崩れた心
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第39話
崩れた心
午後の光が、病室の白い壁を鈍く照らしていた。
一平は、その光をぼんやりと見つめていた。
意識が戻ってから数日。
身体の痛みは相変わらずだったが、それ以上に、頭の中に浮かんでくるものが変わり始めていた。
それは、あの日の“前”のことだった。
朝の通勤。
バスの窓から見える街。
同じ時間に乗る人たち。
交わす何気ない挨拶。
そして――同僚たち。
「……先生」
一平がかすれた声で呼ぶ。
巡回に来ていた医師が足を止めた。
「どうされましたか」
「……一緒に働いとった人たち……」
言葉を探すように、一拍置く。
「無事なんですか」
医師は、ほんのわずかに表情を曇らせた。
すぐには答えなかった。
「……現時点では、個別の安否についてはこちらでは把握しておりません」
その言葉は、慎重だった。
けれど、その慎重さが、逆に現実を物語っていた。
「……そうですか」
一平はそれ以上聞かなかった。
だが、その沈黙の中で、ひとつの記憶がはっきりと浮かび上がってきた。
あの日の朝。
バスが、珍しく遅れていた。
五分。
ほんの五分。
渋滞で、進まなかった。
時計を見て、少し苛立った。
「今日はついてないな」と思った。
その五分がなければ。
自分は、いつも通りの時間にビルに入っていた。
その五分があったから。
自分は、まだ外にいた。
「……五分」
一平は、小さく呟いた。
「たった五分やったんや」
その五分が、生と死を分けた。
その事実が、ゆっくりと、一平の胸の奥に沈んでいく。
その日の夕方、さくらが病室に来た。
一平は、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「さくら……」
「うん」
「会社に……聞いてくれへんか」
さくらは、すぐに意味を理解した。
「同僚のこと?」
一平は、目を閉じたまま頷いた。
「……知りたい」
それは、知るのが怖い問いだった。
でも、知らないままではいられなかった。
さくらは、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
数日後、日本商事本社からの連絡が入った。
電話口の声は、いつも以上に慎重だった。
「秋田様……」
さくらは、息を止めた。
「ニューヨーク支店の状況について、ご報告いたします」
言葉が、ひとつひとつ選ばれているのが分かる。
「当日、世界貿易センター内にいた社員のうち……」
一瞬、間があいた。
「衝突したフロアより上層階にいた社員は、避難が間に合わず……」
その先は、言わなくても分かった。
「……ビルの崩落とともに」
さくらの手が震えた。
「現在、死亡が確認された方もいらっしゃいますが……」
「……が?」
「遺体の確認が困難なケースも多く、正式には“安否不明”として扱われている方も多数おります」
安否不明。
その言葉が、重く落ちた。
「名前は……」
さくらは聞いた。
そして、その名前の中に、一平が毎日顔を合わせていた人たちが含まれていることを知った。
デイビッド。
ラモス。
エミリー。
朝のコーヒーを一緒に飲んだ人たち。
冗談を言い合った人たち。
仕事で意見をぶつけた人たち。
その人たちが――戻らない。
病室に戻ったさくらは、すぐには言えなかった。
ベッドの横に座り、一平の顔を見つめる。
一平は、その空気で分かってしまった。
「……あかんかったか」
さくらの目から涙がこぼれた。
「……うん」
一平は、ゆっくりと目を閉じた。
「……上の階やったんやな」
さくらは頷いた。
「避難が……間に合わなかったって」
一平の呼吸が、少しだけ乱れた。
「……そうか」
それだけ言って、黙った。
だが、その沈黙の中で、何かが崩れ始めていた。
あの日の朝が、頭の中で何度も再生される。
バスが遅れたこと。
時計を見たこと。
少しイライラしたこと。
その五分。
その五分がなければ。
自分は、あのビルの中にいた。
あの人たちと同じ場所にいた。
「……なんでや」
一平の声が、震えた。
「なんで……俺だけ」
さくらは何も言えなかった。
言える言葉が、なかった。
「一緒に……おったはずやろ」
一平の目から、涙が流れた。
「なんで……俺だけ外におって……」
呼吸が荒くなる。
「なんで……あの人らは……」
声が、途切れた。
その先の言葉は、言葉にならなかった。
怒りでもない。
悲しみでもない。
後悔でもない。
その全部が混ざり合って、壊れていく音だった。
「……俺が」
一平は、震える声で言った。
「俺が、代わりに……」
「違う!」
さくらが強く言った。
病室に、その声が響いた。
「違うよ」
一平が驚いたように目を開ける。
「あなたが助かったのは、“たまたま”じゃない」
さくらの声は震えていた。
でも、はっきりしていた。
「あなたが生きてることに、意味をつけなくていい」
涙が流れる。
「でも……その代わりに誰かが死んだって考えたら、あなたが壊れる」
一平は、何も言えなかった。
さくらは、一平の手を握った。
「あなたは、あなたとして生きて」
その言葉は、優しかった。
でも、簡単な言葉ではなかった。
一平は、目を閉じた。
胸の中で、何かが音を立てて崩れていた。
同僚たちの顔が浮かぶ。
笑っている顔。
話している声。
仕事をしている姿。
もう会えない。
その現実が、ようやく形を持った。
夜、一平は眠れなかった。
目を閉じると、あのビルの中が浮かぶ。
もし、自分があの時間に入っていたら。
もし、バスが遅れていなかったら。
もし――
考えても意味のない「もし」が、止まらない。
胸の奥が、重く沈む。
呼吸が浅くなる。
痛みとは違う苦しさが、身体の中を満たす。
それは、目に見えない崩壊だった。
外ではビルが崩れた。
中では、人が崩れていく。
一平は、ゆっくりと呟いた。
「……帰られへん人が、おる」
その言葉は、小さかった。
でも、その重さは計り知れなかった。
病室の外では、夜が静かに流れている。
そして一平の中では、まだ終わらない崩壊が続いていた。
心は、目に見えない場所で、静かに音を立てて崩れていた。




