最初の衝撃
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第27話
最初の衝撃
電話は、鳴らなかった。
さくらは受話器を握ったまま、何度も同じ番号を押した。
一平のオフィス。
日本商事ニューヨーク支店。
会社の代表番号。
知っている限りの連絡先。
だが、どこにもつながらない。
話し中なのか。
回線が混乱しているのか。
そもそも、その場所にもう誰も電話を取れる状態ではないのか。
考えたくない可能性だけが、頭の中で増えていく。
テレビ画面には、煙を上げる世界貿易センタービルが映っていた。
北棟。
南棟。
炎。
黒煙。
ヘリコプターの映像。
逃げる人々。
叫ぶレポーター。
それだけでも、もう現実の限界を超えていた。
だが、恐怖はそこで終わらなかった。
ニュースキャスターの声が、さらに強張る。
「新たな情報です。ワシントン近郊の国防総省、ペンタゴンに旅客機が突入したとの情報が入っています」
さくらは、耳を疑った。
「ペンタゴン……?」
画面が切り替わる。
煙。
建物の一部から立ち上る炎。
現地からの混乱した映像。
死傷者が多数出ている可能性。
ニューヨークだけではない。
ワシントンも。
ペンタゴンも。
これは事故ではない。
誰かが、何かを狙っている。
さらに、別の速報が入る。
「現在、もう一機の旅客機の行方が確認できていないとの情報もあります」
さくらの身体から、血の気が引いた。
もう一機。
どこへ。
何を狙って。
誰が乗っていて。
次はどこなのか。
テレビの前にいるのに、世界そのものの床が抜け落ちたようだった。
電話はまだつながらない。
「一平さん……」
声は震えていた。
だが泣くことすらできなかった。
泣いたら、その瞬間に何かを認めてしまいそうだった。
学校では、朝陽が職員室の隅に座らされていた。
教師たちは走り回り、電話をかけ、保護者からの問い合わせに答え、校内の混乱を抑えようとしている。誰も怒鳴ってはいない。けれど、全員の声が薄く震えていた。
朝陽は、ただテレビを見ていた。
北棟。
南棟。
炎。
煙。
そこに父がいるかもしれない。
そのことだけで、全身が冷たかった。
「Asahi, your mother is trying to reach the school.」
(朝陽、お母さんが学校に連絡しようとしているみたい)
担任が言った。
朝陽は頷いたが、返事は出なかった。
その時、テレビからさらに別の声が聞こえた。
「Reports are coming in that a plane has hit the Pentagon.」
(ペンタゴンに旅客機が衝突したとの情報が入っています)
職員室の空気が、さらに沈んだ。
誰かが小さく「Oh my God」と呟いた。
朝陽は画面を見たまま、ようやく理解した。
これは、ひとつのビルの話ではない。
ニューヨークだけの話でもない。
世界が、何かに襲われている。
「お父さん……」
声に出した瞬間、涙がこぼれそうになった。
だが、まだ泣けなかった。
泣くには、父がどうなったのかを知らなければならない。
知らないまま泣くのは、あまりにも怖かった。
梓もまた、学校の別室にいた。
マーカスが近くに立っていたが、どう声をかければいいのか分からないようだった。
それでも、彼は離れなかった。
「Azusa…」
(梓……)
梓は顔を上げる。
「I don’t know what to do.」
(どうしたらいいか分からない)
それは英語だった。
けれど、その声はほとんど子どもの泣き声だった。
マーカスは少し迷ってから、ただ隣に座った。
「You don’t have to know right now.」
(今、分からなくていい)
梓は唇を噛んだ。
父は、朝出ていった。
いつものように。
弁当を持って。
「行ってきます」と言って。
それだけだった。
それなのに、今はテレビの向こうで煙が上がっている。
「He was there.」
(お父さん、そこにいた)
マーカスは何も言えなかった。
言える言葉など、どこにもなかった。
北斗の小学校では、教師が児童を落ち着かせようとしていた。
だが、子どもたちは大人の顔を見る。
大人が怖がっている時、子どもはそれをすぐに感じ取る。
北斗は椅子に座っていた。
手は机の上で固く握られている。
ジェシカが隣に来た。
「Hokuto…」
(北斗……)
北斗は顔を上げた。
「My dad is in that building.」
(お父さん、あのビルにいるんだ)
ジェシカの顔が歪む。
「I’m sorry.」
(ごめんね)
北斗は首を振った。
「Don’t say sorry yet.」
(まだ、ごめんって言わないで)
その言葉に、ジェシカは何も返せなかった。
北斗は、まだ信じていた。
お父さんは走るのが速いわけではないけれど、ちゃんと帰ってくる人だ。
仕事に行って、帰ってきて、食卓で笑う人だ。
だから、今日も帰ってくるはずだ。
そう信じないと、息ができなかった。
その頃、一平は、市内の病院へ搬送されていた。
救急車のサイレンが鳴る。
揺れる車内。
酸素マスク。
血に染まったシャツ。
切れた額。
動かない右肩。
肋骨の痛み。
意識は何度も沈みかけ、そのたびに救急隊員の声に引き戻される。
「Stay with us, sir!」
(しっかりしてください!)
