかったのよ!!」
ああ、私はなんて酷いことを言っているのかしら。
あなたがくれたものは、悲しい思い出ばかりではなかったのに。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
嫌悪して、罵って、憎んで忘れてください。
こんな醜い私のことは、もう二度と思い出さないでください。
どうか、私を忘れて幸せになってください。
誰のものになっても、私はそれだけを願うから……。
「そんなことは重々承知だ」
「それなら、よくも図々しく私の前に顔を出せたものね」
「……言い訳はしない。目的のためとは言え、俺があんたに負の記憶を背負わせた事実は変わらない。だが……!」
「だが、何? 何をしてもらってももう手遅れよ。私のことを思うなら、この手を離して。私を行かせて!」
「嫌だ!!」
食いしばった歯の隙間から鋭く言った。その剣幕に私は黙った。そして、ゆっくりと時間をかけて気を静めてから、ラシードは再び口を開いた。
「シュカ。あんたは、宰相・ハリドの12番目の花嫁だろう?」
え……!?
「好色な奴のハレムには、既に11人もの妃がいる。婚姻関係こそないものの、手の付いた女も含めれば収拾がつかないほどだ。あんたのことを生涯かけて愛することはないだろう。それに、あんたは知らんだろうが、奴の機嫌を損ねて斬首された女を俺は大勢知っている」
「!?」
「実家や姉を守りたいとあんたは言ったが、紙切れ一枚の契約なんか何のあてにもならない。奴は、そんなに生ぬるい人間じゃねえんだよ。宰相の権力で家を潰され、自害した人間がどれほどいるか……」
瞠目した私を無視したまま、ラシードは押し殺した声で続けた。
「奴は俺なんかより残忍で、狡猾な男だ。そんな男に嫁いで、あんたは幸せになれるのか?」
「……あなたは、何故そんなことを知っているの?」
「答えるつもりはない」
「…………ああ、そう……それなら私だって勝手にするわよ! 元々清々しいまでの政略結婚だもの、幸せになることなんてとうに諦めたわ。今更怖気づいたりしないのよ!!」
つい昨日想いを通じ合わせた相手だと言うことも忘れて、私は激しく怒鳴った。怒鳴らずにはいられなかった。
それでもラシードは、冷静さを失わない。長い睫毛を伏せただけで、「それに」と付け加えた。
「都までの道のりは険しい。鍛えた騎馬でも五日はかかる道程だ。野生のオオカミやトラだって出る。あんたみたいな恰好の餌は、息を吸う間もなく八つ裂きにされるぞ」
「這ってでも行くわ。ここであなたに飼殺されるよりずっとマシよ」
「…………はっ、そうかよ……」
瞼を伏せポツリと呟くと、ラシードは悔しそうに唇を噛んだ。そして、突き刺すような視線を私に向け、言った。
「もういい、それなら勝手にしろ!!」
哀しい、愛しい声だった。
読んでくださってありがとうございます。
今後は、少しの間だけラシード視点で物語が進みます。シュカとは雰囲気が変わりますが、お付き合いいただけると嬉しいです!




