もう一度、歩き出す
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第50話
もう一度、歩き出す
二〇〇三年の春は、一平にとって、二度目の出発の季節だった。
松葉杖をつきながらではある。
右肩にはまだ違和感が残る。
肺も、以前ほど強くはない。
長く歩けば息が上がるし、雨の日には古傷が重く疼く。
それでも、一平は歩いていた。
ゆっくりと。
確かめるように。
一歩ずつ。
朝、玄関に立つ。
さくらが弁当を渡す。
「今日は無理しないでね」
「分かってる」
朝陽が横から言う。
「“分かってる”の信用度、まだ低めだからね」
梓も続く。
「帰ってきたら、ちゃんと休むこと」
北斗が笑う。
「お父さん、帰ってきたらジェシカと新ネタ見せるから」
一平は少しだけ嫌な予感の顔をした。
「……それは楽しみ半分、怖さ半分やな」
家族が笑う。
その笑い声の中で、一平は玄関のドアを開けた。
あの日、同じように家を出た。
そして、世界が壊れた。
だから、朝に家を出ることは、まだ少し怖い。
けれど今日は違う。
見送る家族がいる。
帰る家がある。
そして、自分の足で、もう一度歩き出している。
一平は空を見上げた。
青い。
怖くないわけではない。
でも、きれいだと思えた。
「行ってきます」
その言葉を、少しだけ強く言った。
「行ってらっしゃい」
家族の声が重なる。
その声を背中に受けて、一平は歩き出した。
会社へ向かう道も、少しずつ日常になっていった。
日本商事ニューヨーク支店の新しい事務所では、同僚たちが一平のペースを尊重してくれていた。
重い荷物は持たせない。
長い会議のあとは休憩を挟む。
それでも、特別扱いしすぎることもしない。
一平にとって、それがありがたかった。
「秋田さん、この資料、確認お願いします」
「はい」
仕事が回ってくる。
判断を求められる。
誰かに必要とされる。
それは、身体の回復とは別の意味で、一平を少しずつ立たせていった。
昼休み、窓の外を見る。
そこに、もう世界貿易センターの塔はない。
けれど街は動いている。
失われた場所が空白のまま存在し続ける一方で、人々は仕事へ行き、帰り、食べ、笑い、泣き、また翌日を迎えている。
一平は、小さく息を吸った。
「俺も、ここで生きるんやな」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
夕方、家に戻ると、庭先で北斗とジェシカが待ち構えていた。
「お父さん、帰ってきた!」
「Mr. Akita, today we have new comedy.」
(秋田さん、今日は新作コメディがあります)
一平は松葉杖を壁に立てかけ、椅子に座った。
「……聞く前から不安や」
ジェシカは胸を張る。
「タイトルは、“ニューヨークの地下鉄が大阪の商店街に転職したら”や」
北斗が即座に突っ込む。
「設定がもう事故や!」
「なんでやねん。地下鉄も商売したいやろ」
「せえへんわ!」
「儲かりまっか」
「地下鉄に聞くな!」
庭に笑い声が弾けた。
朝陽も梓も、さくらも、ローラもトーマスも、ノアとマーカスまで笑っていた。
一平も、大きく笑った。
胸は少し痛む。
でも、その痛みすら、生きている証のように思えた。
夜になり、みんなが帰ったあと、一平はリビングでつばめを膝に乗せていた。
つばめは、当然のような顔で丸くなっている。
「おまえも、よう待ってくれたな」
つばめは答えない。
ただ、喉を鳴らす。
さくらが隣に座る。
「歩き出したね」
「うん」
「怖くない?」
一平は少し考えた。
「怖いで」
そして、続けた。
「でも、怖いままでも歩けるんやなって、最近ようやく分かってきた」
さくらは静かに頷いた。
「私も」
朝陽も、梓も、北斗も、それぞれの部屋で明日の準備をしている。
ノアとの約束。
マーカスとの予定。
ジェシカとの新ネタ。
家族は、あの日の前には戻れない。
でも、あの日の後を生きている。
一平は、つばめの背中を撫でながら思った。
失ったものは消えない。
喪失は、いつまでもそこにある。
けれど、その隣に新しいものを置いていくことはできる。
仕事。
家族。
友人。
笑い。
問い。
記憶。
そして、歩くこと。
もう一度、歩き出す。
それは、忘れることではなかった。
乗り越えたと簡単に言うことでもなかった。
傷を抱えたまま、次の一歩を選ぶことだった。
一平は窓の外の空を見上げた。
夜空には、いくつかの星が見えた。
「明日も、歩くか」
その声は小さかった。
でも、確かだった。
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次回予告
第51話
つながる記憶
あの日から生き延びた人。
あの日に家族を失った人。
遠い国で疑いの目を向けられた人。
そして、傷を抱えながらも隣に立ち続けた人。
秋田家は、事件を“ただの悲劇”として閉じ込めないため、学校や地域で記憶をつなぐ活動を始める。
一平は、自分の体験を語ることを決意する。
さくらは、憎しみではなく対話を選んだ理由を言葉にする。
朝陽、梓、北斗も、それぞれの立場から「あの日のあと」を語り始める。
忘れない。
でも、憎しみだけで覚えない。
次回、
第51話「つながる記憶」
記憶は、誰かに渡された時、未来への灯りになる。




