向き合えない記憶
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第41話
向き合えない記憶
一平は、事故の日の記憶を思い出そうとすると、必ず途中で息が詰まった。
朝の食卓までは思い出せる。
さくらの味噌汁。
朝陽の少し眠そうな顔。
梓がノートを確認していた姿。
北斗が飛行機の図鑑を横に置いていたこと。
つばめが椅子の脚の間を歩いていたこと。
玄関で「行ってきます」と言った。
ランチバッグを受け取った。
ドアを閉めた。
そこまでは、はっきり覚えている。
そのあと、バスが遅れた。
時計を見た。
五分ほどの遅れに、少し苛立った。
それから、世界貿易センターへ向かった。
そこから先は、霧の中だった。
巨大な音。
低すぎる飛行機。
見上げた空。
銀色の影。
爆発。
熱。
地面に叩きつけられる感覚。
そこで記憶は途切れる。
その先を思い出そうとすると、胸が締めつけられ、肺がうまく動かなくなった。
「秋田さん、無理に思い出そうとしなくていいですよ」
担当医はそう言った。
けれど、一平は首を振った。
「でも……思い出さなあかん気がするんです」
「なぜですか」
一平はしばらく黙った。
「……自分だけ、途中で切れてるからです」
同僚たちは、ビルの中にいた。
飛行機に乗っていた人たちは、最後の瞬間まで恐怖の中にいた。
消防隊員たちは、塔の中へ入っていった。
なのに自分の記憶は、途中で途切れている。
それが、逃げているように思えてしまう。
医師は静かに答えた。
「記憶が途切れているのは、あなたの心と身体が生き残るためにしたことです」
一平は目を伏せた。
生き残るため。
その言葉が、まだ重かった。
朝陽もまた、記憶に向き合えずにいた。
彼女の場合、忘れられないのは学校のテレビ画面だった。
教室の前に置かれたテレビ。
煙を上げる塔。
担任の強張った顔。
ノアが息をのんだ声。
そして、自分が言った言葉。
「My dad is there.」
(お父さんがあそこにいる)
その瞬間、教室の空気が変わった。
ニュースが、自分の現実になった。
それを思い出すと、朝陽は胸が苦しくなる。
学校で誰かがテレビをつけるだけで、体が固まる。
ニュース番組の速報音が流れると、手が冷たくなる。
ノアは、何度もそばにいようとした。
「You don’t have to watch it.」
(見なくていいんだよ)
「分かってる」
「Then why do you keep looking?」
(じゃあ、どうして見続けるの?)
朝陽は答えられなかった。
見たくない。
でも、見ないといけない気がする。
父が巻き込まれた日。
たくさんの人が亡くなった日。
それを見ないことが、逃げているように感じてしまう。
でも、見ると壊れそうになる。
朝陽は小さく言った。
「I don’t know how to stop remembering.」
(どうやったら思い出すのを止められるのか分からない)
ノアは何も言わず、ただ隣に座った。
その沈黙だけが、少し救いだった。
梓は、病院の廊下を思い出せなかった。
正確には、思い出せないのではなく、思い出したくなかった。
白い廊下。
消毒液の匂い。
手術室のランプ。
医師の説明。
ストレッチャーで運ばれてきた父の姿。
あれを思い出すと、体の奥が冷たくなる。
だから梓は、別のことを確認する。
鍵。
窓。
電話。
メモ。
さくらの呼吸。
北斗の寝顔。
確認している間だけは、記憶を見なくて済む。
マーカスは、ある日それに気づいた。
「Azusa, you’re checking the door again.」
(梓、またドアを確認してる)
梓は手を止めた。
「……分かってる」
「Do you want me to stand here while you don’t check it?」
(確認しない間、ここに一緒に立ってようか)
梓は驚いてマーカスを見た。
「何それ」
「Maybe not checking is easier if you’re not alone.」
(一人じゃなければ、確認しないでいるのも少し楽かもしれない)
梓はしばらく黙った。
そして、ドアノブから手を離した。
一分。
二分。
三分。
不安は消えない。
でも、マーカスが隣にいる。
梓は震える声で言った。
「怖い」
マーカスは頷いた。
「I know.」
(分かるよ)
「分かんないでしょ」
「全部は分からない。でも、ここにはいる」
梓は、泣きそうになった。
確認できない現実に耐えるには、誰かが隣にいるだけで少し違うのだと、初めて思った。
北斗は、飛行機の図鑑を開こうとして、また閉じた。
表紙の旅客機は、前と同じようにかっこいい。
でも、もうその先のページへ進めない。
ジェシカは、それを無理に開かせようとはしなかった。
ある日、学校の図書室で、ジェシカは別の本を持ってきた。
「This one has trains.」
(これ、列車の本だよ)
北斗は顔を上げた。
「列車?」
「Your dad likes trains, right?」
(お父さん、列車が好きなんでしょ?)
