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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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37/59

言葉を失う

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第37話


言葉を失う


一平が、あの日に何が起きたのかを知ったのは、意識が戻ってからしばらく経ってからだった。


医師は、最初からすべてを話そうとはしなかった。

さくらも、子どもたちも、言葉を選んだ。


一平の身体は、まだ痛みの中にあった。

右肩は固定され、肋骨は呼吸のたびに軋む。右頬は腫れ、頭部の傷は鈍く疼き、肺は深く息を吸うたびに焼けるように苦しかった。右上腕と右足首も動かせず、ほんの少し姿勢を変えるだけで、全身に電気のような痛みが走る。


だから、家族は迷った。


今すぐ本当のことを伝えるべきなのか。

それとも、もう少し回復を待つべきなのか。


だが、一平は気づいていた。


病室に入ってくる人たちの顔。

廊下の空気。

ニュースを消すタイミング。

子どもたちが何かを言いかけて飲み込む瞬間。


何かが、途方もなく大きく壊れたのだと。


ある日、さくらがベッドの横に座っていた。

朝陽も梓も北斗もいない、静かな午後だった。


一平はかすれた声で言った。


「さくら……」


「うん」


「……あの日、何があったんや」


さくらの手が、わずかに震えた。


一平は続ける。


「飛行機が……見えた。音がして……その後、よう分からん」


さくらは目を伏せた。

長い沈黙があった。


逃げられない沈黙だった。


「旅客機が……世界貿易センターに突っ込んだの」


一平は、瞬きをした。


「旅客機……」


「一機目が北棟に。あなたが巻き込まれたのは、その時。……その後、二機目が南棟に突っ込んだ」


一平は何も言えなかった。


さくらは泣きそうな声で続けた。


「ペンタゴンにも、飛行機が突っ込んだ。もう一機は、乗客の人たちが抵抗して……首都に向かう計画を止めたけど、平原に墜落して、全員亡くなった」


言葉が、病室の白い空気の中に落ちていく。


一平は天井を見たまま、動かなかった。


「……ビルは」


さくらは答えをためらった。

けれど、言わなければならなかった。


「崩れた」


一平の目が、ゆっくりさくらへ向いた。


「……崩れた?」


「二つとも」


その瞬間、一平の顔から表情が消えた。


世界貿易センター。

毎朝通ったロビー。

窓から見えた景色。

エミリー。

デイビッド。

ラモス。

同じエレベーターに乗っていた人たち。

朝のコーヒー。

机の上の資料。


それらが、一瞬で頭に浮かんだ。

そして、次の瞬間には、どれも戻らないものとして胸に沈んでいった。


「……何人」


さくらは首を振った。


「まだ、正確には……でも、たくさん。本当に、たくさん」


一平は口を開いた。

だが、声は出なかった。


何を言えばいいのか、分からなかった。


怒ればいいのか。

泣けばいいのか。

祈ればいいのか。

生きていることを喜べばいいのか。

自分だけ助かったことを悔いればいいのか。


どの感情も、身体の痛みと同じように押し寄せて、ひとつの言葉にならなかった。


さくらは一平の左手を握った。


「あなたは、生きてる」


一平は目を閉じた。


その言葉が、ありがたかった。

同時に、重かった。


⸻


事件の被害者は、アメリカ人だけではなかった。


世界中の国籍の人たちが、あの日、あの場所にいた。

働いていた人。

出張で来ていた人。

観光で近くにいた人。

飛行機に乗っていた人。

救助に向かった人。


日本人もいた。

ヨーロッパから来た人もいた。

中南米、アジア、アフリカ、さまざまな国から来た人がいた。


一平はニュースの断片を聞くたびに、言葉を失った。


国籍も、宗教も、職業も関係なく、人が奪われた。

誰かの朝が、誰かの仕事が、誰かの帰宅予定が、誰かの家族との約束が、まとめて壊された。


