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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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残された部屋

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』

第36話

残された部屋


一平の部屋は、そのままだった。


机の上には、出勤前に置いたままの書類。

読みかけの新聞。

開きかけのノート。

ペンは、キャップが外されたまま転がっている。


クローゼットには、いつものスーツ。

ネクタイが整然と並び、まるで「明日も着る」と言っているようだった。


ベッドの横には、鉄道の雑誌。

ページの間にしおりが挟まれたまま。


そして、壁には小さなカレンダー。

9月11日のところに、何も書かれていない空白が残っていた。


さくらは、その部屋の前で立ち止まった。


入ろうとして、手が止まる。


ここは、一平がいた場所。

でも、今は一平がいない場所。


ドアを開ければ、現実を突きつけられる。

開けなければ、時間が止まったままのように感じられる。


さくらは、ゆっくりとドアを開けた。


何も変わっていない。

でも、すべてが変わっている。


「……帰ってくるよね」


小さくつぶやいた声は、部屋の中で吸い込まれていった。


朝陽は、その部屋に入ることができなかった。


ドアの前まで来る。

でも、足が止まる。


ノアとの約束。

夕焼け。

トランペットの音。

ブロードウェイの話。

日常の続きがあったはずの未来。


それらが、この部屋の前で途切れているように感じた。


「まだ……無理」


そう言って、朝陽は背を向けた。


梓は、一度だけ部屋に入った。


机の上のペンを見て、手に取る。

そのまま、何も書かれていないノートをめくる。


「……続き、書くつもりだったんだ」


父の日常が、そこに残っている。


だが、その続きを書く人はいない。


梓はペンを元の場所に戻し、何も触らずに部屋を出た。


それ以上、そこにいられなかった。


北斗は、つばめを抱えて部屋の前に立った。


「ここ、お父さんの部屋だよ」


つばめは小さく鳴いた。


北斗は少し考えて、そっとドアを開ける。


「お父さん、もうすぐ帰ってくるよね」


その言葉は、願いだった。


部屋の中の空気は、静かだった。

まるで、本当に誰かを待っているように。


学校でも、「残された部屋」はそれぞれの形で存在していた。


朝陽のクラスにいる女子生徒は、父を失っていた。

彼女は、父の部屋に入れないと言った。


「I can’t go in there.」

(あの部屋に入れないの)


ノアが静かに聞く。


「Why?」

(どうして?)


「Because everything is still there.」

(全部、そのままだから)


その一言で、誰も言葉を失った。


帰らない人の部屋は、時間が止まった場所になる。

そこに入ることは、「戻らない」という事実を受け入れることに近かった。


一方で、家族が無事だった生徒たちもいる。


だが、その間に、見えない線が引かれ始めていた。


「You’re lucky.」

(あなたはいいよね)


何気ない言葉のようで、そうではない。


言われた側は、返す言葉が見つからない。

「ごめん」とも言えない。

「ありがとう」とも言えない。


ただ、黙るしかない。


朝陽も、その沈黙の中にいた。


ノアが言う。


「There’s no right thing to say anymore.」

(もう正しい言葉なんてないよ)


朝陽は頷いた。


「だから、黙るしかないんだよね」


その通りだった。


梓の学校でも、同じようなすれ違いが起きていた。


ある生徒が言った。


「At least your dad is alive.」

(少なくとも、あなたのお父さんは生きてるじゃない)


その言葉に、梓は凍りついた。


その通りだ。

でも、それで苦しみが軽くなるわけではない。


「……うん」


それだけしか言えなかった。


マーカスが横から小さく言う。


「That doesn’t make it easy.」

(だからって楽になるわけじゃない)


梓はその言葉に救われた。


先生たちもまた、難しい立場に立たされていた。


どの言葉も、誰かを傷つける可能性がある。

励ましも、慰めも、時に刃になる。


ある教師は、静かに言った。


「We’re not here to fix this. We’re here to stay together.」

(この状況を解決することはできない。でも、一緒にいることはできる)


その言葉だけが、教室に残った。


テレビでは、アフガニスタンの映像が流れていた。


爆撃。

逃げる人々。

壊れた建物。


そして、女性たちの現状。


教育を受けられない。

自由に外出できない。

声を上げることも許されない。


その現実が、世界に広がっていく。


「こんなことが……」


さくらが呟いた。


怒りは、別の形で広がっていた。


テロへの怒り。

その背景にある体制への怒り。

虐げられている人々への同情。


やがて、アフガニスタンの政権は崩壊した。


暫定政府が発足する。

だが、国の中は混乱していた。


秩序は不安定。

武装勢力は残る。

復興は進まない。


ニュースは「変化」を伝える。

だが、その変化が何をもたらすのかは、まだ誰にも分からなかった。


夜、秋田家では静かな時間が流れていた。


一平の部屋のドアは、半分開いたままだった。


さくらはその前を通りながら、ふと足を止める。


「帰ってきたら……怒られるかな」


散らかしてるって。

ちゃんと片付けろって。


そんな何気ない日常が、どれだけ大切だったのか、今になって分かる。


朝陽が小さく言う。


「その時は……いっぱい文句言われよう」


梓も頷く。


「それでいいよ」


北斗がつぶやく。


「お父さん、怒っていいから帰ってきて」


その言葉に、さくらは涙をこらえた。


つばめが静かに部屋の中へ入っていく。

ベッドの上に飛び乗り、丸くなる。


まるで、本当に誰かを待っているように。


残された部屋は、時間が止まった場所だった。

でも同時に、帰る場所でもあった。


その扉が、再び開く日を、家族はまだ信じていた。

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