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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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生きるということ

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』

 第44話

 生きるということ


 病院の窓の外では、少しずつ季節が進んでいた。


 一平はまだ入院している。

 ローラもまだ完全には退院できない。

 けれど、二人とも少しずつ回復に向かっていた。


 そして、残された家族たちは思い始めていた。


 このまま、ただ傷ついた家族として別々に耐えていくだけでいいのか。


 せっかくつながった縁を、事件の痛みの中だけに置いておきたくない。

 悲しみだけで終わらせたくない。

 怒りだけで生きていきたくない。


 その思いから、秋田家、モーガン家、ノアの家族、マーカスの家族が集まることになった。


 ローラはまだ病院にいるため来られなかった。

 一平も同じだ。

 けれど、二人の思いは家族が持ってきていた。


 モーガン家からは、ジェシカ、姉のジェニー、そして父親のトーマス・モーガンが来た。

 トーマスは穏やかな目をした大柄な男性で、事件後、仕事を続けながら、家事とローラの看病と二人の娘の支えを必死に担っていた。


 ノアの家族からは、父ダニエル・リード、母マーガレット・リード。

 マーカスの家族からは、父サミュエル・ブラウン、母エレン・ブラウンが来た。


 小さなリビングは、いつもより人でいっぱいだった。

 つばめは最初こそ警戒していたが、やがてジェシカの膝に飛び乗った。


「つばめ、まいど」


 ジェシカが小声で言うと、北斗が吹き出した。


「猫に“まいど”はおかしいやろ」


「ちゃいまんがな。これは国際交流や」


 そのやり取りに、少しだけ笑いが起きた。


 笑える。

 それだけでも、以前より前へ進んでいる気がした。


 さくらは、湯気の立つ紅茶を配りながら言った。


「今日は、来てくださってありがとうございます」


 トーマスが首を振る。


「We should be thanking you. Jessica talks about Hokuto and your family every day.」

(感謝するのはこちらです。ジェシカは毎日、北斗くんと秋田家の話をしています)


 ジェシカが胸を張る。


「せや」


 ジェニーが小さく肘でつつく。


「Not every serious moment needs Japanese commentary.」

(真面目な場面全部に日本語コメントを入れなくていいの)


「知らんけど」


 また小さな笑いが広がった。


 けれど、すぐに空気は静かになった。


 さくらが深く息を吸う。


「私たちは、たくさん失いました。一平さんも、ローラさんも、今も病院で闘っています。学校にも、家族を亡くした子がいます。帰ってこなかった人が、たくさんいます」


 誰も茶化さなかった。


「でも、これからどう生きるのかを、少しずつ考えたいんです」


 ノアの父、ダニエルが頷く。


「That’s the only thing left for us to do, maybe.」

(もしかすると、それが私たちに残された唯一のことなのかもしれません)


 マーカスの母、エレンが言った。


「But it’s hard to know where to begin.」

(でも、どこから始めればいいのか分からないですね)


 さくらは、テーブルの上に一枚の紙を置いた。


「まず、知りたいんです」


 そこには、公開質問状の草案が書かれていた。


 宛先は、ホワイトハウスとペンタゴン。


 内容は、怒りにまかせたものではなかった。

 けれど、問いははっきりしていた。


 今回の事件にあたり、事前にどのような情報を把握していたのか。

 テロ計画の兆候はあったのか。

 それを防ぐことはできなかったのか。

 できなかったのなら、何が足りなかったのか。

 今後、同じ悲劇を繰り返さないために、何を変えるのか。


 トーマスは紙を手に取り、静かに読んだ。


「This is not revenge.」

(これは復讐ではありませんね)


 さくらは頷いた。


「はい。責めたいだけではありません。でも、知らなければ、前に進めないと思うんです」


 ダニエルが言う。


「People will say this is too soon.」

(早すぎると言う人もいるでしょう)


「そうかもしれません」


 さくらは答えた。


「でも、遅すぎてもいけないと思います」


 マーガレットが静かに言った。


「A public question is different from public hatred.」

(公開の問いかけは、公の憎しみとは違います)


 エレンも頷く。


「We can sign it as families affected by the attack. Not as experts. Not as politicians. As families.」

(専門家でも政治家でもなく、事件で傷ついた家族として署名できます)


