↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日空が裂けた  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/59

確認できない現実

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第33話


確認できない現実


一平が生きていることは、分かっていた。


だが、その先のことは何ひとつ分からなかった。


いつ目を覚ますのか。

肺はどこまで戻るのか。

右腕は動くのか。

歩けるようになるのか。

仕事に戻れるのか。

また、朝の食卓で冗談を言えるのか。


誰に聞いても、答えは同じだった。


「まだ分かりません」


その言葉だけが、秋田家の中で何度も何度も反響していた。


さくらは自宅へ戻っていた。

ホームドクターに強く休養を命じられ、点滴と薬でようやく意識を取り戻したあとも、身体は鉛のように重かった。立ち上がると膝に力が入らず、台所に立とうとすると眩暈がした。


それでも、朝になると身体が勝手に動こうとする。


「朝ごはん……」


さくらがベッドから起き上がろうとすると、朝陽がすぐに止めた。


「お母さん、だめ。寝てて」


「でも、あなたたち学校……」


「今日は休んでいいって先生も言ってる。病院にもあとで行くから」


「でも……」


「でもじゃない」


朝陽の声は、少し強かった。


さくらはその声に驚き、そして何も言えなくなった。

いつの間に、娘はこんな声を出すようになったのだろう。

そう思った瞬間、胸が痛んだ。


朝陽は強がっていた。


父はきっと元通りになる。

そう言い聞かせている。

何度も。

何度も。


だが、病室で見た父の姿が頭から離れない。

酸素マスク。

包帯。

腫れた顔。

固定された腕。

動かない身体。


ノアから電話がかかってきても、受話器を取るまでに時間がかかった。


「Hello?」

(もしもし)


「Asahi? It’s me.」

(朝陽? 俺だよ)


「Yeah.」

(うん)


「How are you holding up?」

(大丈夫か?)


その問いに、朝陽はすぐ答えられなかった。


「I’m fine.」

(大丈夫)


自分でも嘘だと分かる返事だった。


電話の向こうで、ノアは少し黙った。


「You don’t have to be fine with me.」

(俺の前でまで大丈夫なふりしなくていい)


その言葉に、朝陽は唇を噛んだ。


泣きたくなった。

でも、泣いたら本当に崩れる気がした。


「I don’t know what I am.」

(自分がどうなってるのか分からない)


やっとそれだけ言うと、ノアは静かに答えた。


「Then just stay on the phone. You don’t have to explain it.」

(じゃあ電話は切らずにいよう。説明しなくていいから)


朝陽は受話器を握ったまま、何も言わなかった。

沈黙が、初めて少しだけ怖くなかった。


⸻


梓は、確認をやめられなくなっていた。


玄関の鍵。

窓。

電話線。

病院からの連絡用のメモ。

さくらの呼吸。

北斗が寝ているか。

つばめの餌と水。


一度見ても、また見に行く。

確かめた直後なのに、不安が消えない。


「梓、今さっき見たよ」


朝陽にそう言われても、梓は首を振った。


「でも、もう一回だけ」


もう一回だけ。

その言葉が、何度も続く。


マーカスからの電話にも、梓はしばらく出られなかった。

受話器を取れば、自分の声が震えるのが分かってしまう。

それが怖かった。


それでも、三度目の呼び出しで出た。


「Hello…」

(もしもし……)


「Azusa?」

(梓?)


「Yeah.」

(うん)


「I just wanted to hear your voice.」

(君の声が聞きたかった)


その言葉に、梓は目を閉じた。


「I keep checking things.」

(私、何度も確認しちゃうの)


「What things?」

(何を?)


「Doors. Windows. The phone. My mom. Everything.」

(ドア、窓、電話、お母さん。全部)


マーカスは少し黙ってから言った。


「That makes sense.」

(無理もないよ)


「It doesn’t.」

(無理もなくないよ)


「It does. Your world stopped making sense. So you’re checking the parts you can still touch.」

(無理もないよ。君の世界が意味を失ったから、まだ触れられるものを確かめてるんだ)


梓はその言葉に、涙をこぼした。


「I hate that you’re right.」

(それが当たってるの、嫌だ)


「I’m sorry.」

(ごめん)


「Don’t be.」

(謝らないで)


