静まり返った街
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第31話
静まり返った街
ニューヨークは、音を失っていた。
完全に無音になったわけではない。
サイレンはまだ鳴っている。
ヘリコプターの音もある。
遠くでは重機が動き、警察官の声が飛び、病院の廊下には足音が絶えない。
それでも、街は静まり返っていた。
あの街特有の、前へ前へと押し出すような喧騒が消えていた。
笑い声も、急ぐ足音も、店先の軽い音楽も、すべてがどこか遠くへ行ってしまったようだった。
世界貿易センターがあった場所からは、まだ煙が上がっている。
瓦礫の奥では火がくすぶり、消防隊員たちは疲れ切った身体で、それでも作業を止めない。灰をかぶった街路。白く汚れた制服。顔を覆うマスク。祈る人々。写真を持って立ち尽くす家族。
ニューヨークは、巨大な傷口そのものになっていた。
病院の待合室で、さくらはテレビを見ていた。
画面の中では、時のアメリカ大統領が硬い表情で演説している。
声は抑えられていたが、その奥には怒りがあった。
アフガニスタンに拠点を置くテロ組織への非難。
犯行への責任追及。
関係者の引き渡し要求。
そして、準備が整い次第、軍事行動へ踏み切るという強い宣言。
待合室の誰もが、その画面を見つめていた。
誰かが小さくつぶやいた。
「War…」
(戦争だ……)
さくらはその言葉に反応できなかった。
戦争。
報復。
軍事侵攻。
国家。
テロ組織。
それらは確かに大きな言葉だった。
世界を動かす言葉だった。
でも、今のさくらの世界は、手術室の赤いランプの下にあった。
一平の手術は、丸二日続いていた。
途中で何度か医師や看護師が出入りしたが、はっきりした説明はまだなかった。
「処置を続けています」
「容体は非常に重いです」
「もう少しお待ちください」
その繰り返しだった。
朝陽は壁にもたれて座っていた。
目の下には濃い影があり、もう泣く力も残っていないように見える。
梓は両手を握りしめ、ただ手術室の扉を見つめていた。
北斗はさくらの膝に頭を乗せ、眠っているのか、意識だけを閉じているのか分からない状態だった。
誰もちゃんと眠っていない。
誰もちゃんと食べていない。
それでも、待つしかなかった。
やがて、手術室のランプが消えた。
最初に気づいたのは、梓だった。
「あ……」
その声に、さくらが顔を上げる。
朝陽も立ち上がる。
北斗も目を覚ました。
赤い灯りが消えている。
扉が開いた。
手術着姿の医師が出てきた。
顔には疲労がはっきり刻まれていた。
だが、その目は誠実だった。
「Mrs. Akita?」
(秋田さくらさんですか?)
さくらは立ち上がり、震える足で前へ出た。
「Yes. I’m his wife.」
(はい。妻です)
医師はゆっくり頷いた。
「I’m Dr. Reynolds. I led the surgical team.」
(執刀を担当したレイノルズです)
さくらの後ろに、朝陽、梓、北斗が並ぶ。
医師は子どもたちを一度見てから、言葉を慎重に選んだ。
「First, he is alive.」
(まず、ご主人は生きています)
その一言だけで、さくらの目に涙が浮かんだ。
朝陽は唇を噛み、梓は小さく息を吐いた。
北斗は「生きてる」と声にならない声で繰り返した。
だが、医師の表情は厳しいままだった。
「His injuries are extensive.」
(ただし、損傷は非常に広範囲です)
さくらは頷いた。
聞かなければならない。
逃げてはいけない。
医師は説明を始めた。
「He has a comminuted fracture of the right shoulder.」
(右肩に粉砕骨折があります)
「Multiple rib fractures.」
(肋骨も複数折れています)
「A fracture of the right cheekbone.」
(右頬骨にも骨折があります)
「A severe laceration to the head, though we were able to control the bleeding.」
(頭部には深い裂傷がありますが、出血は止めました)
さくらは両手を握りしめた。
医師は続ける。
「He inhaled dust, smoke, and toxic material at the scene. His lung function is reduced. We’ll need to monitor that very closely.」
(現場で粉塵、煙、有害物質を吸い込んでいます。肺機能が低下しており、厳重な経過観察が必要です)
朝陽の顔が強張る。
「Lung function…」
(肺機能……)
医師は頷いた。
「There are also fractures in the right upper arm and the right ankle.」
(さらに、右上腕部と右足首にも骨折があります)
北斗が小さく言った。
「そんなに……」
医師は、子どもにも分かるようにゆっくり言った。
「Your father was very badly hurt. But he survived the initial trauma, and he survived surgery.」
(お父さんは、とても重い怪我をしました。でも最初の衝撃を乗り越え、手術も乗り越えました)
その言葉は、希望でもあり、現実でもあった。
さくらが震える声で聞いた。
「Will he… recover?」
(回復しますか?)