 朝陽はその言葉を聞いて、少し背筋を伸ばした。


 ただ泣いているだけではなく、問いを出す。

 それは、父が生き残った意味を無理に決めることではない。

 けれど、何もしないまま沈んでいかないための一歩に思えた。


 梓が言った。


「でも、もうひとつあると思う」


 みんなが梓を見る。


 梓は少し緊張しながら続けた。


「学校で、イスラム教徒の子がすごく気まずそうにしてる。事件を起こした人たちとは関係ないのに、空気で責められてるみたいになってる」


 マーカスが頷いた。


「I’ve seen that too.」

(僕も見た)


 北斗も言った。


「うちの学校でもあった。先生が止めたけど」


 さくらはゆっくり頷いた。


「私も、それを考えていました」


 そして、少しだけ自分の胸に手を置いた。


「私は仏教徒です。日本で育って、仏壇に手を合わせる暮らしがありました。でも、ここに来て、ノアのご家族も、マーカスのご家族も、ジェシカのご家族も、キリスト教徒として生活している。それでも私は孤立しませんでした」


 さくらはみんなを見回した。


「信じるものが違っても、私はここで受け入れてもらえました」


 部屋が静かになる。


「だから、今度は私たちが、イスラム教徒の方たちと敵対するのではなく、話せる場を作れないかと思うんです」


 トーマスは腕を組み、少し考えた。


「There will be anger.」

(怒りはあるでしょう)


「はい」


「Some people won’t want dialogue.」

(対話なんてしたくない人もいる)


「それも分かります」


 さくらの声は震えていた。

 でも、逃げなかった。


「私も、許せない気持ちはあります。一平さんを傷つけた人たちを、許すことはできません。でも、イスラム教徒全体を憎むこととは違うはずです」


 マーガレットが静かに言った。


「Maybe we start small.」

(小さく始めればいいのかもしれません)


 エレンが続ける。


「A school meeting. Families. Clergy if possible.」

(学校での集まり。家族同士。可能なら宗教者も)


 ダニエルが頷く。


「Christian, Buddhist, Muslim, Jewish if families want to join. Not a debate. A listening circle.」

(キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、参加したい家族がいれば。討論ではなく、聞き合う場です)


 さくらは、その言葉に深く頷いた。


「聞き合う場……」


 ジェニーが言った。


「Kids need that too. Adults are scared, but kids are absorbing everything.」

(子どもたちにも必要です。大人が怖がっている空気を、子どもたちは全部吸い込んでいます)


 朝陽はノアを見た。

 梓はマーカスを見た。

 北斗はジェシカを見た。


 子どもたちも、もう当事者だった。


 トーマスが紙をテーブルに戻す。


「Then we do both.」

(では、両方やりましょう)


 さくらが顔を上げる。


「両方?」


「We ask the government what it knew and what it will change. And we build something here, among neighbors, so fear doesn’t become hatred.」

(政府には、何を知っていたのか、何を変えるのかを問う。そして私たちはこの地域で、恐怖が憎しみに変わらないための場を作る)


 その言葉に、全員が静かに頷いた。


 それは大きな運動ではない。

 世界をすぐ変える力もない。

 でも、生きるということは、こういう小さな選択を積み重ねることなのかもしれなかった。


 怒りを持ったまま、問いを立てる。

 悲しみを抱えたまま、隣の人を憎まない。

 恐怖を抱えたまま、子どもたちに別の道を見せる。


 北斗がぽつりと言った。


「なんか、難しいけど……ジェシカとけんかしたくない」


 ジェシカが頷く。


「うちもや。北斗とは、なんでやねん言い合う仲やからな」


 部屋にまた笑いが起きた。


 さくらは、その笑いを聞きながら思った。


 これが、生きるということなのかもしれない。


 傷がある。

 怒りもある。

 許せないこともある。

 でも、それでも誰かとつながろうとする。


 一平とローラは、まだ病院にいる。

 でも、退院した時、このつながりを見せたいと思った。


 私たちは、壊されただけでは終わらなかった。

 そう伝えたいと思った。


 その夜、公開質問状の草案には、家族たちの名前が少しずつ書き込まれていった。


 秋田さくら。

 朝陽。

 梓。

 北斗。

 トーマス・モーガン。

 ジェニー。

 ジェシカ。

 ダニエル・リード。

 マーガレット・リード。

 ノア。

 サミュエル・ブラウン。

 エレン・ブラウン。

 マーカス。


 名前は小さかった。

 でも、その一つひとつが、生きている人間の意志だった。


 あの日、空は裂けた。


 けれど、その裂け目の下で、人はまだ、誰かの手を取ることができる。


 そのことを、彼らはこの夜、初めて確かめ合った。

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