電話の向こうに、誰かがいてくれる。

それだけで、確認できない現実の中に、少しだけ確かなものができた気がした。


⸻


北斗は、飛行機の図鑑を開けなくなっていた。


机の上には置いてある。

でも、手が伸びない。


あの日まで、飛行機は夢だった。

遠くへ行くもの。

空の道を走るもの。

人を運ぶもの。


今は違う。


図鑑の表紙を見るだけで、テレビに映った炎が頭に浮かぶ。

塔へ突っ込む影。

煙。

サイレン。


夜になると、北斗はさくらの布団の近くへ来た。


「ここで寝ていい?」


さくらは少し身体を起こした。


「いいよ」


北斗は小さな毛布を抱えて、母の近くに横になる。


「お父さん、生きてるんだよね」


「うん」


「でも起きないんだよね」


「今は、身体が一生懸命治ってるの」


「でも、分かんないんだよね」


さくらは言葉を失った。


北斗は、子どものまっすぐさで、一番痛いところを突いてくる。


「分からないこともある。でも、お医者さんが見てくれてる」


「お父さん、僕のこと忘れない?」


その問いに、さくらは胸が裂けそうになった。


「忘れない。絶対に」


「ほんと?」


「ほんと」


北斗はやっと目を閉じた。

だが夜中、崩れる塔とサイレンの夢でうなされ、泣きながら起きた。


⸻


街には、行方不明者のポスターが増え続けていた。


駅の壁。

病院の掲示板。

街灯。

公園の柵。


写真の中では、人々が笑っている。

仕事着の男性。

赤ちゃんを抱いた女性。

家族写真の中の父親。

卒業写真のような若者。

どの顔にも、「戻ってきてほしい」という文字が添えられている。


朝陽は病院へ向かう途中、そのポスターの前で足を止めた。


父は生きている。

それは奇跡だ。


でも、この写真の人たちはまだ帰っていない。

そして、もう帰れない人もいる。


そう思った瞬間、自分が「お父さんは生きている」と安心することさえ、どこか罪のように感じた。


さくらはその横顔を見ていたが、何も言わなかった。

言える言葉がなかった。


⸻


その日の午後、日本商事本社から連絡が入った。


ニューヨーク支店を経由して、さくらの自宅へつながれた電話だった。


「秋田様でいらっしゃいますか。日本商事本社、人事部の佐伯と申します」


さくらは背筋を伸ばした。

身体はまだ重かったが、会社からの電話と分かると、無意識に声を整えていた。


「はい、秋田さくらです」


佐伯の声は丁寧で、慎重だった。


「このたびは、ご主人様が大変な被害に遭われましたこと、会社として心よりお見舞い申し上げます。現在のご容体について、差し支えない範囲で確認させていただいてもよろしいでしょうか」


さくらは医師から聞いた内容を、言葉を選びながら伝えた。


意識はまだ戻っていないこと。

集中治療室にいること。

肺機能が低下していること。

骨折と外傷が多く、長期治療が必要になること。

全治一年ほどかかる可能性があること。

元通りになるかどうかは不明であること。


電話の向こうで、佐伯は静かにメモを取っているようだった。


「承知いたしました。会社としては、現地法人および医療機関と連携し、ご家族の生活面、医療費、今後の帰国や療養について最大限支援する方針です」


その言葉に、さくらは初めて少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます……」


「また、ニューヨーク支店の状況も大変混乱しておりますが、ご主人様の勤務扱い、保険、労災関連の手続きについても、本社で確認を進めております。奥様が今すぐ判断なさらなければならないことはございません」


今すぐ判断しなくていい。

その言葉が、思った以上にありがたかった。


「それから」


佐伯の声がさらに柔らかくなる。


「ご両家のご両親が、渡米を希望されていると伺っております。航空便の再開状況、安全対策、入国手続きについて、本社でも情報を集めております」


さくらは目を閉じた。


「両親が……」


「はい。航空各社は安全対策を強化した上で、順次フライトを再開し始めています。まだ通常通りとは言えませんが、移動手段は確保できる見込みです」


日本から、来てくれる。


橋本逸郎と妙子。

秋田忠雄と芙美子。


その顔を思い浮かべた瞬間、さくらはまた泣きそうになった。


「お願いします……」


「ご安心ください。会社としても、できる限りの調整をいたします」


電話を切ったあと、さくらはしばらく受話器を握ったままだった。


支援。

手続き。

渡米。

安全対策。

今後の方針。


現実が少しずつ、容赦なく形を持ち始めている。


⸻


数日後、航空の安全対策が強化された上で、国際便は少しずつ再開した。


空港の警備は以前とはまったく違っていた。

長い列。

厳しい検査。

張り詰めた空気。

乗客の硬い表情。


それでも、人は移動しなければならない。

会いたい人がいる。

見舞いたい家族がいる。

そばに行かなければならない命がある。


日本からの便で、橋本逸郎と妙子、秋田忠雄と芙美子がニューヨークへ向かった。


飛行機に乗ること自体が、今は恐怖だった。

特に芙美子は、搭乗前に手が震えていた。


「飛行機が……怖い」


忠雄はその手を握った。


「それでも行くんや。一平のところへ」


橋本妙子も、目を赤くしながら頷いた。


「さくらが待ってる」


四人は、それぞれの恐怖を抱えたまま飛行機に乗った。

空が、もう以前と同じ意味ではなくなった後の、最初の旅だった。


⸻


ニューヨークの空港で四人を迎えた時、さくらは言葉より先に泣いた。


妙子が駆け寄る。


「さくら!」


そのまま、母娘は抱き合った。


逸郎は朝陽と梓と北斗を順番に抱きしめた。

忠雄は何も言わず、ただ孫たちの頭を撫でた。

芙美子は北斗を抱いた瞬間、声を上げて泣いた。


「よう頑張ったね……」


北斗もまた、泣いた。


家族が増えた。

それだけで、家の中の空気が少しだけ変わった。


一平の容体が変わったわけではない。

現実が明るくなったわけでもない。

でも、抱きしめてくれる腕が増えた。

泣いてもいい相手が増えた。

大人が、少しだけ増えた。


それは、確認できない現実の中で、確かに確認できる救いだった。


⸻


その夜、つばめは知らない大人たちの足元を順番に歩き回った。


最初は警戒し、すぐに妙子の膝へ乗り、それから芙美子の足元で丸くなった。

北斗が言う。


「つばめ、分かってるんだよ」


朝陽が小さく笑う。


「何を?」


「みんな、悲しいって」


その言葉に、誰もすぐには返事ができなかった。


つばめは何も言わない。

けれど、その小さな体温は、確かにそこにあった。


一平はまだ目を覚まさない。

何も確かめられないことばかりだ。

でも今夜、秋田家には日本から来た家族の声があり、抱きしめる腕があり、つばめの体温があった。


分からない現実の中で、人は確かなものを一つずつ探す。

それしか、前へ進む方法がないからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。