「うん」
北斗は本を受け取った。
中には、アメリカの鉄道や古い機関車の写真が載っていた。
飛行機ではない。
でも、どこかへ人を運ぶもの。
北斗はページをゆっくりめくった。
「お父さん、こういうの好きかも」
ジェシカは笑った。
「Then maybe you can show him.」
(じゃあ、今度お父さんに見せられるね)
北斗は頷いた。
その夜、北斗は飛行機の図鑑ではなく、その鉄道の本を抱えて眠った。
逃げているのかもしれない。
でも今は、それでもよかった。
向き合えないものに、無理やり向き合わなくてもいい。
遠回りでも、人は少しずつ戻っていく。
さくらは、家の中の音が怖かった。
コップが落ちる音。
ドアが強く閉まる音。
電話のベル。
台所のタイマー。
何でもない音が、あの日の音に変わる。
子どもたちの前では平気な顔をしようとする。
でも、身体は先に反応する。
ある日、味噌汁の鍋の蓋がずれて、金属音が鳴った。
さくらはその場でしゃがみ込んでしまった。
朝陽が駆け寄る。
「お母さん!」
さくらは手で顔を覆った。
「ごめん……ごめんね……」
謝ることではない。
でも、謝るしかなかった。
母親なのに怖がっている。
母親なのに子どもに心配されている。
母親なのに、まだ立て直せていない。
その思いが、さくらをさらに追い詰めた。
ホームドクターは言った。
「怖がる反応は、異常ではありません。あれほどの出来事の後です。心が危険を覚えているんです」
さくらは泣きながら頷いた。
心が覚えている。
忘れたいのに。
身体は忘れてくれない。
週末、家族は病院へ向かった。
一平は、その日少しだけ長く起きていた。
北斗が鉄道の本を見せた。
「お父さん、これ見て。アメリカの列車」
一平は、少しだけ目を細めた。
「……ええな」
「飛行機の本は、まだ無理」
北斗は正直に言った。
一平は、ゆっくり頷いた。
「……無理せんでええ」
北斗は少し驚いた。
「いいの?」
「ええ。列車からでええ」
その言葉に、北斗の表情が少し緩んだ。
朝陽は病室の窓の外を見た。
空がある。
でも、まだ怖い。
「お父さん」
「ん……」
「空、見るの怖い?」
一平はしばらく黙った。
「……怖いな」
その答えに、朝陽は少しだけ救われた。
怖いのは、自分だけではない。
父も怖い。
梓は、病室のドアを見た。
確認したい。
ちゃんと閉まっているか確かめたい。
でも、今日は少しだけ我慢した。
さくらは、その様子を見ていた。
みんな、少しずつ戦っている。
見えない記憶と。
向き合えない場面と。
戻れない日常と。
帰り際、一平が言った。
「……みんな」
四人が振り返る。
「無理に、思い出さんでええ」
その声は、かすれていた。
でも、確かだった。
「俺も……まだ無理や」
さくらは頷いた。
朝陽も、梓も、北斗も頷いた。
向き合えない記憶がある。
今は、それでいい。
向き合える日が来るまで、誰かと一緒にいればいい。
病室の窓の外では、空が青かった。
その青さは、まだ痛かった。
でも、家族はその空を、ほんの少しだけ一緒に見上げた。




