終章 つむろぐふたごと兄のそれから
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫が部屋中に轟いた。背を丸め、両耳を塞いで、見開いた両目から涙を溢れさせて、戻ってきてしまった佳乃は咆哮を止めない。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
それは望みを打ち砕かれた少女の、後悔と憤懣と絶望の悲鳴だった。何一つ叶うことなく最も望まない形で、まるで騙し討ちのように、バッドエンドを目の当たりにしたまま強制退場させられた彼女は、叫ぶことによって悪夢を振り払おうとしていた。伸ばされたおじさんの手を振り払い、肩に置かれた孝己の手も払いのけ、背中をさする俺の手も拒み、しかし目の前にただ立つのがおばさんであることを認めるなり食らいついた。
「どうして! どうしてぇ!!」
「ひどい! ひどい! ひどい!」
「うそつきぃぃぃぃ!!」
慌てて止めに入る男三人を振り払い、佳乃は見境なくおばさんに拳を振るい続ける。胸を、腹を、腕を、肩を、顎を、狙いなどなく無差別に叩き続ける。いよいよ本気を入れて止めなければと手を伸ばした男たちを、おばさんが軽く首を振って止めた。ただ、無言で叩かれている。やがて叩く力が弱まり、声が小さくなり、力なく拳が下ろされ、最後にくたり、と膝が折れた。その時になってようやく、自分の娘を見下ろして、おばさんは口を開いた。
「気は、済んだ?」
ゆるり、と佳乃が顔をあげる。涙と鼻水ですごいことになっている顔の真ん中で、瞳だけが憎々しげに光っている。
「酷い、嘘つき、そうやって君は詰るけどねぇ。あの世界をそういう結末にしたのは、ほかでもない、佳乃なんだってことは、わかっているんだよねぇ?」
いつも通りのゆらりと掴みどころのない口調で、しかし声音と表情はどこまでも冷たい。
「佳乃があの世界に干渉したから歪みが生まれたんでしょう? 後鳥羽院の望みに自分を重ねて、さぞかし優しい日々だっただろうねぇ。でもねぇ佳乃。つむろいだあとの世界につむろぐ前の世界は何一つ反映されない。尾張局が蘇り定家が院の隣を歩む世界は存在しない。そのくらいは覚えておかなくちゃぁ。それとも、佳乃、そもそもつむろぐ気がなかった?」
孝己が俺の腕を掴んだ。横目で見たその顔は白く、腕を握る手にはじわり、と力が加わっている。反対の手が、こちらも白くなるくらい硬く握られている。気づいたおじさんが、そっと背中に手をやった。おばさんが目元を険しくする。
「佳乃。振り返ってごらん」
それは、圧倒的な力を持って佳乃の前に立ちはだかっていた。
「振り返って、父さんと、孝己と、慧一君の目を見て、同じことを言ってごらん。酷い。どうして。嘘つき。私はあの世界にいたかったのに。つむろぐ気なんてなかったのに」
歌うような声に促されて、佳乃が振り返る。こちらに戻ってきて初めて、俺たちの顔を見る。姿を偽って危険を冒して佳乃のそばに居続けたおじさんの顔を、佳乃を連れ帰るために必死に頑張ってきた孝己の顔を、そして俺の顔を見る。
「佳乃」
声をかけると、ぴくり、と体を震わせた。目の色が塗り替えられていく。深い深い、罪悪感。くん、と、腕が引っ張られた。孝己が一歩、また一歩と、佳乃に近寄っていく。座り込んだままの彼女をわずかに見下ろして、その前に膝を折った。当然腕を握られたままの俺も、それに従うことになる。無言で自分の双姉を見つめていた彼は、すぅ、と息を吸うなり。
「この馬鹿佳乃」
反対側の拳を、がつんと垂直に、彼女の頭に落とした。
「った!」
反射的に両手で押さえた佳乃の腕を、殴った手で握る。俺の腕、佳乃の腕。孝己の両手がしっかり握りしめる。
「俺は認めないから。佳乃も慧一もいない今なんて、絶対に認めない。そう思って今日までやってきたんだ。佳乃が慧一と一緒にあの世界に残ったとしても、俺は絶対に、なんとしても2人を連れて帰ってきた。だって、俺たちは、ここで双子と幼馴染みとして生まれて出会って生きてきたんだ。その前提を、後悔されて、ほったらかしにされてたまるか」
淡々と話す声が、小さく震えている。その肩に、おじさんの大きな手がそっと乗せられた。腕を握る力が強まって、じわりと痛む。
「俺だって、佳乃にこの世界にいてほしい。慧一と佳乃と3人で、まだくだらないことで笑っていたい。2人して俺の気持ちを放り出すな。俺は、あんたたちが気が済んで帰ってくるのをのんびり待っているほど、大人じゃぁないんだ。家族だからって、幼馴染みだからって、何でも許すと思うな」
「……孝己……」
仲間外れにするつもりはなかった。置いていくつもりはなかった。帰る場所に孝己がいてくれたらいい。そう思っていた。それこそが、彼の見せる強さへの、他ならぬ甘えであることに気づかずに。
「……悪かったな」
腕を握る手を軽く叩いて詫びる。何かを隠すように一度頭を垂れた彼は、少し赤くなった目元を険しくして双姉を見据えた
「ー謝れ、佳乃」
低く掠れた声が、叱責した。
「家族の、ましてや双子の俺をみくびって頼らなかったことを。自分の苦しみに父さんを慧一を、ー定家を、自分勝手に巻き込んだことを。母さんと先生に協会内を頭下げて回らせたことを。ー皆の佳乃を想う気持ちを、ないがしろにしたことを。ちゃんと、わかって、謝れ」
逸らすことなく孝己を見つめていた佳乃の瞳から、先ほどのものとは違う種類だとわかる涙がこぼれた。
「……めん……さぃ……」
ふ、と、孝己の手の力が緩んだ。大きな大きなため息がこぼれる。その手をそのままにして佳乃の傍に近づくと、同じように力を失って床に落ちている方の手をそっと握ってやった。それがスイッチとなったように、嗚咽が止まらなくなった。
「ごめ、ごめんなさいぃぃ」
握った手に額を押し付けて泣く佳乃の姿が、視界がぼやけて二重に見えた。隣で鼻をすする音がする。
良かった、と断言はできない。
傷を負った。一度生まれた亀裂はなかったことにはならない。
それでも。どんなに不本意であっても。どんな代償を支払っていても。
多分、これが最善だったのだと、信じたい。