医師はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、さくらは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「It will take a long time. Possibly around a year for major recovery.」
(長い時間がかかります。大きな回復だけでも、一年ほどかかる可能性があります)
そして、さらに静かに続けた。
「But whether he will return fully to the way he was before… we cannot say yet.」
(ただ、以前と同じ状態まで戻れるかどうかは、私たちにもまだ分かりません)
さくらは目を閉じた。
以前と同じ。
朝、笑って出ていった一平。
子どもたちに冗談を言う一平。
鉄道の話になると急に早口になる一平。
味噌汁をすすりながら「うまい」と言う一平。
その一平に、戻れるか分からない。
医師は深く息を吐いた。
「We did everything we could.」
(私たちは、できる限りのことをしました)
その言葉に、嘘はなかった。
さくらは涙を拭いながら、頭を下げた。
「Thank you… thank you for saving him.」
(ありがとうございます……助けてくださって、ありがとうございます)
医師は静かに頷いた。
「He’ll be moved to intensive care shortly. You’ll be able to see him, but only briefly for now.」
(まもなく集中治療室へ移します。短時間ですが、面会できます)
その数分後、手術室の扉が再び開いた。
ストレッチャーが出てきた。
その上に、一平がいた。
最初、誰もそれが一平だとすぐには受け止められなかった。
顔には包帯が巻かれていた。
右頬は腫れ、額にも厚いガーゼが当てられている。
酸素マスクが口元を覆い、点滴の管が何本もつながっていた。
右肩と腕は厳重に固定され、胸にも処置の痕が見える。
右足首にも固定具が巻かれていた。
肌の色は悪く、唇には血の気が少ない。
目は閉じられたまま。
胸がわずかに上下していることで、かろうじて生きていることが分かる。
さくらは、声を失った。
これが、一平。
朝、弁当を持って出ていった夫。
「行ってきます」と言った夫。
その人が、今、こんな姿で運ばれている。
「お父さん……」
朝陽の声がかすれた。
梓は両手で口を覆ったまま動けない。
北斗は一歩後ずさりした。
そして、次の瞬間、泣き出した。
「お父さん……こんなの……」
さくらは震える足でストレッチャーに近づいた。
一平の左手だけが、かろうじて包帯に覆われずに見えていた。
さくらはその手にそっと触れた。
冷たくはなかった。
弱いけれど、温かさがあった。
その温かさに、さくらは崩れそうになった。
「一平さん……」
声は小さかった。
届いているかどうかも分からない。
でも言わずにはいられなかった。
「帰ってきてくれて、ありがとう……」
朝陽も近づいた。
「お父さん……私、まだいっぱい話したいことあるから……」
梓は涙をこぼしながら言う。
「戻ってきて……お願い……」
北斗は泣きながら、ストレッチャーの横に立った。
「お父さん、自由の女神、また見せてくれるって言ったじゃん……」
誰も、それ以上言えなかった。
ストレッチャーはゆっくりと病室へ向かって動き出す。
家族は、その後ろを黙ってついていった。
廊下の窓の外には、静まり返ったニューヨークの街が見えた。
煙はまだ空に残っている。
街はまだ灰色をしている。
テレビの中では、国家が怒りを言葉にし、戦争へ向かって動き始めている。
だが秋田家にとって、その日の中心は一つだった。
一平は生きている。
でも、昨日までの一平ではない。
そして、この家族もまた、昨日までの家族には戻れない。
静まり返った街の中で、秋田家の新しい戦いが始まった。




