↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日空が裂けた  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/59

空を見上げる理由

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第49話


空を見上げる理由


一平が空を見上げられるようになるまで、一年半以上かかった。


あの日以来、空はただの空ではなかった。


青ければ青いほど、胸が痛んだ。

飛行機の音が聞こえると、身体が固まった。

雲ひとつない朝を見ると、あの日のニューヨークの空が戻ってくる。


それでも、時間は少しずつ流れた。


二〇〇二年二月。

ユタ州ソルトレイクシティで冬季オリンピックが開かれた。


テレビの中では、世界中の選手たちが氷と雪の上で競っていた。

開会式、閉会式、競技施設。どこも物々しい警備体制だった。

観客の荷物検査、警備員、警察、軍関係者の姿。


世界は、もうあの日の前には戻っていない。

スポーツの祭典でさえ、厳重な警戒の中で行われる時代になっていた。


それでも、選手たちは滑った。

跳んだ。

走った。

転んでも立ち上がった。


一平は病室のテレビで、それを見ていた。


「……すごいな」


さくらが隣で言った。


「うん」


「怖い時代になっても、やる人はやるんやな」


一平は、氷上を滑る選手の姿を見ながら、そう呟いた。


三月には、同じソルトレイクシティでパラリンピックが開催された。


一平は、その競技を見て強く揺さぶられた。


身体に障害を負っても、競技に向き合う選手たち。

補助具を使い、工夫を重ね、限界と向き合いながら、自分の力で前へ進む姿。


その姿は、一平の中に静かに入ってきた。


自分も、松葉杖をついて歩いている。

右腕も、肩も、肺も、以前とは違う。

完全に元通りになるかどうかは分からない。


でも、動ける。

息をしている。

家族と話せる。

まだ、前へ進める。


「……俺も、もう少し頑張らなあかんな」


一平が言うと、北斗がすぐに反応した。


「お父さん、もうめっちゃ頑張ってるよ」


「そうか?」


「うん。でも、もっと頑張るなら応援する」


その言葉に、一平は笑った。


そして二〇〇三年の春。


一平は、ようやく空を見上げた。


病院ではなく、自宅の庭で。

松葉杖を横に置き、椅子に座って。

春の風が、少しだけ頬を撫でる。


空は青かった。


あの日と同じ青ではない。

いや、本当は同じ青なのかもしれない。

でも、一平の心が少し変わっていた。


怖い。

まだ怖い。


けれど、その青を見て、初めて思えた。


「……きれいやな」


さくらが隣で静かに頷いた。


「うん。きれいね」


その一言は、一平にとって大きかった。


空を見上げる理由。

それは、忘れるためではない。

あの日をなかったことにするためでもない。


怖くても、そこにあるものをもう一度見つめるため。

失われたものを抱えながら、それでも生きている世界の美しさを拒まないため。


一平は、ゆっくり息を吸った。


肺はまだ完全ではない。

でも、前より深く吸えた。


その頃、北斗も少しずつ変わっていた。


本棚の奥にしまっていた飛行機の図鑑を、また開けるようになっていた。


最初は表紙だけ。

次に、一ページだけ。

そして少しずつ、前に好きだった機体のページを見られるようになった。


「飛行機は、悪いものじゃない」


北斗は、自分に言い聞かせるように言った。


「悪いことに使った人が悪いんだよな」


一平は頷いた。


「そうや」


北斗は図鑑を開いたまま、しばらく黙っていた。


「また飛行機、好きになってもいい?」


一平は少しだけ胸が詰まった。


「ええに決まっとる」


北斗は小さく笑った。


その笑顔を見て、一平は思った。


この子も、少しずつ空を取り戻している。


そして北斗のそばには、相変わらずジェシカがいた。


二人は最近、新しい漫才のネタを仕込むと言って、近所を歩き回るようになっていた。


「北斗、あの看板見てみ」


「何?」


「“Fresh Bagels”やって。これを日本語にしたら、できたて輪っかパンや」


「雑すぎるやろ!」


「なんでやねん。だいたい合うてるやん」


「合うてへんわ!」


「知らんけど!」


道端で始まる即興コント。

通りすがりの人が笑う。

ジェニーが頭を抱える。


「You two are going to get famous for all the wrong reasons.」

(二人とも、変な理由で有名になるよ)


ジェシカは堂々と言う。


「ええねん。笑ろたら勝ちや」


北斗も乗る。


「せやせや。ニューヨーク大阪化計画や」


「それはさすがに迷惑や!」


二人で同時に叫んで、また笑いが起きる。


その様子を一平は、庭先から見ていた。


北斗が笑っている。

ジェシカが笑っている。

あの日、飛行機の図鑑を閉じたまま泣いていた子が、今は空を見上げ、街を歩き、誰かを笑わせている。


それは、小さな奇跡だった。


一平は空を見上げた。


青い空。

飛行機の音。

まだ少し胸は痛む。


でも、もう目をそらさなかった。


空を見上げる理由は、恐怖を消すためではない。

恐怖があっても、見上げるためだった。


そして、その空の下で、北斗とジェシカの声が響く。


「なんでやねん!」


「知らんけど!」


一平は声を出して笑った。


春の空に、その笑い声がゆっくり広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。