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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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30/59

空が裂けた日

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第30話


空が裂けた日


病院の待合室には、時間がなかった。


時計は動いている。

秒針も、分針も、確かに進んでいる。

それなのに、さくらたちの時間だけが、手術室の扉の前で止まっていた。


一平が搬送されてから、丸一日が過ぎようとしていた。


最初の数時間は、ただ祈るしかなかった。

次の数時間は、ただ待つしかなかった。

そして夜が明けても、まだ待つしかなかった。


さくらは椅子に座ったまま、両手を握りしめていた。

朝陽はその隣で、膝の上に置いた手を見つめている。

梓は何度も涙を拭った。

北斗は疲れ切って、さくらの膝に頭を預けていた。


誰も、まともに眠れていない。


そこへ、待合室のテレビからニュースが流れた。


アナウンサーの声は、前日よりさらに重かった。


「アフガニスタンを拠点とするイスラム過激派テロ組織が、今回の同時多発攻撃について犯行声明を出しました」


待合室の空気が、変わった。


さくらはゆっくり顔を上げた。

朝陽も、梓も、北斗も、画面を見た。


そこに映っていたのは、遠い土地の乾いた風景。

覆面の男たち。

武装した集団。

そして、信仰の言葉をねじ曲げ、自分たちの暴力を正当化しようとする声明だった。


さくらの胸の奥で、何かが熱く逆流した。


「……なんで」


声は小さかった。

だが、その一言の中に、怒りも、悲しみも、恐怖も、全部が混じっていた。


「なんで、私たち家族が……」


朝陽は唇を震わせた。


お父さんは、ただ仕事に行っただけだった。

日本の食材を扱う会社で、いつものように働くために。

朝、家を出て、弁当を持って、笑っていた。


それが、なぜ。


梓は両手を握りしめた。


「自分たちの思想のために……なんで」


言葉がそこで止まる。


なぜ、関係のない人が。

なぜ、父が。

なぜ、あのビルにいた人たちが。

なぜ、消防隊員が。

なぜ、旅客機に乗っていた人たちが。

なぜ、ペンタゴンにいた人たちが。


北斗は泣きながら、テレビを睨むように見た。


「お父さん、何もしてないじゃん……」


誰も答えられなかった。


病院の待合室にいる他の家族たちも、同じような顔をしていた。

誰かの夫。

誰かの妻。

誰かの子ども。

誰かの親。

誰かの友人。


怒りにも似たもの。

憎しみにも似たもの。

けれど、ただ憎むだけでは収まりきらない、もっと深い裂け目。


自分たちの大切な人が、誰かの歪んだ目的のために傷つけられた。

その理不尽を、人は簡単には受け止められない。


さくらは震える声で言った。


「信じるものがあるなら……人を殺さないでよ……」


その言葉は、誰にも向けられていないようで、世界そのものへ向けられていた。


⸻


現場では、まだ消火活動が続いていた。


世界貿易センターがあった場所は、もはや地図の上の建物ではなく、巨大な瓦礫と炎と煙の海になっていた。


消防隊員たちは、疲労と粉塵と熱の中で、それでも動き続けていた。

ホースを伸ばし、瓦礫をどかし、声をかけ、耳を澄ます。

まだ誰かがいるかもしれない。

まだ救える命があるかもしれない。


その思いだけが、彼らを前へ進ませていた。


だが、火は簡単には消えなかった。


大量の航空燃料が、建物の内部へ染み込み、瓦礫の奥で燃え続けていた。

消しても、また別の場所から火が上がる。

水をかけても、煙が濃くなる。

熱は容赦なく隊員たちを押し返す。


まるで炎そのものが、必死の消火活動を嘲笑っているかのようだった。


「Watch the voids!」

(空洞に注意しろ!)


「We need more water pressure here!」

(こっちの水圧を上げろ!)


「Back up! That section’s unstable!」

(下がれ! そこは不安定だ!)


