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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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29/59

届かない声

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』

 第29話

 届かない声


 声は、どこにも届かなかった。


 さくらは固定電話の前で、何度も受話器を取った。

 病院へ。

 学校へ。

 日本商事へ。

 日本の実家へ。

 一平の両親へ。


 つながる時もあれば、つながらない時もある。

 途中で切れる。

 呼び出し音だけが続く。

 誰かが出ても、向こうも混乱していて、まともに話せない。


 ニューヨークの街全体が、巨大な悲鳴を上げているようだった。


 テレビの中では、世界貿易センターが崩れた映像が何度も繰り返されている。

 そのたびに、さくらは目をそらした。

 一平は生きている。

 病院に運ばれた。

 手術中だ。


 その事実だけを胸に押し込んでいなければ、立っていられなかった。


 だが、恐怖はまだ終わらない。


「さらに、行方が分からなくなっていた旅客機について、新たな情報です――」


 ニュースキャスターの声が震えていた。


 アメリカの首都へ向かっていたとみられる一機。

 ホワイトハウスを狙っていた可能性。

 その機内で、乗客たちが異変に気づき、コックピットを奪い返そうとしたこと。

 そして、最終的に機体は、人家や工場などがない平原へ墜落したこと。


 首都を襲う計画は阻止された。

 だが、乗客と乗員は全員、帰らぬ人となった。


 さくらはテレビを見つめたまま、口元を押さえた。


 そこにいた人たちは、最後まで生きようとした。

 ただ逃げようとしたのではない。

 誰かを守ろうとした。

 自分たちの命で、もっと多くの命を救おうとした。


 それを思うと、胸の奥が潰れそうだった。


 今日、空はただの空ではなくなってしまった。

 飛行機はただ人を運ぶものではなくなってしまった。

 ニュースは遠いものではなくなってしまった。


 そして、一平はまだ手術室にいる。


 学校からの連絡を受けて、朝陽、梓、北斗は順番に帰宅した。


 最初に帰ってきたのは朝陽だった。


 玄関のドアが開く音がした瞬間、さくらは走った。

 朝陽は鞄を肩にかけたまま立っていた。顔は真っ青で、目は泣き腫らしている。


「お母さん……」


 その声を聞いた瞬間、さくらは朝陽を抱きしめた。


「お父さん、生きてる。病院にいる。今、手術してる」


 朝陽はその言葉を何度も飲み込むようにして、やっと頷いた。


「生きてる……」


「生きてる」


 その言葉を、母娘は互いに確認し合うように繰り返した。


 次に梓が帰ってきた。

 彼女は玄関に入るなり、何も言わずにさくらへ抱きついた。

 いつもなら一歩引いて感情を整えようとする梓が、その日は子どものようにしがみついた。


「お父さん……」


「病院にいる。手術中」


「生きてる?」


「生きてる」


 梓はその場で泣き崩れた。


 最後に北斗が帰ってきた。

 小さな身体で、必死に泣かない顔を作っていた。

 だが、さくらと目が合った瞬間に、全部が崩れた。


「お父さん、死んでない?」


 その問いは、あまりにもまっすぐだった。


 さくらはしゃがみ、北斗の肩を両手で包んだ。


「死んでない。生きてる。病院でお医者さんが助けてくれてる」


 北斗はその言葉を聞いて、声を上げて泣いた。


 朝陽がその肩を抱き、梓も横から手を伸ばす。

 つばめが足元で不安そうに鳴いている。

 家の中には、泣き声と、テレビの速報と、電話の呼び出し音が混ざっていた。


 それでも、家族は揃った。


 一平だけが、まだそこにいない。


 市内の交通は、ほとんど麻痺していた。


 地下鉄は止まり、道路は封鎖され、緊急車両が行き交い、橋やトンネルの状況も分からない。タクシーなど捕まるはずもなく、車を使うことも現実的ではなかった。


 病院へ行かなければならない。

 だが、どうやって。


 さくらは短く考え、すぐに決めた。


「自転車で行く」


 朝陽が顔を上げる。


「今から?」


「そう。車は無理。歩くより早い」


「私も行く」


