言葉を失う
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第37話
言葉を失う
一平が、あの日に何が起きたのかを知ったのは、意識が戻ってからしばらく経ってからだった。
医師は、最初からすべてを話そうとはしなかった。
さくらも、子どもたちも、言葉を選んだ。
一平の身体は、まだ痛みの中にあった。
右肩は固定され、肋骨は呼吸のたびに軋む。右頬は腫れ、頭部の傷は鈍く疼き、肺は深く息を吸うたびに焼けるように苦しかった。右上腕と右足首も動かせず、ほんの少し姿勢を変えるだけで、全身に電気のような痛みが走る。
だから、家族は迷った。
今すぐ本当のことを伝えるべきなのか。
それとも、もう少し回復を待つべきなのか。
だが、一平は気づいていた。
病室に入ってくる人たちの顔。
廊下の空気。
ニュースを消すタイミング。
子どもたちが何かを言いかけて飲み込む瞬間。
何かが、途方もなく大きく壊れたのだと。
ある日、さくらがベッドの横に座っていた。
朝陽も梓も北斗もいない、静かな午後だった。
一平はかすれた声で言った。
「さくら……」
「うん」
「……あの日、何があったんや」
さくらの手が、わずかに震えた。
一平は続ける。
「飛行機が……見えた。音がして……その後、よう分からん」
さくらは目を伏せた。
長い沈黙があった。
逃げられない沈黙だった。
「旅客機が……世界貿易センターに突っ込んだの」
一平は、瞬きをした。
「旅客機……」
「一機目が北棟に。あなたが巻き込まれたのは、その時。……その後、二機目が南棟に突っ込んだ」
一平は何も言えなかった。
さくらは泣きそうな声で続けた。
「ペンタゴンにも、飛行機が突っ込んだ。もう一機は、乗客の人たちが抵抗して……首都に向かう計画を止めたけど、平原に墜落して、全員亡くなった」
言葉が、病室の白い空気の中に落ちていく。
一平は天井を見たまま、動かなかった。
「……ビルは」
さくらは答えをためらった。
けれど、言わなければならなかった。
「崩れた」
一平の目が、ゆっくりさくらへ向いた。
「……崩れた?」
「二つとも」
その瞬間、一平の顔から表情が消えた。
世界貿易センター。
毎朝通ったロビー。
窓から見えた景色。
エミリー。
デイビッド。
ラモス。
同じエレベーターに乗っていた人たち。
朝のコーヒー。
机の上の資料。
それらが、一瞬で頭に浮かんだ。
そして、次の瞬間には、どれも戻らないものとして胸に沈んでいった。
「……何人」
さくらは首を振った。
「まだ、正確には……でも、たくさん。本当に、たくさん」
一平は口を開いた。
だが、声は出なかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
怒ればいいのか。
泣けばいいのか。
祈ればいいのか。
生きていることを喜べばいいのか。
自分だけ助かったことを悔いればいいのか。
どの感情も、身体の痛みと同じように押し寄せて、ひとつの言葉にならなかった。
さくらは一平の左手を握った。
「あなたは、生きてる」
一平は目を閉じた。
その言葉が、ありがたかった。
同時に、重かった。
⸻
事件の被害者は、アメリカ人だけではなかった。
世界中の国籍の人たちが、あの日、あの場所にいた。
働いていた人。
出張で来ていた人。
観光で近くにいた人。
飛行機に乗っていた人。
救助に向かった人。
日本人もいた。
ヨーロッパから来た人もいた。
中南米、アジア、アフリカ、さまざまな国から来た人がいた。
一平はニュースの断片を聞くたびに、言葉を失った。
国籍も、宗教も、職業も関係なく、人が奪われた。
誰かの朝が、誰かの仕事が、誰かの帰宅予定が、誰かの家族との約束が、まとめて壊された。
あまりにも大きすぎて、怒りさえ形にならなかった。
