それぞれの喪失
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第40話
それぞれの喪失
失ったものは、命だけではなかった。
一平は、病室の天井を見つめながら、何度も同じことを考えていた。
同僚の笑顔。
朝のロビーで交わした挨拶。
エミリーが持っていた紙コップ。
デイビッドが読みながら歩いていた資料。
ラモスがいつも少しだけ顎を上げる仕草。
そのすべてが、もう戻らない。
彼らには家族がいた。
家に帰れば、誰かが待っていた。
子どもの写真を机に置いていた人もいた。
週末の予定を話していた人もいた。
親の介護の話をしていた人もいた。
その人たちの生活ごと、あの日に引き裂かれた。
一平は生き残った。
五分遅れたバスのせいで。
いつもより少しだけ遅くビルに着いたせいで。
その偶然が、命を分けた。
「……なんで俺なんや」
その問いは、誰にも答えられない。
さくらは何度も言った。
「あなたが悪いんじゃない」
「生きていてくれてよかった」
「それだけでいい」
分かっている。
頭では分かっている。
でも、心が追いつかない。
自分が生きていることが、時々、誰かの席を奪ったように感じてしまう。
そんなはずはないのに。
そんな考えは間違っているのに。
それでも、胸の奥で声がする。
お前はなぜ、ここにいる。
あの人たちはなぜ、帰れなかった。
一平は目を閉じた。
すると、今度は別のことを考えてしまう。
あの飛行機の中にいた人たちは、何を見たのだろう。
異常な低空飛行。
窓の外に迫るビル群。
叫び声。
混乱。
自分たちがどこへ向かっているのか分からない恐怖。
そして、最後の瞬間。
その想像は、あまりにも残酷だった。
でも、考えずにはいられなかった。
自分は爆発に巻き込まれた。
地上で。
ビルの近くで。
一瞬の轟音の中で。
だが、飛行機の中にいた人たちは、その前の数分をどう過ごしたのか。
その問いもまた、一平の心を削っていった。
⸻
数日後、ニュースで、ハイジャックされた機内から地上へ伝えられた緊急連絡の一部が報じられた。
完全な音声ではない。
遺族への配慮から、多くは伏せられている。
だが、クルーが異常事態を知らせようとした記録、地上側との断片的なやり取り、そして機内で起きていた混乱の一部が、慎重に伝えられた。
病室のラジオから、そのニュースが流れた。
一平は最初、聞くつもりはなかった。
だが、指が動かなかった。
ラジオを止めることができなかった。
アナウンサーの声が低くなる。
「公開された記録には、機内で異常事態が発生したことを地上のクルーへ伝えようとする声が含まれていました」
短い間。
そして、再現ではなく、記録された音声の一部として紹介される。
雑音。
荒い呼吸。
切迫した声。
“We have a situation on board…”
(機内で異常事態が起きています……)
音声はすぐに途切れる。
別の断片。
“We’re flying too low… too low…”
(高度が低すぎます……低すぎる……)
地上側の声。
“Say again? Can you confirm your altitude?”
(もう一度お願いします。高度を確認できますか?)
応答は乱れている。
そして、アナウンサーの声が重なる。
「この後、機体はニューヨーク市街上空を異常な低空で飛行していたとみられています」
病室が、急に狭くなったように感じた。
一平の胸が苦しくなる。
肺の痛みとは違う。
心臓を掴まれるような苦しさ。
ラジオは続く。
「公開された記録の最後には、機内の人物が窓外の建物を確認したとみられる音声も残されています」
一平は息を止めた。
雑音の中、震えた声。
“There’s a building… oh God…”
(ビルが見える……神よ……)
次の音声は、ほとんど言葉になっていなかった。
恐怖と絶望と祈りが混ざった、短い声。
自分は死ぬ。
そう悟った人間の声だった。
ラジオはすぐに音声を止めた。
アナウンサーは、それ以上の詳細を語らなかった。
一平は、目を閉じた。
涙が流れた。
会ったこともない人の声だった。
名前も知らない。
顔も知らない。
それでも、その声は一平の中に刺さった。
飛行機に乗っていた人たちも、ただ朝を生きていた。
どこかへ行くはずだった。
仕事か、家族のもとへか、予定のある場所へ。
それが、突然奪われた。
一平はかすれた声で言った。
