見えない傷
『あの日、空が裂けた― 365日の記憶 ―』
第38話
見えない傷
一平の包帯は、誰が見ても痛々しかった。
固定された右肩。
腫れの残る頬。
酸素の管。
ゆっくりとしか動かない身体。
けれど、家族の傷は見えなかった。
さくらは、台所に立つと手が震えるようになった。
包丁を握る。
まな板の上に玉ねぎを置く。
ただそれだけなのに、突然あの日の音が戻ってくる。
落ちたコップ。
割れる音。
自分が倒れた瞬間の、遠くなる子どもたちの声。
「お母さん!」
朝陽の叫び。
梓の泣き声。
北斗の震えた声。
さくらは包丁を置き、流し台に手をついた。
母親なのに。
支える側なのに。
自分まで倒れて、子どもたちを怖がらせた。
その罪悪感が、胸の奥に刺さったまま抜けなかった。
「お母さん、無理しないで」
朝陽が気づいて駆け寄る。
さくらは笑おうとした。
「大丈夫」
けれど、その「大丈夫」はもう家族の誰にも信じてもらえなかった。
朝陽は、父の前では明るく振る舞うようになった。
学校であったこと。
ノアのこと。
先生の冗談。
北斗とジェシカの変な日本語。
病室では、できるだけ普通に話す。
「お父さん、今日ね、北斗がまた“しらんけど”の使い方間違えてて」
一平がかすかに笑うと、朝陽も笑う。
でも、病室を出ると、その笑顔はすぐに消えた。
廊下の角で、飛行機の音が遠くに聞こえた。
朝陽の身体が固まる。
音だけだ。
ただの飛行機だ。
分かっている。
それでも、胸の奥が冷たくなる。
あの青い空を、もう前と同じようには見上げられない。
ノアがそばにいても、朝陽は時々黙り込む。
「Asahi?」
(朝陽?)
「……何でもない」
本当は何でもなくない。
でも、言葉にすれば崩れてしまう気がした。
だから強がる。
強がって、黙る。
梓は、確認をやめられなかった。
玄関の鍵を確認する。
窓を確認する。
電話機の受話器がちゃんと置かれているか確認する。
病院からの連絡先を書いたメモを確認する。
さくらが眠っている時は、息をしているか確認する。
一度では足りない。
「さっき見たよ」
朝陽に言われても、梓はまた玄関へ向かう。
「もう一回だけ」
もう一回だけ。
その言葉が、何度も続く。
マーカスと話していても、ふと頭の中が別の場所へ飛ぶ。
「Did something happen?」
(何かあった?)
「No. I just… need to check something.」
(ううん。ただ……確認したくなって)
「What?」
(何を?)
梓は答えられない。
何を確認したいのか、自分でも分からない。
ただ、何かを確かめていないと、不安が身体の中で膨らんでいく。
大丈夫。
その言葉が信用できなくなっていた。
北斗は、飛行機の図鑑を本棚の奥へしまった。
あんなに好きだった。
ページの端が少し折れるほど何度も読んだ。
機体の名前も、翼の形も、航路の話も、全部好きだった。
でも今は、表紙を見るだけで喉が苦しくなる。
学校で飛行機の話題が出ると、北斗は黙る。
ジェシカが気づいて、話を変えてくれる。
「Hokuto, want to teach me another weird Japanese word?」
(北斗、また変な日本語教えてくれる?)
北斗は少し笑う。
「変じゃないって」
でも、その笑いは前より小さい。
夜になると、北斗は一人で寝られない日が増えた。
「お母さんの近くで寝ていい?」
さくらは何度でも頷く。
「いいよ」
北斗は毛布を抱えて、さくらのそばに横になる。
けれど眠ると、夢の中でサイレンが鳴る。
塔が崩れる。
空から何かが落ちてくる。
父が呼んでも返事をしない。
「お父さん!」
叫んで目を覚ます。
さくらが抱きしめる。
「大丈夫。ここにいる」
北斗は泣きながら言う。
「お父さんも、ここにいてほしい」
その言葉に、さくらは何も返せなかった。
秋田家は、外から見れば少しずつ落ち着いているように見えた。
日本から祖父母も来た。
一平は目を覚ました。
病院にも通えている。
学校にも少しずつ戻っている。
でも、家の中には見えない傷が残っていた。
さくらは「母でいなければ」と自分を責める。
朝陽は強がりの奥で、空の音に怯える。
梓は確認を繰り返し、安心できない。
北斗は夢の中で何度も父を失う。
そして一平も、自分の傷だけではなく、家族の変化に気づき始めていた。
ある日、病室で朝陽が笑い話をしていた時だった。
廊下の向こうで何かが大きく落ちる音がした。
朝陽の肩が跳ねた。
梓の手が固まった。
北斗はさくらの袖を握った。
さくらは一瞬、息を止めた。
一平は、その全部を見てしまった。
自分だけが傷ついたのではない。
家族全員が、あの日から戻れていない。
一平はかすれた声で言った。
「……すまんな」
四人が顔を上げる。
「俺が……あそこにおったから」
さくらの目が強く揺れた。
「違う」
朝陽もすぐに首を振る。
「違うよ」
梓が言う。
「お父さんのせいじゃない」
北斗は泣きそうな顔で、父の手を握った。
「お父さん、謝らないで」
一平は目を閉じた。
謝ることではない。
分かっている。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
見える傷は、医師が処置してくれる。
包帯を巻き、骨を固定し、薬を出してくれる。
でも、見えない傷は、どこにあるのかすら分からない。
誰がどれだけ痛いのかも、本人にしか分からない。
いや、本人にすら分からない時がある。
その日の帰り道、さくらは子どもたちに言った。
「カウンセリング、受けようと思う」
朝陽が顔を上げる。
梓も、北斗も、何も言わない。
「お母さんも受ける。みんなも、必要なら受けよう」
沈黙が流れた。
最初に頷いたのは梓だった。
「……受けたい」
その声は小さかった。
次に北斗が頷いた。
「夢、怖いから」
朝陽は少し遅れて言った。
「私も……たぶん、必要」
さくらは頷いた。
「うん」
それは、弱さを認める言葉ではなかった。
傷があると認めること。
見えない傷も、ちゃんと治療していいのだと認めること。
その夜、家に帰ると、つばめが玄関で待っていた。
四人の足元を順番に回り、最後に北斗の膝へ飛び乗った。
北斗はつばめを抱きしめた。
「つばめは、怖い夢見る?」
つばめは答えない。
ただ、喉を鳴らした。
その音は小さく、あたたかかった。
傷は消えない。
すぐには治らない。
でも、見えない傷にも、触れてくれる手が必要だった。
言葉にならない痛みにも、寄り添う時間が必要だった。
秋田家は、そのことをようやく認め始めていた。




