小さな再生
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第43話
小さな再生
再生は、劇的には訪れなかった。
朝起きたらすべてが元に戻っている、そんな奇跡はない。
痛みは残る。
傷は残る。
記憶も、恐怖も、簡単には消えない。
それでも、ほんの少しずつ、動き始めるものがあった。
一平の容体は、ゆっくり安定してきていた。
右足首と右上腕部の骨折は、手術でボルトを入れて固定されている。最初は指を動かすだけでも顔を歪めていたが、今では医師や理学療法士の指示を受けながら、わずかに動かせるようになってきた。
「今日は、ここまで動かしてみましょう」
理学療法士が言う。
一平は額に汗を浮かべながら、右腕に意識を集中させる。
「……っ」
痛みはある。
鋭く、重く、身体の奥から跳ね返ってくるような痛み。
それでも、ほんの少し動いた。
「いいですよ。今の、かなり大きな一歩です」
一平は苦笑した。
「……これで、大きな一歩ですか」
「今の秋田さんには、大きな一歩です」
その言葉に、一平は黙って頷いた。
粉砕骨折した右肩も、肋骨の経過も、少しずつ落ち着いてきていた。肺の状態もまだ慎重な管理が必要だったが、以前より深く息を吸える時間が増えてきた。
全部が元通りになったわけではない。
でも、昨日より今日の方が、ほんの少し前へ進んでいる。
それだけで十分な日もあった。
⸻
同じ病院の別の病棟では、ローラ・モーガンも回復へ向かっていた。
右足にはまだギブスがある。
けれど、今ではジェシカやジェニーに支えられなくても、松葉杖を使って一人で廊下を歩けるようになっていた。
「Look, no hands from you two today.」
(見て、今日は二人の手を借りてないわよ)
ローラがそう言うと、ジェニーが腕を組んで言った。
「Mom, that is exactly when you should not get overconfident.」
(お母さん、そういう時こそ調子に乗っちゃだめ)
ジェシカがすかさず言う。
「なんでやねん、お母ちゃん」
ローラは吹き出しそうになりながら、松葉杖を止めた。
「Jessica, did you just call me ‘okaachan’?」
(ジェシカ、今私のこと“お母ちゃん”って呼んだ?)
ジェシカは胸を張る。
「せや。北斗に習うたんや」
ジェニーが目を丸くする。
「She doesn’t even need translation anymore.」
(もう通訳いらないじゃない)
ジェシカは、北斗との交流の中で、驚くほど日本語を覚えていた。
しかも、なぜか標準語ではなく、北斗が家で面白がって混ぜていた大阪弁の方が強く染みついている。
北斗と会うと、二人はもうほとんど通訳なしでやり合う。
「北斗、今日の宿題、ちゃんとやったんか?」
「なんでジェシカに言われなあかんねん」
「知らんけど、先生に怒られるんあんたやろ」
「ちゃいまんがな。僕はちゃんとやる男や」
「ほんまかいな」
「ほんまや」
近くで聞いていたさくらは、思わず額に手を当てた。
「北斗……あなた、どんな日本語を教えてるの」
北斗は悪びれない。
「実用的な会話」
朝陽が横から言う。
「偏りがすごい」
梓も笑う。
「ジェシカ、完全に大阪の子になってきてる」
ジェシカは得意げに言った。
「まいど」
一平は病室のベッドで、それを聞いて肩を揺らした。
「……あかん。笑ったら肋骨に響く」
それでも、笑いを止められなかった。
⸻
ジェシカの進化は、言葉だけではなかった。
ある日、北斗が病室へ駆け込んできた。
「お父さん、大ニュース」
「……何や」
「ジェシカ、阪神タイガースとオリックス・ブルーウェーブのファンになった」
一平は一瞬、痛みを忘れたような顔をした。
「……なんでや」
朝陽が笑う。
「それこそ、なんでやねんだね」
北斗は説明した。
衛星テレビで日本の野球中継を見られることがあり、北斗が何気なく阪神とオリックスの話をした。大阪に住んでいた頃、テレビで見ていたこと。応援の熱気。阪神の独特の盛り上がり。オリックス・ブルーウェーブの選手たち。
するとジェシカが食いついた。
「The Tigers sound loud. I like loud.」
(タイガースって賑やかそう。私、賑やかなの好き)
「BlueWave sounds cool too.」
(ブルーウェーブもかっこいい)
そして気づけば、ジェシカは両チームを応援するようになっていた。
「阪神、いけー!」
「オリックス、打ったれー!」
衛星テレビの前で、北斗とジェシカが並んで叫ぶ。
ジェニーが呆れたように言った。
「Jessica, do you even know the rules?」
(ジェシカ、ルール分かってるの?)