「Blood pressure dropping.」
(血圧が下がっています)
「Possible internal bleeding. Notify trauma team.」
(内出血の可能性あり。外傷チームに連絡)
病院へ到着すると、ストレッチャーはそのまま救急入口へ運び込まれた。
白い天井。
走るライト。
医師たちの声。
看護師の手。
鋏で切られる衣服。
一平は、ほとんど意識の底にいた。
「Name?」
(名前は?)
「ID found.」
(身分証がありました)
「Japanese national. Akita Ippei.」
(日本国籍。秋田一平)
誰かが社員証を読み上げた。
日本商事。
ニューヨーク駐在員。
世界貿易センター勤務。
さらに、救急隊員が持ち物を確認していく。
財布。
社員証。
ランチバッグの壊れた金具。
小さなメモ帳。
そのメモ帳の後ろには、緊急連絡先が書かれていた。
自宅番号。
妻、さくら。
日本商事ニューヨーク支店。
日本本社の代表番号。
日本の親族連絡先。
看護師が叫ぶ。
「We’ve got emergency contacts. Call them now.」
(緊急連絡先があります。すぐ連絡して)
医師が一平の腹部を確認し、顔を険しくした。
「We need to take him to surgery. Now.」
(手術室へ。今すぐ)
ストレッチャーが再び走り出す。
緊急手術が始まろうとしていた。
さくらがその電話を受けたのは、何度目か分からない発信のあとだった。
固定電話が鳴った。
一瞬、身体が硬直する。
そして、飛びつくように受話器を取る。
「Hello?」
向こうの声は、病院からだった。
「Mrs. Akita?」
(秋田さくらさんですか?)
「Yes. Yes, this is she.」
(はい、そうです)
「Your husband, Ippei Akita, has been brought to our hospital.」
(ご主人の秋田一平さんが、当院に搬送されました)
その瞬間、さくらは息を止めた。
生きている。
病院にいる。
それだけで、膝から崩れそうになった。
だが、次の言葉が続く。
「He is seriously injured. The trauma team is taking him into emergency surgery.」
(重傷です。外傷チームが緊急手術に入ります)
「Surgery…」
(手術……)
「Please come to the hospital as soon as you can.」
(できるだけ早く病院へお越しください)
さくらは受話器を握りしめた。
「Is he alive?」
(生きていますか?)
短い沈黙。
「Yes. He is alive.」
(はい。生きています)
その答えを聞いた瞬間、涙が落ちた。
「Thank you… thank you…」
(ありがとうございます……ありがとうございます……)
受話器を置いたあと、さくらはしばらく動けなかった。
だが、すぐに立ち上がる。
子どもたちに知らせなければ。
学校へ。
朝陽へ。
梓へ。
北斗へ。
最初に朝陽の学校へ電話が入った。
担任が職員室で受け取り、すぐに朝陽を呼んだ。
「Asahi.」
(朝陽)
その声の調子で、朝陽は立ち上がった。
「Your mother called. Your father is alive.」
(お母さんから連絡がありました。お父さんは生きています)
朝陽の顔が一瞬で崩れた。
「Alive…?」
(生きてる……?)