声が飛ぶ。

無線が鳴る。

サイレンが遠くで響く。

灰が降る。

煙が視界を奪う。


隊員たちは誰も諦めていなかった。

だが、現場は人間の限界を超えていた。


それでも、彼らはそこにいた。


誰かを救うために。

亡くなった仲間を見つけるために。

家族へ帰れなかった人を、せめて家族のもとへ返すために。


⸻


病院では、一平の手術が続いていた。


搬送から長い時間が経っていた。

爆風による多発外傷。

肋骨の損傷。

肩の負傷。

頭部裂傷。

内出血。

粉塵を吸い込んだ肺への影響。


医師たちは、ひとつずつ命に関わる損傷を処置していた。

時間との戦いだった。


「Pressure’s unstable.」

(血圧が不安定です)


「More suction.」

(吸引を増やして)


「We need to control the bleeding first.」

(まず出血を止める)


「He’s still fighting.」

(まだ持ちこたえている)


手術室の中では、誰も余計な言葉を口にしない。

一平の命をつなぐために、全員が動いていた。


その一平には、意識はなかった。


だが、もし深い闇の底にわずかでも感覚が残っていたなら、彼はきっと家族の声を探していただろう。


さくら。

朝陽。

梓。

北斗。


朝の食卓。

弁当。

笑い声。

玄関で交わした「行ってきます」。


そのすべてが、今はあまりにも遠い。


⸻


待合室で、さくらのもとに日本からまた電話が入った。


橋本逸郎と妙子。

秋田忠雄と芙美子。

どちらの家も、ニュースを見ていた。

犯行声明も聞いていた。


妙子の声は、怒りと涙で震えていた。


「なんで一平さんが……なんでさくらたちが……」


さくらは答えられなかった。


忠雄も、言葉を絞り出すように言った。


「一平は、ただ働きに行っただけや……」


芙美子は泣きながら同じことを繰り返した。


「生きて帰ってきて……ただそれだけでいいから……」


その声を聞いて、さくらはまた涙をこぼした。


国がどうとか、思想がどうとか、報復がどうとか。

そんな大きな言葉は、今の家族には遠すぎる。


ただ、一平に生きていてほしい。

それだけだった。


朝陽も梓も北斗も、祖父母の声を聞いて、また泣いた。


遠く日本にいる家族も、同じ痛みの中にいる。

距離はある。

だが、この痛みに距離はなかった。


⸻


テレビでは、同じ映像が繰り返される。


飛行機。

衝突。

炎。

崩壊。

逃げる人々。

粉塵に包まれた街。

ペンタゴン。

平原に墜ちた旅客機。

犯行声明。


世界は、その日から別の表情になった。


空が裂けた日。


それは、ただ建物が壊れた日ではない。

ただ多くの命が失われた日でもない。

人々が、空を見上げる意味を変えられてしまった日だった。


朝陽は、ノアと見た夕焼けのことを思い出した。

梓は、マーカスと観た飛行機の映画のことを思い出した。

北斗は、飛行機の図鑑を抱えていた自分を思い出した。


空は、夢だった。

遠くへ行くものだった。

人を運ぶものだった。


それが、誰かの憎しみに使われた。


その事実が、子どもたちの胸にも、まだ言葉にならない傷として刻まれ始めていた。


⸻


夜が来ても、手術室の灯りは消えなかった。


さくらは椅子に座ったまま、祈るように手を握っていた。

朝陽は壁にもたれ、泣き疲れた目で扉を見つめている。

梓は北斗の肩を抱いていた。

北斗はもう、声を出す力も残っていなかった。


丸一日。

一平はまだ、手術室の中にいる。


現場では火が消えきらない。

病院では命をつなぐ手術が続いている。

テレビでは犯行声明が流れ、世界は怒りと悲しみに震えている。


そのすべての中で、秋田家の願いはひとつだけだった。


どうか、戻ってきて。


思想も、国家も、報復も、歴史も、まだ今は要らない。

ただ、夫を。

父を。

息子を。

家族を。


どうか、返して。


手術室のランプは、まだ赤く灯っていた。

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