ジェシカは真顔で返す。
「だいたいや」
「That means no.」
(それ、分かってないってことね)
北斗が必死に説明する。
「いや、だいたい分かってる。ヒットとかホームランとか、アウトとか」
「あと“なんで今の振るねん”も分かるで」
ジェシカが自信満々に言った。
一平はその話を聞きながら、久しぶりに心の底から笑いそうになった。
身体はまだ痛い。
思うように動かない。
同僚を失った悲しみも、あの日の記憶も、消えない。
それでも、北斗とジェシカが衛星テレビの前で阪神とオリックスを応援している光景を想像すると、胸の奥に小さな灯りがともった。
事件がなければ、この縁はなかったかもしれない。
いや、そんなふうに事件を肯定したいわけではない。
あの日は絶対に許されない。
失われた命は戻らない。
でも、その瓦礫の中から、確かに人と人のつながりが生まれている。
ローラとさくら。
北斗とジェシカ。
ジェニーと朝陽、梓。
そして、一平自身も。
一平は、静かに思った。
この縁を、大切にしたい。
痛みの中で出会った縁だからこそ、粗末にしたくない。
傷ついた者同士が、ただ傷を見せ合うだけではなく、笑い合えるようになっていく時間。
それは、失ったものの代わりにはならない。
でも、生きていく支えにはなる。
⸻
その日の夕方、ローラが松葉杖で一平の病室まで歩いてきた。
ジェシカと北斗が少し前を歩き、ジェニーが後ろから見守っている。
ローラは病室の入口で笑った。
「I walked all the way here today.」
(今日はここまで自分で歩いて来ました)
一平は目を細めた。
「……すごいですね」
ローラは松葉杖を少し持ち上げた。
「Slowly. But I walked.」
(ゆっくりだけど、歩きました)
一平は頷いた。
「……俺も、少しずつ動かしてます」
「Then we’re both making progress.」
(じゃあ、私たち二人とも前進中ですね)
「ぼちぼちでんな」
一平がそう言うと、ジェシカが即座に反応した。
「せやせや、ぼちぼちでんがな」
北斗が笑う。
「ジェシカ、それ微妙に混ざってる」
「ええねん、通じたら勝ちや」
病室にまた笑いが広がった。
さくらがその様子を見て、そっと目を細める。
朝陽も、梓も、久しぶりに肩の力を抜いていた。
小さな再生。
それは、壊れたものが元通りになることではない。
傷が消えることでもない。
悲しみを忘れることでもない。
今日より少しだけ歩ける。
昨日より少しだけ笑える。
怖かった言葉を、少しだけ口にできる。
誰かの痛みに、自分の痛みを重ねすぎず、それでも寄り添える。
それが、再生なのかもしれなかった。
一平は、北斗とジェシカがまた大阪弁でやり合うのを聞きながら、ゆっくり息を吸った。
肺はまだ少し痛む。
でも、前より深く吸えた。
窓の外には、夕方の空があった。
あの日以来、見るのが怖かった空。
それでも今日は、ほんの少しだけ、見上げることができた。
そして一平は思った。
帰りたい。
そして、帰ったらこの縁を大事にしよう。
家族と。
つばめと。
ローラたちと。
北斗とジェシカの、妙な大阪弁混じりの友情と。
失ったものは戻らない。
でも、残ったものから、また何かが育つことはある。
その小さな芽を、今度こそ守りたいと思った。




