2001年9月11日・朝
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第26話
2001年9月11日・朝
九月十一日の朝は、どこまでも青かった。
その青さが、あとになってどれほど残酷な記憶になるのか、この時点ではまだ誰も知らない。
マンハッタンの上空は澄み渡り、雲は少なく、光は高層ビルの窓に静かに反射していた。朝のニューヨークはいつものように動いている。地下鉄の響き、車のクラクション、通勤客の足音、コーヒーショップの行列。世界は、普通の火曜日として進んでいた。
だが、その“普通”はすでに破られていた。
一機目が北棟へ激突した瞬間から。
爆発。
火炎。
黒煙。
理解不能な衝撃。
そしてその数分後、市内のあらゆる場所で、人々はようやく“何かとんでもないことが起きた”と気づき始めていた。
さくらが最初に異変を知ったのは、台所だった。
洗い終えた食器を拭きながら、何気なくつけたテレビ。朝の情報番組の途中、画面が不自然に切り替わった。アナウンサーの声が変わる。スタジオの空気が、目に見えて固くなる。
「速報です。ニューヨークの世界貿易センタービルに、航空機とみられるものが衝突したという情報が入っています――」
さくらの手が止まった。
最初、意味が入ってこなかった。
航空機。
世界貿易センター。
衝突。
その単語が一つずつ頭に入って、ようやく全体の意味が形になる。
「……え?」
テレビの画面には、塔の上層階から煙を噴き上げるビルが映っていた。カメラは少し揺れていて、現場の混乱がそのまま伝わってくる。だが映像の現実感がなさすぎて、逆に作り物みたいに見える。
さくらは一歩、テレビへ近づいた。
「あれ……」
喉が急に乾く。
世界貿易センター。
一平の職場。
一平が、毎朝通っているビル。
「いや……」
すぐに固定電話へ目が行く。
かける。
早く。
でも指が少し震えて、数字を押し間違えそうになる。
コールは鳴らない。
つながらない。
あるいは話し中なのか、回線自体が混乱しているのか、それすら分からない。
「お願い……」
もう一度かける。
つながらない。
その時、テレビの中のレポーターが叫ぶように言った。
「現場は大変な混乱状態です。下では破片が降り、周辺は封鎖が始まっています――」
さくらは受話器を握ったまま、ゆっくりと椅子に腰を落とした。
何が起きたのか、まだ分からない。
事故なのか。
何かの誤作動なのか。
でも、たったひとつだけ分かっていることがある。
一平は、あのビルへ向かった。
その事実だけが、今、鉛みたいに胸へ落ちていた。
学校でも、空気は急変していた。
朝陽のクラスでは、最初、誰かが廊下から戻ってきて言ったのだ。
「Something hit the Trade Center.」
(トレードセンターに何かがぶつかったらしい)
教室の数人が顔を上げ、何人かはただの噂話だと思って笑い飛ばしかけた。
だが次の瞬間、別の教師が早足で入ってきて、担任に何かを耳打ちした。
担任の顔色が変わる。
「Everyone, stay seated.」
(みんな、そのまま座っていて)
その声がいつもと違っていた。
それだけで、ざわめきが止まる。
教室の前に置かれたテレビがつけられた。
ノイズのあと、朝のニュース番組の映像が映る。
煙を上げる北棟。
朝陽はその瞬間、全身の血が引くのを感じた。
「あ……」
声にならない。
世界貿易センター。
父の職場。
ノアが後ろの席から、息をのむように言った。
「Oh my God…」
(なんてことだ……)
朝陽はテレビを見たまま動けない。
画面の中の煙が、現実感を持たないまま膨らんでいく。
ノアが席を立ちかける。
だが朝陽はそれより先に、椅子を引いて立ち上がっていた。
「My dad is there.」
(お父さんがあそこにいる)
その一言で、教室の空気がさらに変わった。
さっきまで“ニュース”だったものが、急にひとりのクラスメイトの現実になる。
ノアが朝陽のそばへ来た。
「Asahi—」
(朝陽――)
朝陽は首を振る。
何を言われても、今は入ってこない。
「He went in this morning. He always goes in the morning.」
(今朝、行ったの。いつも朝に入るの)
声が震えている。
でも、泣いてはいなかった。
まだ泣けるところまで感情が届いていない。
担任が静かに言う。
「Come with me.」
(一緒に来て)
朝陽はその声に従って教室を出た。
廊下には同じようにざわついている生徒たちがいた。誰かが泣いている。誰かが公衆電話の場所を聞いている。誰かが“事故だよな?”と繰り返している。
朝陽には、その全部が遠かった。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
お父さんは、あのビルにいる。
梓の教室でも、似たような混乱が起きていた。
だが梓の場合、最初はうまく意味がつながらなかった。
テレビに映る煙。
教師の強張った声。
クラスメイトたちのざわめき。
そして、朝陽がいる上の学年の方から聞こえてきた、誰かの切迫した声。
「Her dad works there.」
(あの子のお父さん、あそこに勤めてるんだって)
その言葉が耳に入った瞬間、梓の身体が冷たくなった。
世界貿易センター。
お父さん。
そこにしか、思考が行かない。
「No…」
(いや……)
自分でも声が出ていたのか分からなかった。
授業どころではなかった。
先生が何か話していたが、意味が入ってこない。
梓は机の上で指をぎゅっと握りしめた。
お父さんは、毎日あそこへ行く。
今日も行った。
それは朝、ちゃんと見送った。
たった数時間前の、味噌汁の湯気のある朝。
