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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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35/59

止まった時間

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第35話


止まった時間


夜明け前のニュースは、低い声で続いていた。


画面の向こうでは、遠い山岳地帯に閃光が走る。

黒い空を裂く爆撃の光。

逃げ惑う人々。

砂と煙に覆われる家々。


アメリカは、アフガニスタンへの軍事攻撃を開始した。


テロ組織の拠点とされる場所への空爆。

掃討作戦の開始。

世界は「報復」という名の新しい局面へと入っていく。


だが、その画面を見つめるさくらたちの心は、そこにはなかった。


遠い国で何が起きているかは分かる。

怒りも理解できる。

でも、そのすべてが、今の自分たちの痛みを直接癒してくれるわけではない。


テレビの中の戦争と、目の前の現実は、あまりにも遠く、そして同時に近すぎた。


「首謀者の所在は、依然として不明です」


アナウンサーの言葉が、静かに落ちる。


誰が。

どこで。

何を思って。

このすべてを引き起こしたのか。


答えはまだ、見えない。


⸻


その朝、病院の集中治療室で、小さな変化が起きた。


一平の指が、わずかに動いた。


それは本当に小さな動きだった。

見逃してもおかしくないほどの、かすかな反応。


だが、ベッドサイドでモニターを確認していた看護師は、その違和感に気づいた。


「Mr. Akita?」

(秋田さん?)


呼びかける。


反応はない。

だが、まぶたがわずかに震えた。


「Can you hear me?」

(聞こえますか?)


数秒後――


一平の目が、ゆっくりと開いた。


光が、差し込む。

白い天井。

ぼやけた輪郭。

機械の音。


そして、全身を襲う激痛。


「……っ……」


声にならない声が漏れた。


身体が、自分のものではないようだった。

動かない。

重い。

痛い。

呼吸をするたびに胸が軋む。


ここはどこだ。

何が起きた。


記憶が、つながらない。


朝、家を出た。

弁当を持って。

さくらと話して。

子どもたちの声を聞いて。


そして――


大きな音。

光。

衝撃。


そこから先が、途切れている。


「……ここ……は……」


かすれた声だった。


看護師はすぐに医師へ連絡し、そして家族へも知らせた。


「He’s regained consciousness.」

(意識が戻りました)


⸻


その知らせは、秋田家に衝撃のように届いた。


朝陽が電話を受けた瞬間、声が裏返った。


「ほんとに……?」


「Yes. He’s awake.」

(はい。目を覚まされています)


梓が隣で固まる。


「お父さん……起きたの?」


北斗はその場で飛び上がった。


「お父さん起きたの!?」


さくらは電話を握りしめた。


言葉が出ない。

ただ涙だけが溢れた。


「……今から行きます」


看護師は続けた。


「Only a few people at a time. Short visit.」

(人数制限があります。短時間の面会になります)


それでも、十分だった。


一平が目を覚ました。


その事実だけで、世界が少しだけ動き出した気がした。


⸻


病室の中は、静かだった。


一平はベッドの上で、まだ焦点の合わない目で天井を見ていた。


意識は戻った。

だが、状況は分からない。


身体は言うことを聞かない。

痛みがすべてを支配している。


そこへ、さくらが入ってきた。


一瞬、一平は誰か分からなかった。

だが、次の瞬間、目がわずかに動いた。


「……さく……ら……?」


その声は、かすれていた。


さくらは、崩れるようにベッドの横に寄った。


「一平さん……」


その名前を呼んだ瞬間、涙が止まらなくなった。


一平は、ゆっくりと目を動かした。


「ここ……どこだ……」


「病院……ニューヨークの……」


「……なんで……」


その問いに、さくらは言葉を失った。


どう説明すればいいのか。

どこから話せばいいのか。


一平は、まだ何も知らない。


あの日、空で何が起きたのか。

ビルがどうなったのか。

どれだけの人が命を落としたのか。


朝陽が後ろで震えていた。

梓は唇を噛み、北斗は必死に涙をこらえている。


さくらは一平の手を握った。


「あとで……ゆっくり話すね」


それしか言えなかった。


一平は、小さく頷いた。


その動きだけで、全身に痛みが走ったのか、顔が歪んだ。


「……痛い……な……」


その一言に、朝陽が泣いた。


「お父さん……」


北斗も声を上げた。


「お父さん!」


看護師が静かに促した。


「Time’s up.」

(時間です)


短い再会だった。

でも、それは確かな現実だった。


一平は生きている。

そして、目を覚ました。


止まっていた時間が、ほんのわずかに動き始めた。


⸻


その頃、世界貿易センターの跡地では、火災がようやく鎮火しつつあった。


長く燃え続けた瓦礫。

くすぶる煙。

焦げた匂い。


重機が動き始める。

瓦礫の撤去。

そして、行方不明者の捜索。


隊員たちは静かに、慎重に作業を進めていた。


瓦礫の中から、人の痕跡が見つかる。

衣服。

持ち物。

そして――


遺体。


運び出される。

記録される。

識別される。


歯科医が呼ばれる。

歯型の照合。

記録との照合。

名前の確認。


そして――


「……Name confirmed.」


名前が読み上げられる。


その瞬間、待っていた家族の中から声が上がる。


泣き崩れる人。

立ち尽くす人。

名前を呼び続ける人。


どれだけの人が失われたのか。


数字では追いつかない。

ひとつひとつが、人生だった。

家族だった。

未来だった。


⸻


夜、秋田家は再び集まっていた。


さくらの目は赤かったが、表情は少し違っていた。


「一平さん、目を覚ました」


その一言に、全員が息をのんだ。


「でも、まだ何も分かってない」


朝陽が小さく言う。


「これからだね……」


梓が続ける。


北斗は、ぽつりとつぶやいた。


「お父さん、ちゃんと戻ってくるよね」


誰もすぐには答えられなかった。


でも、さくらは言った。


「戻るよ」


それは確信ではなかった。

願いだった。


それでも、その言葉は家族を少しだけ支えた。


つばめが静かにテーブルの下を歩く。

誰かの足に体を寄せる。


止まっていた時間は、ゆっくりと動き始めている。


だが、その動きは決して元の速さではなかった。


壊れたものは、すぐには戻らない。

失われたものは、戻らない。


それでも人は、動き出すしかない。


この日から始まった時間を、抱えながら。

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