あまりにも大きすぎて、怒りさえ形にならなかった。


「なんで……」


一平は何度もそう呟いた。


だが、その問いに答えるものはなかった。


⸻


痛みとの戦いは続いた。


夜になると、肋骨の痛みが強くなった。

咳をすると肺が裂けるように痛む。

肩は、少しでも動かすと叫びそうになる。

右足首は固定され、寝返りすら一人では打てない。


看護師が薬を調整してくれる。

医師が状態を確認する。

それでも痛みは消えない。


眠りに落ちても、夢の中で爆音が蘇る。

巨大な影。

白い光。

熱。

倒れる身体。

黒煙。


目を覚ますたび、病室の天井が見える。

そして、自分がまだ病院にいることを思い出す。


心の支えは、家族だった。


さくらは、少しずつ職場に戻り始めていた。

完全復帰ではない。

短い時間だけ。

それでも彼女は、仕事の帰りに必ず病院へ顔を出した。


疲れた顔で入ってきても、一平の前では笑おうとする。


「今日は北斗がね、ジェシカちゃんにまた変な日本語教えようとしてたの」


一平はかすかに笑った。


「……またか」


「今度は“しらんけど”だって」


一平は痛みをこらえながら、少しだけ口元を動かした。


「それは……あかんやろ……」


その小さな笑いだけで、さくらの目に涙が滲む。


朝陽は学校帰りに来た。


最初は、父の姿を見るだけで顔が強張っていた。

でも少しずつ、ノアの話をするようになった。

授業の話。

トランペットの話。

何でもない会話。


「お父さん、ノアがね、また変なこと言ってた」


「……どんな」


「“ニューヨークの冬は人の性格を試してくる”って」


一平は目を細めた。


「なかなか……ええこと言うな」


朝陽は少しだけ笑った。


梓は、マーカスとの話を控えめにした。


「映画、また行くかもしれない」


「……ええやん」


「まだ、そんな大げさな感じじゃないけど」


「……ゆっくりでええ」


その言葉に、梓は泣きそうになった。

以前の父と同じ声ではない。

でも、父の言葉だった。


北斗は一番まっすぐだった。


病室に入ると、父のベッドのそばに近づき、必ず手を握る。


「お父さん、今日はジェシカが“なんでやねん”完璧に言えた」


「……すごいな」


「今度、聞かせるから」


「……楽しみや」


北斗は何度も頷いた。


「あと、自由の女神、また見せてね」


一平は目を閉じたまま、かすかに言った。


「……約束や」


その約束は、北斗の心を支えた。

そして、一平自身も支えた。


⸻


ある日、朝陽が封筒を持ってきた。


「つばめの写真」


一平の目が少しだけ動いた。


朝陽が写真を取り出す。

そこには、さくらのベッドの上で丸くなるシャム猫のつばめが写っていた。

別の写真では、北斗の膝に乗っている。

また別の写真では、なぜか一平の部屋のベッドの上で眠っていた。


一平は、じっと写真を見つめた。


「……部屋に入っとるんか」


梓が言う。


「うん。お父さんの部屋、気に入ってるみたい」


北斗が続ける。


「つばめ、お父さん待ってるんだよ」


一平は写真から目を離せなかった。


自分の部屋。

家。

家族。

つばめ。


帰りたい。


その思いが、全身の痛みよりも強く胸を締めつけた。


「……早く」


一平はかすれた声で言った。


「早く、うちに帰りたいな」


さくらは涙をこらえながら頷いた。


「帰ろう。少しずつでも」


朝陽も、梓も、北斗も頷いた。


病院の外では、世界がまだ揺れている。

戦争が始まり、捜索が続き、失われた人々の名前が読み上げられている。


一平は、そのすべてをまだ受け止めきれない。

何を言葉にすればいいのかも分からない。


けれど、ひとつだけは分かっていた。


帰りたい場所がある。

待っている家族がいる。

自分を待っている部屋がある。

そして、小さな猫が、自分のベッドの上で丸くなっている。


それが、今の一平を生かしていた。


言葉を失った世界の中で、家に帰りたいという願いだけが、確かな声として残っていた。

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