「……怖かったやろな」
病室には誰もいなかった。
それでも、その言葉は消えなかった。
「どれだけ……怖かったやろな……」
⸻
その日、さくらが病室へ来た時、一平はいつもより消耗していた。
「どうしたの」
一平はしばらく答えなかった。
やがて、ラジオのことを話した。
機内からの声。
低空飛行。
迫るビルの影。
死を悟った声。
さくらは言葉を失った。
一平はゆっくり言った。
「俺は、外におった。何が起きたかも分からんうちに吹き飛ばされた」
「うん」
「でも、あの人らは……分かってもうたんやな」
さくらは椅子に座り、一平の左手を握った。
一平の声は震えていた。
「怖かったやろな。家族のこと、思ったやろな。誰かに言いたいこと、あったやろな」
さくらは涙をこらえられなかった。
「そうね……」
「それが、何の関係もない人らやったんや」
一平は目を閉じた。
「同僚も、飛行機の人も、消防士も、通りにおった人も……みんな、それぞれ家族がおった」
それぞれの喪失。
その言葉が、さくらの胸にも落ちた。
犠牲者という大きな言葉の中に、一人ひとりの生活がある。
父がいて、母がいて、子どもがいて、友人がいて、職場があって、好きな食べ物があって、週末の予定があった。
それが全部、まとめて消された。
「……許せへん」
一平が言った。
その声は、怒鳴り声ではなかった。
むしろ、とても静かだった。
だからこそ、深かった。
「でも、憎んでも……戻らへん」
さくらは頷いた。
「うん」
「じゃあ、どうしたらええんやろな」
その問いに、さくらは答えられなかった。
答えられる人など、どこにもいなかった。
⸻
夜、秋田家でも同じニュースが流れた。
朝陽は途中で部屋を出た。
聞いていられなかった。
ノアから電話が来たが、しばらく出られなかった。
受話器の前で立ち尽くす。
あの機内の声が、頭から離れない。
ようやく出ると、ノアはすぐに言った。
「You heard it, didn’t you?」
(聞いたんだね)
朝陽は小さく答えた。
「Yeah.」
(うん)
「I wish they hadn’t played it.」
(流さないでほしかった)
「でも、知らなきゃいけない気もする」
ノアは黙った。
朝陽は受話器を握りしめた。
「I hate that both are true.」
(その両方が本当なのが嫌)
梓は、マーカスに電話で言った。
「飛行機に乗ってた人たちのこと、今までちゃんと考えられてなかった」
マーカスは静かに答えた。
「No one can think about everything at once.」
(全部を一度に考えることなんて、誰にもできないよ)
「でも、いたんだよね。そこに」
「うん」
「声が……残ってた」
梓は泣いた。
北斗は、ラジオを聞いたあと、飛行機の図鑑を本棚の奥から出した。
開けなかった。
ただ、表紙を見た。
そこに描かれた旅客機は、前と同じだった。
でも、もう同じには見えなかった。
「お母さん」
「なに?」
「飛行機って、悪いものじゃないよね」
さくらは少し息をのんだ。
そして、北斗の隣に座った。
「悪いものじゃないよ」
「でも、悪いことに使われた」
「うん」
「それが嫌だ」
「お母さんも、嫌」
北斗は図鑑を抱きしめた。
「また好きになれるかな」
さくらは北斗の肩を抱いた。
「時間がかかってもいいよ」
⸻
一平は、その夜、眠れなかった。
同僚の顔。
飛行機の中の声。
崩れた塔。
帰らない人々。
すべてが、別々の喪失として胸の中に並んでいた。
誰かの父。
誰かの母。
誰かの子ども。
誰かの友人。
誰かの同僚。
誰かの大切な人。
そして自分は、生き残った。
その意味は、まだ分からない。
分からないまま、生きるしかない。
一平は、窓の外の夜を見た。
病院の窓から見える空は狭い。
それでも、そこに空はあった。
あの日、裂けた空。
恐怖を運んだ空。
それでも、人がいつかまた見上げなければならない空。
一平は小さく呟いた。
「……帰りたい」
それは、家に帰りたいという意味でもあり、あの日の前の世界へ帰りたいという意味でもあった。
けれど、後者はもう叶わない。
だから一平は、せめて前者を支えにした。
さくらのいる家へ。
朝陽、梓、北斗のいる家へ。
つばめが待つ部屋へ。
戻る。
失ったものが大きすぎるからこそ、残されたものにしがみつくしかなかった。
それが今、一平にできる唯一のことだった。