「なんで……」
一平は何度もそう呟いた。
だが、その問いに答えるものはなかった。
⸻
痛みとの戦いは続いた。
夜になると、肋骨の痛みが強くなった。
咳をすると肺が裂けるように痛む。
肩は、少しでも動かすと叫びそうになる。
右足首は固定され、寝返りすら一人では打てない。
看護師が薬を調整してくれる。
医師が状態を確認する。
それでも痛みは消えない。
眠りに落ちても、夢の中で爆音が蘇る。
巨大な影。
白い光。
熱。
倒れる身体。
黒煙。
目を覚ますたび、病室の天井が見える。
そして、自分がまだ病院にいることを思い出す。
心の支えは、家族だった。
さくらは、少しずつ職場に戻り始めていた。
完全復帰ではない。
短い時間だけ。
それでも彼女は、仕事の帰りに必ず病院へ顔を出した。
疲れた顔で入ってきても、一平の前では笑おうとする。
「今日は北斗がね、ジェシカちゃんにまた変な日本語教えようとしてたの」
一平はかすかに笑った。
「……またか」
「今度は“しらんけど”だって」
一平は痛みをこらえながら、少しだけ口元を動かした。
「それは……あかんやろ……」
その小さな笑いだけで、さくらの目に涙が滲む。
朝陽は学校帰りに来た。
最初は、父の姿を見るだけで顔が強張っていた。
でも少しずつ、ノアの話をするようになった。
授業の話。
トランペットの話。
何でもない会話。
「お父さん、ノアがね、また変なこと言ってた」
「……どんな」
「“ニューヨークの冬は人の性格を試してくる”って」
一平は目を細めた。
「なかなか……ええこと言うな」
朝陽は少しだけ笑った。
梓は、マーカスとの話を控えめにした。
「映画、また行くかもしれない」
「……ええやん」
「まだ、そんな大げさな感じじゃないけど」
「……ゆっくりでええ」
その言葉に、梓は泣きそうになった。
以前の父と同じ声ではない。
でも、父の言葉だった。
北斗は一番まっすぐだった。
病室に入ると、父のベッドのそばに近づき、必ず手を握る。
「お父さん、今日はジェシカが“なんでやねん”完璧に言えた」
「……すごいな」
「今度、聞かせるから」
「……楽しみや」
北斗は何度も頷いた。
「あと、自由の女神、また見せてね」
一平は目を閉じたまま、かすかに言った。
「……約束や」
その約束は、北斗の心を支えた。
そして、一平自身も支えた。
⸻
ある日、朝陽が封筒を持ってきた。
「つばめの写真」
一平の目が少しだけ動いた。
朝陽が写真を取り出す。
そこには、さくらのベッドの上で丸くなるシャム猫のつばめが写っていた。
別の写真では、北斗の膝に乗っている。
また別の写真では、なぜか一平の部屋のベッドの上で眠っていた。
一平は、じっと写真を見つめた。
「……部屋に入っとるんか」
梓が言う。
「うん。お父さんの部屋、気に入ってるみたい」
北斗が続ける。
「つばめ、お父さん待ってるんだよ」
一平は写真から目を離せなかった。
自分の部屋。
家。
家族。
つばめ。
帰りたい。
その思いが、全身の痛みよりも強く胸を締めつけた。
「……早く」
一平はかすれた声で言った。
「早く、うちに帰りたいな」
さくらは涙をこらえながら頷いた。
「帰ろう。少しずつでも」
朝陽も、梓も、北斗も頷いた。
病院の外では、世界がまだ揺れている。
戦争が始まり、捜索が続き、失われた人々の名前が読み上げられている。
一平は、そのすべてをまだ受け止めきれない。
何を言葉にすればいいのかも分からない。
けれど、ひとつだけは分かっていた。
帰りたい場所がある。
待っている家族がいる。
自分を待っている部屋がある。
そして、小さな猫が、自分のベッドの上で丸くなっている。
それが、今の一平を生かしていた。
言葉を失った世界の中で、家に帰りたいという願いだけが、確かな声として残っていた。




