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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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34/59

帰らない人

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第34話


帰らない人


学校の廊下は、以前より静かになっていた。


授業のベルは鳴る。

ロッカーは開く。

教科書を抱えた生徒たちが歩く。

けれど、笑い声の量が明らかに減っていた。


朝陽の学校にも、梓の学校にも、北斗の小学校にも、あの日から戻ってこない家族を持つ子がいた。


父が世界貿易センターで働いていた子。

母が出勤途中だった子。

兄が消防士だった子。

姉が近くのオフィスにいた子。

重傷で病院にいる家族を持つ子。

そして、もう帰ってこないと告げられた子。


教室の机は、前と同じ場所に並んでいる。

でも、座っている生徒たちの心は、前と同じではなかった。


朝陽は、ノアと並んで廊下を歩いていた。

向こうから、同じ学年の男子が来る。彼の父親は、あの日から行方不明のままだった。


その男子は、掲示板に貼られた新聞記事を見つめていた。

アフガニスタンの過激派組織が犯行声明を出したという記事だった。


彼は突然、拳で壁を叩いた。


「What holy war?」

(何が聖戦だよ)


廊下が静まった。


彼の声は震えていた。

怒りで。

悲しみで。

どうしようもなさで。


「What does ‘God is great’ even mean when you murder people going to work?」

(仕事に行った人を殺しておいて、“神は偉大”って何なんだよ)


誰も止められなかった。


「My dad didn’t do anything!」

(俺の父さんは何もしてない!)


その声が廊下に響いた。


「If they hate this country so much, why did they kill my dad? Why not go after the people in power?」

(そんなにこの国が憎いなら、なんで俺の父さんを殺したんだよ。権力者を狙えばよかっただろ)


教師が近づこうとしたが、その男子は泣き崩れるようにその場に座り込んだ。


怒りだった。

憎しみに近かった。

恨みにも似ていた。

でも、その奥にあったのは、どうしようもない喪失だった。


朝陽は動けなかった。


父は生きている。

でも重傷で、目を覚まさない。

その自分でさえ、こんなに苦しい。


帰らない人を待つ家族は、どれほどの痛みの中にいるのだろう。


ノアが小さく言った。


「He’s not really talking about politics.」

(彼は本当は政治の話をしてるんじゃない)


朝陽は頷いた。


「He’s talking about his dad.」

(お父さんの話をしてるんだよね)


ノアは何も言わなかった。


その通りだった。


大きな言葉は、家族を奪われた人の前では砕けてしまう。

聖戦。

報復。

神。

正義。

国家。


そんな言葉では、空いた椅子を埋められない。


⸻


梓の学校でも、似たようなことが起きていた。


昼休み、ある女子生徒が泣きながら叫んだ。

彼女の姉は、世界貿易センター近くの会社で働いていて、まだ見つかっていなかった。


「They keep saying it was for their beliefs!」

(信念のためだったって言ってる!)


彼女は震える声で続けた。


「What about my sister’s life?」

(じゃあ、私の姉の命はどうなるの?)


周囲の生徒たちは、誰も軽く慰められなかった。


梓はその声を聞きながら、自分の胸の中にある怒りを感じた。


父は生きている。

でも、壊れるほど傷つけられた。

あの日まで、父はただ働いていただけだった。


なぜ。


その問いは、何度考えても同じ場所へ戻る。


なぜ、関係のない人が狙われなければならなかったのか。


マーカスが隣に立っていた。


「Azusa…」

(梓……)


梓は小さく言った。


「I hate that I understand her anger.」

(あの子の怒りが分かってしまうのが嫌)


マーカスは静かに答えた。


「Anger makes sense. What we do with it is the hard part.」

(怒るのは自然だよ。その怒りをどう扱うかが難しいんだ)


梓は目を伏せた。


今はまだ、その答えは分からなかった。


⸻


北斗の小学校では、教師たちが子どもたちに説明するのに苦しんでいた。


あまりに多くの子が、直接または間接的に事件に傷ついていた。

親戚を亡くした子。

近所の人が戻らない子。

父親が消防隊員だった子。

病院にいる家族を持つ子。


北斗もその一人だった。


ジェシカは休み時間、北斗の隣に座った。


「Hokuto, are you mad?」

(北斗、怒ってる?)


北斗は少し考えた。


「うん」


「At who?」

(誰に?)


「分かんない」


それが一番正直な答えだった。


テロ組織に怒っている。

飛行機を使った人たちに怒っている。

父を傷つけたもの全部に怒っている。

でも、怒りの向け先が大きすぎて、子どもの手には持ちきれない。


「I want Dad to wake up.」

(お父さんに起きてほしい)


北斗は言った。


「That’s all.」

(それだけ)


ジェシカはしばらく黙って、それから北斗の机に小さな紙を置いた。


そこには、下手だけれど丁寧な日本語で書かれていた。


「おとうさん、がんばって」


北斗はそれを見て、涙をこぼした。


「……ありがとう」


ジェシカは小さく頷いた。


「なんでやねんって、今は言わない」

(I won’t say “nande yanen” right now.)

(今は“なんでやねん”って言わない)


北斗は泣きながら少しだけ笑った。


その笑いは小さかった。

でも、完全に消えてはいなかった。


⸻


その夜、秋田家では、日本から来た祖父母たちも一緒に食卓を囲んでいた。


料理は簡単なものだった。

誰もたくさんは食べられない。

でも、食卓に人がいることだけが救いだった。


テレビでは、また犯行声明のニュースが流れていた。

誰かがリモコンを手に取り、音量を下げた。


忠雄が低く言った。


「何が聖戦や……」


その声には、押し殺した怒りがあった。


「一平が何したって言うんや」


芙美子は涙を拭った。


橋本逸郎も、拳を握っていた。


「理屈に巻き込まれるのは、いつも普通の人間だ」


その言葉に、誰も返せなかった。


さくらは静かに言った。


「憎みたくないのに……憎くなる」


その言葉は、部屋の中に重く落ちた。


朝陽も、梓も、北斗も、聞いていた。


憎しみは危ない。

それは分かっている。

憎しみが人を壊すことも、ニュースが証明している。


でも、大切な人を奪われかけた時、怒らずにいられるほど人は強くない。


朝陽は拳を握った。


「お父さん、ただ仕事に行っただけなのに」


梓が続けた。


「誰かの思想のために、どうして」


北斗は小さく言った。


「お父さんに謝ってほしい」


誰が。

どうやって。

もう死んだ実行犯が。

声明を出した組織が。

世界が。


答えはない。


つばめが、北斗の膝に飛び乗った。

北斗は泣きながら、つばめを抱きしめた。


⸻


その頃、病院の集中治療室で、一平はまだ眠っていた。


機械音。

酸素の音。

点滴。

白い光。


怒りも、声明も、戦争も、彼にはまだ届かない。


ただ、身体は生きようとしていた。


家族の怒りも、悲しみも、祈りも、その病室の外で渦巻いている。


帰らない人がいる。

帰ってきても、以前の姿ではない人がいる。

待ち続ける家族がいる。

怒りの言葉を吐かなければ立っていられない人がいる。


そのすべてが、あの日の続きだった。


帰らない人たちの名前は、街の壁に貼られ続ける。

帰ってきた人たちの傷も、消えることはない。


そして秋田家は、ようやく気づき始めていた。


事件は、九月十一日に終わったのではない。


あの日から、始まってしまったのだ。

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