最後の普通の日
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第25話
最後の普通の日
二〇〇一年九月十一日。
火曜日。
朝。
その日は、あまりにも普通の顔で始まった。
ニューヨークの空は高く、よく晴れていた。
雲は少なく、光は澄み、ビルの窓には朝日が静かに反射している。夏の名残をかすかに残しながらも、空気の奥には秋の乾いた気配が混じっていた。
秋田家のキッチンには、いつものように味噌汁の湯気が立っている。
トーストの焼ける匂い。
ベーコンの音。
コーヒーの香り。
それぞれの朝の動きが、何度も繰り返してきた形で揃っていた。
さくらは弁当箱を閉じながら、一平の背中を見た。
一平はネクタイを締め直し、時計を確認している。
朝陽はまだ少し眠そうな顔で、でも遅刻しないように急ぎながら髪をまとめていた。
梓はノートをきれいに重ね、鞄の中を最後にもう一度確認する。
北斗はテーブルの上のパンをかじりながら、飛行機の図鑑をちらちら見ている。
つばめは椅子の脚の間を気まぐれに歩き回っていた。
「今日、帰り少し遅くなるかも」
朝陽がオレンジジュースを飲みながら言う。
「ノア?」
梓がすぐに聞く。
朝陽は少しだけ顔をしかめた。
「そうだけど、何その言い方」
「別に」
「絶対“別に”じゃない」
一平が笑う。
「ええやないか。ちゃんと帰ってくるなら」
「うん、分かってる」
朝陽はそう答えた。
その声は、少しだけ大人びて聞こえた。
梓も小さく口元を緩める。
マーカスのことを思い出していた。次に会ったら何を話そうか。映画の話の続きをするか、それともサイエンスクラブの話か。そういう小さな迷いが、今の梓には少しだけ楽しかった。
北斗は突然顔を上げる。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「今日も自由の女神見える?」
一平はコーヒーをひと口飲んで頷いた。
「天気ええからな。たぶん見える」
「いいなあ」
「今度また連れてったる」
北斗は満足そうに笑った。
“今度”。
この家では、その言葉が何気なく使われていた。
今度、また。
その次。
次の週末。
次の休み。
次の約束。
誰も、それが使えなくなる瞬間のことなんて考えなかった。
「お父さん」
今度はさくらが呼ぶ。
「お弁当」
「ああ」
差し出されたランチバッグを受け取る。
照り焼きチキン。卵焼き。ブロッコリー。派手ではないが、一平にとってはそれだけで十分に家の味だった。
「ありがとう」
「ちゃんと食べてね」
「食べる食べる」
北斗が笑う。
「また“サンドイッチが人間の限界を試してくる”って言うんでしょ」
一平は吹き出した。
「それはほんまやからな」
食卓に笑いが広がる。
さくらも笑い、朝陽も笑い、梓も肩を震わせる。
つばめだけが、何のことか分からない顔で尻尾をゆらしていた。
これが、最後の普通の朝になるなんて。
誰ひとりとして思わない。
「ほな、行ってきます」
一平がそう言うと、いつものように声が返る。
「行ってらっしゃい」
その重なりは、毎日と同じだった。
何も変わらない。
少なくとも、玄関の内側では。
⸻
その頃、空の上では、もう取り返しのつかないことが始まっていた。
四機の航空機。
それぞれが本来の目的地へ向かうはずだった。
それぞれが、乗客を運び、朝の空を飛ぶだけのはずだった。
だが、その朝、四機はハイジャックされていた。
二機はニューヨークへ。
一機はペンタゴンへ。
そしてもう一機は、アメリカの中枢へ向かって飛ばされようとしていた。
地上では、まだ誰もその全体像を知らない。
レーダーの異常。
通信の途絶。
断片的な情報。
