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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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それぞれの答え

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』

 第48話

 それぞれの答え


 二〇〇二年四月。


 ニューヨークの空気は、少しだけやわらかくなっていた。


 冬の冷たさが去り、街路樹には小さな芽が見え始めている。あの日から何もかもが変わってしまった街にも、それでも春は来た。


 一平は、松葉杖をつきながら玄関に立っていた。


「……ほな、行ってくるわ」


 さくらはその姿を見つめた。


 右肩はまだ完全ではない。

 右足首にも不安は残る。

 長く歩けば息も上がる。


 それでも今日は、事件後初めての出勤だった。


 世界貿易センターではない。

 日本商事ニューヨーク支店の、別の事務所。


 それでも、一平にとっては大きな一歩だった。


「無理しないでね」


「分かってる」


 朝陽が言う。


「ほんとに分かってる?」


「……たぶん」


 梓がすぐに突っ込む。


「その“たぶん”が一番信用できない」


 北斗が笑う。


「お父さん、帰ってきたらバーベキューやで」


 一平は少し笑った。


「それを楽しみに頑張るわ」


 外に出ると、春の光がまぶしかった。


 会社に着くと、同僚たちが静かに迎えてくれた。

 拍手ではなかった。

 大げさな歓迎でもなかった。


 ただ、何人かが立ち上がり、目を潤ませながら「Welcome back」と言った。


 それで十分だった。


 一平は、胸の奥が詰まった。


 失われた同僚たちの席は戻らない。

 あの日の前の職場には戻れない。


 それでも、自分はここに来た。


 それが、一平の答えだった。


 同僚の遺族にも、それぞれの答えがあった。


 怒り続ける人。

 裁判や補償の手続きに向かう人。

 亡くなった家族の名前を残す活動を始める人。

 まだ何もできず、ただ毎日をやり過ごす人。


 どの答えも、間違いではなかった。


 悲しみ方も、生き方も、人によって違う。


 一平は、そのことを少しずつ受け入れるようになっていた。


 夕方、秋田家の庭先には人が集まった。


 ノアとその両親。

 マーカスとその家族。

 ジェシカ、ジェニー、トーマス、そしてローラ。


 ローラはまだ足に不安を抱えていたが、以前よりずっとしっかり歩けるようになっていた。


「Ippei, first day back. That deserves barbecue.」

(一平さん、初出勤の日ですもの。バーベキューに値しますね)


 一平は笑う。


「……ほんまに、ありがたいです」


 朝陽はノアのそばに立ち、少し照れた顔をしている。

 梓はマーカスと、火加減についてなぜか真面目に相談している。

 北斗とジェシカは、もう完全に別世界だった。


「北斗、肉焼けたで!」


「ジェシカ、それまだ半分生や!」


「ちゃいまんがな。これはニューヨーク流ミディアムや」


「都合よくニューヨーク出すな!」


「知らんけど!」


 その瞬間、庭に大きな笑い声が広がった。


 一平も、声を出して笑った。


 肋骨に少し響いた。

 でも、痛みよりも笑いの方が勝った。


 さくらはその笑いを聞いて、目を潤ませた。


 久しぶりだった。


 こんなふうに、家族と友人が集まり、食べて、笑って、くだらないことで盛り上がる時間。


 事件は消えない。

 傷も消えない。

 帰らない人もいる。


 でも、笑える日が戻ってきた。


 それは忘れたということではない。

 生きているということだった。


 食事のあと、一平はみんなの前で静かに言った。


「俺たちは、ここに残ります」


 朝陽がノアを見る。

 梓がマーカスを見る。

 北斗がジェシカを見る。


 一平は続けた。


「あの日、ここでたくさんのものを失いました。でも、そのあとで出会った縁もあります。俺は、その縁を大事にしたい」


 トーマスが頷く。


「We’re glad you’re staying.」

(残ってくれてうれしいです)


 ローラも言った。


「So are we.」

(私たちもです)


 ノアの母、マーガレットが微笑む。


「Then this is not goodbye.」

(では、これは別れではありませんね)


 さくらが頷いた。


「はい。これからも、よろしくお願いします」


 北斗が小さく言う。


「ジェシカ、大阪弁もっと覚えられるな」


 ジェシカは胸を張った。


「まかしとき」


 ジェニーが笑う。


「New York may never recover.」

(ニューヨークはもう元に戻れないかもね)


 また笑いが起きた。


 その夜、片づけが終わったあと、一平は庭の椅子に座っていた。


 松葉杖は横にある。

 体は疲れている。

 でも、心は少し軽かった。


 さくらが隣に座る。


「いい日だったね」


「うん」


「出勤も、バーベキューも」


 一平は空を見上げた。


 春の夜空だった。

 あの日から、空を見るのは怖かった。

 でも今日は、ほんの少しだけ穏やかに見えた。


「答えは、ひとつやないんやな」


「うん」


「残る人もおる。帰る人もおる。怒る人もおる。問い続ける人もおる」


 さくらは静かに頷いた。


「私たちは、ここで生きる」


 一平は、その言葉を胸に落とした。


「せやな」


 家の中から、北斗とジェシカの声が聞こえる。


「なんでやねん!」


「知らんけど!」


 一平はまた笑った。


 失ったものは大きすぎる。

 それでも、残されたものも確かにある。


 それぞれの答えは違っていい。


 秋田家の答えは、この街で、この人たちと、生き続けることだった。

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