「He’s badly injured and in surgery, but he’s alive.」
(重傷で手術中ですが、生きています)
その瞬間、朝陽は椅子に座り込むように崩れた。
泣き声はすぐには出なかった。
ただ、息だけが震えた。
生きている。
手術。
重傷。
でも、生きている。
ノアが近くにいた。
朝陽の背中に手を伸ばしかけ、でも途中で止める。
その距離を迷ったあと、彼は静かに言った。
「He’s alive.」
(生きてる)
朝陽は涙をこぼしながら、小さく頷いた。
梓のもとにも、すぐ連絡が届いた。
「Your father is alive.」
(お父さんは生きています)
それを聞いた瞬間、梓は両手で顔を覆った。
泣くつもりはなかった。
でも、涙が止まらなかった。
マーカスは隣で何も言わず、ただハンカチを差し出した。
梓はそれを受け取り、震える声で言った。
「Thank you.」
(ありがとう)
「Yeah.」
(うん)
マーカスの声も、少し震えていた。
北斗の学校にも連絡が入った。
担任は、北斗を教室の外へ連れ出して伝えた。
「Hokuto, your dad is alive.」
(北斗、お父さんは生きています)
北斗は目を見開いた。
「ほんと?」
「Yes. He’s hurt, and he’s at the hospital, but he’s alive.」
(はい。怪我をして病院にいますが、生きています)
北斗はその場で泣き出した。
声を抑えることもできなかった。
ジェシカが廊下の向こうから見ていて、先生に許可をもらって近づいてきた。
彼女は北斗のそばに立ち、小さな声で言った。
「He’s alive.」
(生きてる)
北斗は泣きながら頷いた。
「うん……生きてる……」
その頃、日本にも連絡が回り始めていた。
日本商事ニューヨーク支店から、日本本社へ。
本社から関係部署へ。
そして、家族へ。
さくらの両親、橋本逸郎と妙子にも連絡が入った。
電話の向こうで、妙子は最初、言葉を失った。
「一平さんが……?」
逸郎が受話器を握る手に力を込める。
「さくらは? 子どもたちは?」
「無事です。ただ、一平さんは重傷で、手術中とのことです」
妙子は受話器の向こうで泣き崩れた。
逸郎は震える声で、それでも娘へ電話をかけ直す準備をした。
一平の両親、秋田忠雄と芙美子にも連絡が入った。
北海道の家の中で、忠雄はしばらく何も言えなかった。
芙美子は電話口で何度も同じ言葉を繰り返した。
「生きとるんですね? 一平は、生きとるんですね?」
その確認に、何よりも重さがあった。
遠いニューヨーク。
テレビ画面に映る炎。
そこに息子がいる。
その現実は、海を越えた距離など関係なく、親の胸を直接えぐった。
さくらは病院へ向かう準備をしながら、何度も深呼吸した。
一平は生きている。
でも、重傷。
手術中。
安心と恐怖が同時に襲ってくる。
片方だけなら、まだ耐えられたかもしれない。
だが、生きているという希望と、失うかもしれないという恐怖が同時にある状態は、想像以上に苦しかった。
電話がまた鳴る。
日本からだった。
母、妙子の声が聞こえる。
「さくら……」
その一言だけで、さくらの涙がまた落ちた。
「お母さん……一平さん、生きてる……」
「うん、うん……」
電話越しに、母娘はしばらく言葉にならないまま泣いた。
そのあと、忠雄と芙美子からも連絡が入った。
「さくらさん、頼む。一平を……」
忠雄の声は震えていた。
「はい……必ず、そばにいます」
芙美子は何度も「ありがとう」と言った。
何に対してのありがとうなのか、さくらにも分からなかった。
ただ、その言葉しか出てこないのだろうと分かった。
テレビでは、ペンタゴンへの攻撃、行方不明機、全米の航空機への対応が続けて報じられていた。
世界は、もう完全に別の朝へ入っていた。
だが、秋田家にとって最初の衝撃は、ただ一つだった。
お父さんと連絡が取れない。
お父さんがあのビルにいた。
お父さんが重傷で、手術を受けている。
世界規模のテロ。
国家への攻撃。
歴史的事件。
そんな大きな言葉は、まだ家族の胸には入ってこない。
今あるのは、ただひとりの人間の命だった。
夫。
父。
息子。
家族の中心。
一平が生きている。
それだけが、今この家族をかろうじて支えていた。
そして、手術室の灯りはまだ消えていなかった。




