それでも朝は来る
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第42話
それでも朝は来る
さくらは、朝が怖かった。
夜が明ける。
窓の外が白くなる。
街が動き出す。
台所に立つ。
お湯を沸かす。
味噌汁の匂いがする。
その流れが、あの日の朝へつながってしまう。
一平が弁当を持って家を出た朝。
「行ってきます」と言った朝。
子どもたちが学校へ向かった朝。
その数時間後、世界が壊れた。
だから、朝が来るたびに、さくらの胸は少し縮んだ。
また何かが起きるのではないか。
また誰かが帰ってこないのではないか。
また電話が鳴り、病院からの声が聞こえるのではないか。
そう思ってしまう。
それでも朝は来た。
カーテンの隙間から光が入り、つばめが足元で小さく鳴く。
北斗はまだ眠っている。
梓の部屋のドアは閉まっている。
朝陽はそろそろ起きる時間だ。
さくらは深く息を吸った。
怖い。
でも、起きなければならない。
台所に立つ。
鍋を出す。
火をつける。
手は少し震えていた。
けれど、今日は座り込まなかった。
味噌汁の湯気が上がる。
その湯気を見ながら、さくらは思った。
私たちにできることは何だろう。
テロを起こしたイスラム過激派組織は、絶対に許せない。
一平を傷つけ、多くの命を奪い、数えきれない家族を壊した。
その怒りは消えない。
消す必要もない。
けれど、そこで止まってはいけない気もした。
なぜ、あのような過激な思想に人が取り込まれていったのか。
何が怒りを憎しみに変え、憎しみを暴力に変えたのか。
誰がその心を利用したのか。
イスラム教徒が悪いわけではない。
イスラムの教えそのものが悪いわけでもない。
信仰を、暴力の道具に変えた者たちがいる。
人の絶望や怒りに入り込み、それを殺意へ変えた者たちがいる。
そこを考えなければ、また同じ悪夢が繰り返されるのではないか。
さくらは、味噌汁をかき混ぜながら目を閉じた。
朝陽にも、梓にも、北斗にも、人を恨み続ける人生を歩んでほしくない。
憎しみだけで世界を見るようになってほしくない。
怒りを抱えてもいい。
悲しんでもいい。
許せなくてもいい。
でも、憎しみの中に住み続けてほしくない。
それは母としての、率直な願いだった。
朝陽が台所に入ってきた。
「お母さん、起きてたの?」
「うん」
「大丈夫?」
さくらは少しだけ笑った。
「怖いけど、大丈夫」
朝陽はその言葉に、少し驚いた顔をした。
以前なら、さくらは「大丈夫」とだけ言っただろう。
でも今日は違った。
怖い。
でも、大丈夫。
その二つを並べて言えた。
梓も起きてきた。
北斗も眠そうな目で食卓につく。
つばめが足元を歩く。
さくらは味噌汁を並べた。
「ねえ、みんな」
三人が顔を上げる。
「私たち、これから少しずつ考えていこう」
朝陽が聞く。
「何を?」
「どうやって生きていくか。何を憎んで、何を憎まないか」
食卓が静かになった。
さくらは続けた。
「あのテロを起こした人たちは許せない。組織も、思想をねじ曲げた人たちも。でも、だからといって、同じ宗教の人全部を憎むのは違うと思う」
梓が小さく頷いた。
「学校でも……イスラム系の子が気まずそうにしてる」
朝陽も言った。
「ノアも言ってた。怒りが向かう場所を間違えたら、また誰かを傷つけるって」
北斗は少し考えてから言う。
「じゃあ、悪いのは、悪いことした人?」
さくらは頷いた。
「そう。少なくとも、お母さんはそう思う」
北斗は味噌汁の椀を見つめた。
「ジェシカも、同じこと言ってた。クラスで、誰かがイスラムの人のこと悪く言って、先生が止めた」
「そう」
「僕、よく分かんないけど……お父さんに悪いことした人は嫌い。でも、関係ない人まで嫌いになるのは、なんか違うと思う」
さくらは、北斗の言葉を聞いて目頭が熱くなった。
「うん。それでいいと思う」
一平はまだ病院にいる。
あの日の前には戻れない。
失った命は戻らない。
街も家族も、心に傷を負ったままだ。
それでも、朝は来る。
怖くても、来る。
泣いても、来る。
怒っていても、来る。
だから人は、その朝に何を置くかを選ばなければならない。
憎しみだけを置くのか。
悲しみも怒りも抱えたまま、それでも考えることをやめないのか。
さくらは、子どもたちを見た。
この子たちには、考える人でいてほしい。
傷ついたからこそ、人を雑に憎まない人でいてほしい。
「今日、病院に行ったら、お父さんにも話そう」
朝陽が頷いた。
梓も頷いた。
北斗は少しだけ迷ってから言った。
「お父さん、また泣くかな」
さくらは微笑んだ。
「泣いてもいいよ」
つばめが食卓の下で鳴いた。
北斗が笑う。
「つばめも、そう言ってる」
その小さな笑いが、朝の食卓に戻った。
完全な明るさではない。
何もなかった頃の笑いでもない。
けれど、それでも笑いだった。
さくらは窓の外を見た。
空は青かった。
まだ少し怖い青だった。
でも、その青の下で、今日も一日が始まる。
壊れた世界の中で、何を選んで生きるのか。
秋田家は、その問いに少しずつ向き合い始めていた。