 梓もすぐに言った。


「私も」


 北斗が涙を拭きながら言う。


「僕も行く」


 さくらは一瞬だけ迷った。

 子どもたちを連れて、混乱した街を走る。

 危険がないとは言えない。

 けれど、家に残すこともできなかった。


 今、この子たちは父のそばへ行かなければならない。

 少なくとも、病院の廊下まで。


「分かった。みんなで行く」


 自転車を出す。

 ヘルメットをかぶる。

 最低限の荷物を持つ。

 一平の保険証関連、身分証のコピー、連絡先を書いたメモ、財布。

 さくらの手は震えていたが、動きは止まらなかった。


 家を出る前、朝陽がつばめを見た。


「つばめ、待ってて」


 つばめは何も分からないまま、玄関の近くで小さく鳴いた。


 街は、知っているニューヨークではなかった。


 いつもなら車が流れる道路に、人が溢れている。

 粉塵で白くなった人。

 携帯電話を握りしめる人。

 泣きながら歩く人。

 無言で北の方へ向かう人。

 南の空からは、まだ煙が上がっている。


 サイレンが絶えない。

 消防車。

 救急車。

 警察車両。

 遠くでヘリコプターの音がする。


 さくらたちは、自転車で慎重に進んだ。

 いつもの道が塞がれていれば回り道をする。

 警察官に止められれば、病院へ行くことを伝える。

 誰もが疲れた顔をしていたが、さくらが「夫が搬送されています」と言うと、道を示してくれた。


 朝陽は歯を食いしばってペダルを踏んだ。

 ノアの顔が何度か浮かんだ。

 学校で見たテレビ画面。

「He’s alive」と言ってくれた声。

 だが今は、それを考える余裕はない。


 梓は前を走るさくらの背中を見つめながら進んだ。

 怖い。

 足が震える。

 それでも止まれない。

 マーカスが差し出してくれたハンカチの感触が、まだポケットに残っていた。


 北斗は必死だった。

 いつもなら自転車で走ることは楽しい。

 風を切るのが好きだ。

 でも今日は違う。

 今日は、風も、音も、街の景色も、全部怖かった。


 それでも走った。


 お父さんのところへ行くために。


 病院は混乱していた。


 入口には負傷者、家族、警察官、医療スタッフが入り乱れていた。

 血の匂い。

 消毒液の匂い。

 泣き声。

 叫び声。

 名前を呼ぶ声。

 安否を尋ねる声。


 さくらは受付へ向かった。


「秋田一平の家族です。今朝、世界貿易センター付近から搬送されました」


 受付の女性は、疲れ切った顔で書類を確認した。


「Akita… Ippei Akita…」


 その名前が見つかるまでの数秒が、永遠のように長かった。


 やがて、女性が顔を上げる。


「He is in surgery. Please wait. I’ll have someone take you to the surgical waiting area.」

(手術中です。お待ちください。手術室前の待合へご案内します)


 さくらはその場で倒れそうになった。

 朝陽がすぐに腕を支える。


「お母さん」


「大丈夫……大丈夫」


 自分に言い聞かせるように言った。


 案内された廊下は、白く、長く、冷たかった。

 壁に沿って椅子が並び、同じように誰かを待つ家族たちが座っている。

 泣いている人。

 祈っている人。

 ただ一点を見つめている人。


 手術室の前に着いた時、さくらは足が止まった。


 この扉の向こうに、一平がいる。

 朝、家を出た一平が。

 弁当を持って、笑って、いつものように「行ってきます」と言った一平が。


 今は、手術台の上にいる。


 朝陽は椅子に座ると、両手を握りしめた。

 梓はその隣で涙をこらえている。

 北斗はさくらの腕にしがみついた。


 誰も、何を言えばいいのか分からなかった。


 言葉は、もう何度も届かなかった。

 電話も届かなかった。

 声も届かなかった。

 ただ、ここまで来た。


 あとは待つしかない。


 手術室のランプは、まだ点いたままだった。


 外では、世界が変わり続けていた。

 ペンタゴン。

 行方不明機。

 平原に墜ちた旅客機。

 崩れた塔。

 失われた無数の命。


 だが、秋田家にとっての世界は今、この手術室の扉の前に集約されていた。


 一平が生きて戻るかどうか。


 その一点だけが、すべてだった。

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