あれと、この映像がどうしてつながるのか、頭が拒否していた。
マーカスが別の列からこちらを見ていた。
梓の様子がおかしいことに気づいたらしい。
だが、何も言えずにいる。
何を言っても足りないことが分かっている顔だった。
梓はただ、テレビ画面の煙を見つめ続けた。
胸の奥で、何かが冷たく沈んでいく。
北斗の小学校でも、朝の授業は止まっていた。
年齢が低い分だけ、教師たちはさらに慎重だった。
テレビを見せるかどうか迷い、でも情報を完全に遮ることもできない。廊下や職員室では、すでに教師たちの顔色が変わっている。
北斗は最初、クラスが変な空気になっている理由をうまく理解できなかった。
ジェシカも落ち着かない顔で、何度も先生の方を見ている。
やがて担任が、できるだけ穏やかな声で言った。
「There’s been an accident in the city.」
(市内で事故が起きました)
事故。
その言葉を聞いても、北斗はまだピンとこない。
でも、大人たちの顔が“普通の事故”ではないことを教えていた。
少しして、職員室から戻ってきた別の先生が担任に耳打ちする。
担任は目を伏せ、北斗の方をちらりと見た。
北斗の心臓が、急に変な打ち方をした。
「……先生?」
担任は一度しゃがんで、北斗の目線に合わせる。
「Hokuto, I need you to stay calm, okay?」
(北斗、落ち着いて聞いてね)
その言い方だけで、もう嫌な予感しかしない。
「Your dad’s office building was involved in the accident.」
(お父さんの職場のビルが、その事故に巻き込まれました)
北斗は一瞬、意味を理解できなかった。
お父さんの職場。
ビル。
事故。
「……でも」
声が裏返る。
「でも、お父さん今日、行ってる」
ジェシカが隣で息をのんだ。
クラスの誰も、もう動かなかった。
北斗の目が急に熱くなる。
泣くのかどうか、自分でも分からない。
ただ、“そこにいる”ということだけが、胸に大きくのしかかった。
その頃、世界貿易センター周辺では、救急隊と消防隊が一斉に動き始めていた。
悲鳴。
黒煙。
破片。
倒れた人。
負傷者。
走り回る救助隊員。
誰もがまだ、全体像を把握しきれていない。
一平は、倒れた場所で半ば意識を失いかけていた。
右肩と脇腹の痛み。
額から流れる血。
呼吸のたびに胸が焼けるように痛い。
咳をするたび、喉の奥に粉塵の味が広がる。
視界は白く濁り、耳はまだまともに戻っていない。
それでも、近づいてくる足音と叫び声だけは、少しずつ現実として聞こえ始めていた。
「We’ve got one here!」
(こっちにひとりいる!)
「He’s breathing!」
(呼吸はある!)
誰かの手が一平の肩に触れる。
痛みで身体が跳ねる。
「Easy! Stay with us, sir!」
(落ち着いて! 意識を保ってください!)
一平は何か言おうとした。
だが喉がつぶれたみたいに声にならない。
家。
さくら。
子どもたち。
意識の底で、それだけが繰り返される。
「Name? Can you hear me?」
(名前は? 聞こえますか?)
「……あ……きた……」
それがちゃんと聞き取れたかどうか、一平には分からなかった。
だが救急隊員は何度も頷いていた。
「Good. Good. Stay with me.」
(よし、いい。意識を保って)
ストレッチャーに乗せられる。
空が見えた。
ありえないくらい青い空だった。
その青の中に、黒煙が太く広がっている。
その時だった。
誰かが上を見て叫んだ。
「What the hell is that?」
(何だ、あれは!?)
一平も、意識のかけらで反射的に視線を向けた。
空を裂くような爆音。
異様な速度。
もう一機。
それが南棟へ突っ込んでいくのが見えた。
次の瞬間、再び世界が爆発した。
炎。
衝撃。
空気の壁。
悲鳴。
誰かの叫び。
周囲が再び混乱に飲まれる。
救急隊員が一平の身体に覆いかぶさるようにして守った。
ストレッチャーが激しく揺れ、周囲でガラスが砕け、熱風が一瞬こちらまで押し寄せる。
「Move! Move! Move!」
(動け! 急げ!)
それはもう事故ではなかった。
誰もがその瞬間に理解した。
これは、意図された何かだ。
一平はその衝撃の中で、もう一度意識を失いかけた。
だが救急隊員の声だけが、遠くから引き戻すように響いていた。
「Stay with us!」
(しっかりしろ!)
ストレッチャーが走る。
サイレンが重なる。
ビルから離れる。
煙が後ろへ流れていく。
救急車の中に押し込まれた時、一平の視界には天井の白い灯りしかなかった。
酸素マスク。
血圧計。
誰かの手。
誰かの声。
「Male, multiple trauma, blast impact, possible rib fractures, shoulder injury, head laceration—」
(男性、多発外傷、爆風による打撃、肋骨骨折疑い、肩の損傷、頭部裂傷――)
専門用語が飛ぶ。
一平には意味の半分も入ってこない。
ただ、揺れる車内の中で、ひとつだけ強く思った。
生きて帰りたい。
それだけだった。
救急車は市内の病院へ向かって走り続けた。
秋田家側の時間は、その頃から完全に変わっていた。
家では、さくらが何度も電話をかけている。
学校では、朝陽と梓と北斗が、それぞれ別の場所で同じ事実に押しつぶされそうになっている。
何が起きたのか、まだ誰にも分からない。
でも、ひとつだけ分かっている。
お父さんは、あのビルにいた。
そして今、街そのものが崩れ始めている。
九月十一日・朝。
それはもう、二度と“普通の日”へは戻れない時間だった。