混乱。
確認。
食い違い。
警告。
それらは、まだひとつの“出来事”として結びつききっていなかった。
⸻
一平はマンハッタンの朝の通りをいつも通りに歩いていた。
車のクラクション。
歩道を急ぐ人。
コーヒーショップの前の列。
ビルの間に見える青空。
世界貿易センタービルは、朝の光の中で変わらず高く立っていた。
見慣れた高さ。
見慣れた輪郭。
見慣れたロビーへ続く人の流れ。
ロビーへ向かう途中、一平はふと、何かの音に気づいて顔を上げた。
最初、それはただの異音のように思えた。
大きすぎる。
低すぎる。
近すぎる。
飛行機の音だった。
だが、普段空を見上げた時に聞くそれとはまるで違っていた。
空のずっと高いところを通るはずの音が、街の高さに入り込んできている。
一平は足を止めた。
周囲の何人かも、同じように立ち止まっていた。
誰かが空を指さす。
誰かが「何だ?」と声を上げる。
時間がほんの一瞬だけ、引き伸ばされたようになる。
そして見えた。
巨大な何かが、異様な速度と角度で、街の空間へ突っ込んでくる。
銀色の機体。
あまりにも大きい影。
ありえない高さ。
ありえない近さ。
一平の頭は、その光景を理解する前に身体が反応していた。
「……っ!」
次の瞬間、世界が爆発した。
轟音。
衝撃。
熱。
砕ける音。
ガラスの雨。
押しつぶされるような空気の圧力。
一平の身体は横から叩きつけられたように弾き飛ばされた。
地面が消えた感覚。
何か硬いものにぶつかる激痛。
肺の中の空気が一気に押し出される。
視界が白くなる。
何が起きたのか、頭が追いつかない。
耳が潰れたように何も聞こえず、数秒遅れてからようやく、周囲の悲鳴や金属音や割れる音が濁って流れ込んできた。
地面に叩きつけられた一平は、呼吸をしようとして激しく咳き込んだ。
喉に粉塵が入り、胸の奥が焼けるように痛む。
右肩と脇腹に鋭い痛みが走り、脚にもまともに力が入らない。
「っ……あ……」
声にならない。
視界の端で、人が倒れ、誰かが叫び、紙片のようなものが空から降ってくる。
頭上を見上げようとしても、首を動かすたびに痛みが走った。
ようやく見えたのは、塔の上階から噴き出す黒煙と炎だった。
何が起きた。
飛行機。
ビル。
爆発。
火災。
理解が追いつかないまま、ただひとつだけ、はっきりしたことがあった。
とんでもないことが起きた。
しかも、今この街のど真ん中で。
一平は必死に身体を起こそうとしたが、右腕に力が入らない。
肩か、肋骨か、どこかが壊れている。
左の額からは血が流れていて、視界の片側が赤く滲む。
周囲では、ようやく現実を受け止め始めた人たちが、叫びながら走り出していた。
誰かが助けを呼んでいる。
誰かが泣いている。
誰かが上を見上げたまま動けないでいる。
「……さくら……」
最初に浮かんだのは、家族の顔だった。
朝の食卓。
北斗の声。
梓の笑い。
朝陽の少し照れた顔。
つばめの尻尾。
さくらが手渡した弁当。
ほんの数十分前まで、たしかにそこにいた温かい朝。
その続きのはずだった一日が、今、目の前で音を立てて崩れている。
一平は再び咳き込み、痛みに顔を歪めながら、それでも意識を手放すまいとした。
ここで倒れきってはいけない。
まだ。
まだ、家に帰っていない。
だが、煙は濃くなり、空気は熱を帯び、街の音は完全に別のものへ変わっていた。
いつもの朝のクラクションも、歩道のざわめきも、ロビーへ向かう足音も、もうどこにもなかった。
その代わりにあるのは、爆発の余韻と、火災と、悲鳴と、信じられないという表情だけだった。
九月十一日、午前八時四十六分。
ニューヨークの時間は、この瞬間から、二度と元には戻らなくなる。




