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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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32/59

生きていた代償

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第32話


生きていた代償


一平は、生きていた。


その事実だけを聞けば、それは奇跡だった。


あの爆発と炎と崩壊の中で、世界貿易センターの近くにいて、重傷を負いながらも病院へ運ばれ、丸二日に及ぶ手術を乗り越えた。

医師も看護師も、救急隊員も、誰もが全力を尽くした。


けれど、奇跡は家族をすぐに救ってはくれなかった。


集中治療室のベッドの上で、一平は眠り続けていた。


酸素マスク。

点滴。

心拍を示す機械音。

固定された右肩と腕。

包帯に覆われた頭部。

腫れた頬。

動かない足。


さくらは椅子に座り、一平の左手を握っていた。


「一平さん……」


呼びかけても、返事はない。


医師は、容体は安定しつつあるが予断を許さないと説明した。

肺には粉塵と有害物質を吸い込んだ影響が残っている。

全身の損傷は激しく、意識が戻っても長い治療とリハビリが必要になる。

元通りに戻るかどうかは、誰にも分からない。


命は助かった。

でも、それは終わりではなかった。


さくらは、その現実を少しずつ理解し始めていた。


これから、どれだけの時間が必要なのか。

歩けるようになるのか。

仕事に戻れるのか。

右腕は動くのか。

肺は元に戻るのか。

心は、どうなるのか。


考えれば考えるほど、足元が崩れそうになる。


それでも、さくらは一平の手を離せなかった。


「帰ってきてくれて、ありがとう」


その言葉だけを、何度も繰り返した。


⸻


朝陽は、病室の前でノアと会った。


学校側が家族の事情を知り、短時間だけ面会に来ることを認めてくれた。ノアは何か言葉を用意して来たのかもしれない。けれど、朝陽の顔を見た瞬間、その言葉は全部消えたようだった。


「Asahi…」

(朝陽……)


朝陽は頷いたが、何も言えなかった。


父の姿を見てから、言葉がうまく出てこない。

生きている。

でも、あまりにも痛々しい。

その二つを同時に受け止めることができない。


ノアはそっと言った。


「I’m here.」

(ここにいるよ)


その短い言葉に、朝陽の目から涙が落ちた。


「I don’t know what to say.」

(何を言えばいいか分からない)


「You don’t have to say anything.」

(何も言わなくていい)


ノアは、それ以上踏み込まなかった。


それがありがたかった。

今の朝陽には、励ましも慰めも、少し重すぎた。


⸻


梓は、マーカスと廊下のベンチに座っていた。


病室へ入ったあと、彼女はほとんど声を出せなかった。

父の顔。

チューブ。

包帯。

動かない身体。


その全部が、頭から離れない。


「He looked so different.」

(お父さん、全然違って見えた)


梓は震える声で言った。


マーカスは静かに頷いた。


「But he’s still your dad.」

(でも、君のお父さんだよ)


梓はその言葉を聞いて、涙をこぼした。


「I know. That’s what hurts.」

(分かってる。だから苦しいの)


以前の父を知っているからこそ、今の姿が痛い。

笑っていた父。

鉄道の話をしていた父。

朝、弁当を持って出ていった父。


その人と、今のベッドの上の人が、同じ人だと分かる。

分かるから、苦しい。


マーカスは何も言わず、ただ隣にいた。


⸻


北斗は、病室で父を見たあと、さくらにしがみついて泣いた。


「お父さんは生きてるのに、どうして起きてくれないの」


その言葉は、家族全員の胸をえぐった。


さくらは答えようとした。

でも、すぐには声が出なかった。


「お医者さんが、助けてくれてるの」


「でも、起きない」


「今は、体が一生懸命治ろうとしてるの」


「じゃあ、いつ起きるの?」


その問いに、答えはなかった。


さくらは北斗を抱きしめるしかできなかった。


⸻


街には、行方不明者の写真が貼られ始めていた。


電柱。

壁。

駅の近く。

病院の掲示板。

人々が手書きの紙を貼っている。


名前。

年齢。

勤務先。

最後に見た場所。

連絡先。

笑顔の写真。


ニュースでは、犠牲者の数が少しずつ増えていた。

同時に、まだ見つからない人たちの数も増えていた。


「生きていた」ことは奇跡だった。


けれど、その奇跡のそばには、数えきれないほどの帰らぬ人がいた。

そして、生き残った人にも、生き残ったからこその苦しみが始まっていた。


⸻


夕方、さくらは決めた。


「一度、家に戻ろう」


朝陽が驚いた顔をする。


「今?」


「つばめがいる」


その言葉で、子どもたちははっとした。


家に残してきた、シャム猫のつばめ。

餌も水も、朝からそのままだ。

混乱の中で家を飛び出し、病院へ来て、それからずっと戻れていなかった。


北斗の顔が歪む。


「つばめ……」


さくらは立ち上がった。


「お父さんは集中治療室にいる。すぐにまた戻る。でも、つばめも家族だから」


誰も反対しなかった。


交通はまだ完全には戻っていなかった。

車は使えない。

地下鉄も信用できない。

だから四人は、また自転車に乗った。


疲れ切った身体で、病院から家へ向かう。


街はまだ、いつもの街ではなかった。

煙の匂いが残り、人々の顔は固く、道のあちこちで警察官や救急関係者が動いていた。

それでも、家へ帰る道は確かにあった。


家のドアを開けると、つばめが駆け寄ってきた。


細い声で鳴く。

いつもより少し不安そうな声だった。


さくらはその場にしゃがみ込み、つばめを抱きしめた。


「ごめんね……心配かけてごめんね」


つばめは、意味など分からないまま、さくらの腕の中で小さく鳴いた。

その温かさに、さくらの目からまた涙が落ちた。


朝陽が餌を用意し、梓が水皿を洗う。

北斗はつばめの背中をずっと撫でていた。


家の中は、何も壊れていなかった。

朝出ていった時のまま、ほとんど変わっていない。


それが逆に、ひどく残酷だった。


さくらは台所へ向かい、水を飲もうとした。

コップを取る。

蛇口をひねる。

水が流れる。


その音を聞いた瞬間、足元がふっと遠くなった。


「……あ」


コップが床に落ちた。


割れる音。


「お母さん?」


朝陽が振り返った時、さくらはその場に崩れ落ちていた。


「お母さん!」


梓が叫ぶ。


北斗が泣きそうな声で駆け寄る。


「お母さん! どうしたの? お母さん!」


さくらは反応しない。

目を閉じ、顔色は真っ白だった。


朝陽は震える手で母の肩に触れた。


「お母さん、聞こえる? お母さん!」


返事はない。


梓は泣きながら言う。


「どうしよう、どうしよう……」


その時、朝陽は必死に自分を立て直した。


「ホームドクターに電話する」


固定電話へ走る。

番号を押す指が震える。

それでも、押し間違えないように、必死で見つめた。


ようやく繋がる。


「This is Asahi Akita. My mother collapsed. Please, we need help.」

(秋田朝陽です。母が倒れました。お願いです、助けてください)


事情を説明する。

父がテロで重傷を負い、母が二日近く眠らず病院にいたこと。

帰宅した直後に倒れたこと。

意識が戻らないこと。


医師はすぐに来ると言った。


⸻


ホームドクターが到着したのは、それほど時間が経っていないはずだった。

でも子どもたちには、永遠のように感じられた。


診察。

血圧。

呼吸。

脈。

問診。


医師は険しい顔で、しかし落ち着いた声で説明した。


「Extreme exhaustion. Severe sleep deprivation. Acute stress reaction.」

(極度の疲労、深刻な睡眠不足、急性ストレス反応です)


点滴が用意され、薬が処方された。


「She needs rest. Absolute rest.」

(休息が必要です。完全な休息です)


朝陽は頷いた。

梓も、北斗も、黙って聞いた。


母まで倒れた。

その事実は、子どもたちに新しい恐怖を植えつけた。


父が病院で眠り続けている。

母も倒れた。

家族を支えていた二人が、同時に壊れかけている。


その夜、子どもたちはほとんど眠れなかった。


さくらは丸一日かけて、ようやく意識を取り戻した。


目を開けた時、朝陽、梓、北斗がすぐそばにいた。

三人とも、泣き疲れた顔をしていた。


「お母さん……」


朝陽の声が震える。


さくらはかすかに微笑もうとした。


「ごめんね……」


その一言で、三人はまた泣いた。


⸻


しかし、次の変化はすでに子どもたちの中で始まっていた。


朝陽は、突然の大きな音に肩を震わせるようになった。

窓の外を飛行機が通る音がすると、顔がこわばった。

ノアから電話が来ても、受話器を取る前にしばらく立ち尽くすことがあった。


梓は、何度も同じ確認をするようになった。

鍵は閉まっているか。

電話はつながるか。

母は息をしているか。

父の病院から連絡は来ていないか。

眠ろうとしても、目を閉じると煙と病室の白い光が浮かんだ。


北斗は、飛行機の図鑑を開けなくなった。

あんなに好きだったページを見ようとすると、手が止まる。

そして夜になると、さくらの布団の近くで眠りたがった。


つばめは、そんな家族の間を静かに歩いた。

誰かのそばに座り、誰かの膝に乗り、何も言わずに体温だけを置いていく。


生きていた。

それは確かに奇跡だった。


でも、その奇跡の代償は、家族全員の心と身体に、少しずつ刻まれ始めていた。

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