冬休みの笑い声
第23話 冬休みの笑い声
クリスマスが過ぎると、ニューヨークの街の光は少しだけ落ち着いた。
ショーウィンドウには、まだ赤や金色の飾りが残っている。通りの木々にも小さな電飾が巻かれ、夜になると冬の空気の中で静かに瞬いていた。
けれど、人々の足取りからは祝祭の浮かれた気分が薄れ始めていた。
買い物袋を抱えて駅へ急ぐ人。
店じまいの準備を始める店員。
年末の予定を話しながら歩く家族。
華やかなクリスマスの時間が終わり、街には少しずつ日常が戻っていた。
秋田家にも、まだクリスマスの名残が残っている。
食卓の端に置かれたカード。
棚の上の小さな飾り。
きれいに畳み切れず、部屋の隅に残された包装紙。
そして、つばめが何度も前足で触ろうとして、そのたびに梓から止められている小さなリース。
「つばめ、また触ったでしょ」
梓が声をかけると、つばめは何もしていないような顔で窓の外を見た。
「絶対分かってやってるよね」
朝陽が笑う。
「猫は都合が悪くなると、急に景色を見るから」
「そんなことある?」
「今、目の前に証拠がいるじゃん」
つばめは二人の会話など聞こえないふりをして、しっぽだけをゆっくり動かしていた。
朝陽も梓も、この数日はどこか機嫌がよかった。
朝陽はノアと歩いた冬の街を思い出すたび、窓の外に視線を向けることがあった。
梓も、マーカスと交わした言葉を思い返しては、誰にも気づかれないほど小さく口元を緩めていた。
何かが大きく変わったわけではない。
恋人になったわけでもなければ、特別な約束を交わしたわけでもない。
それでも、二人はクリスマスの日に受け取った温かな時間を、それぞれ胸の中へ大切に持ち帰っていた。
そんな姉たちの変化に、北斗はすぐ気づいた。
朝食の席。
北斗はトーストをかじりながら、朝陽と梓を交互に見た。
「お姉ちゃんたちさあ」
「何よ」
朝陽がコーヒーの入ったカップを置く。
「最近、よく笑うよね」
梓が牛乳を飲みながら首をかしげた。
「前から笑ってるけど」
「そうじゃなくてさ。何もないのに、急に笑ってる」
朝陽の手が一瞬止まる。
「別に、何もないけど」
「僕、誰の名前も言ってないよ」
「……生意気」
北斗は少し得意そうに笑った。
「いいなあって思ってるだけ」
新聞を読んでいた一平が、その向こうから声をかける。
「何がええんや?」
北斗は姿勢を正し、重大な相談でもするような顔になった。
「僕も恋人ほしいなって」
食卓の空気が一瞬止まった。
次の瞬間、朝陽が吹き出した。
「あんた、小学四年生でしょ」
「小四でも恋人くらいいいじゃん」
「北斗、そういうのどこで覚えるの?」
梓まで笑い始める。
「覚えるって何だよ。見てれば分かるもん」
「何が分かるの?」
「誰かと一緒にいて、楽しそうにしてるってこと」
朝陽は少し照れながらも、強気な顔を崩さなかった。
「それと恋人は別だから」
「どう違うの?」
「説明しなくていいの」
「説明できないんじゃない?」
「北斗!」
朝陽の声が上がり、食卓がさらに賑やかになる。
さくらは笑いをこらえながら、北斗の皿に目を向けた。
「恋人を探す前に、宿題を忘れないようにしなさい」
「恋と宿題は別問題でしょ」
一平が新聞を下ろした。
「北斗、言い方だけは妙に大人やな」
「言ってることは小四だけどね」
梓が付け加えると、また笑いが起きた。
しばらくして、梓がふと思い出したように言った。
「でも北斗、ジェシカとはずっと仲いいよね」
北斗の手が止まる。
「え?」
朝陽がすかさず身を乗り出す。
「ああ、ジェシカね」
「何、その言い方」
「だって、学校でもよく一緒にいるんでしょ?」
「普通だよ」
「一緒に遊んで、一緒に宿題をして、休み時間にはコントまでしてるのに?」
「コントはしてない」
「じゃあ何してるの?」
「……ちょっとふざけてるだけ」
北斗の返事が急に曖昧になる。
朝陽はにやりと笑った。
「なんだ。ちゃんといるじゃん」
「違うって。ジェシカは……ジェシカだよ」
その言い方があまりにも真剣だったため、朝陽も梓も声を上げて笑った。
◇
北斗の通う小学校で、ジェシカ・モーガンはすっかり人気者になっていた。
もともと明るく、誰とでも気軽に話せる女の子だった。
だが最近では、北斗の影響で少し妙な方向へ進化している。
きっかけは、北斗が家で使っている日本語だった。
ジェシカは意味の分からない言葉でも、音が面白いとすぐに真似をした。
そして、一度気に入った言葉は、何度も繰り返して使った。
算数の授業で、クラスメイトが計算を盛大に間違えた時。
「なんでやねん」
(What kind of answer is that?)
(何それ、どうしてそうなるの)
ジュースをこぼした子が、机の上を慌てて拭いている時。
「儲かりまっか」
(How’s business?)
(調子どうよ、もうかってる?)
給食のホットドッグを一口食べ、満足そうに目を細めた時。
「うまいっしょ」
(Pretty good, right?)
(うまいでしょ、これ)
使い方が正しい時もあれば、明らかに間違っている時もある。
けれどジェシカが堂々と言い切るため、周りの子たちは毎回笑ってしまった。
本人はただ真似をしているだけではない。
意味もきちんと知ろうとする。
「Hokuto, say it again. What does it mean exactly?」
(北斗、もう一回言って。正確にはどういう意味なの?)
「Depends.」
(場合によるよ)
「That’s not helpful.」
(それじゃ全然分からないよ)
「だって、本当に場合によるんだもん」
ジェシカは納得しない顔をする。
それでも翌日になると、前より自然な発音で使っていた。
昼休み。
ジェシカが理科のワークシートを持って、北斗の机へやって来た。
「Hey, teacher gave us another science worksheet.」
(ねえ、先生また理科のワークシートを出したよ)
北斗は問題の多さを見て顔をしかめた。
「なんでやねん」
ジェシカはすぐにうなずく。
「Exactly. Nandeyanen.」
(ほんとそれ。なんでやねん)
二人のやり取りを聞いていたクラスメイトが笑う。
「I don’t know what that means, but it sounds right every time Jessica says it.」
(意味は分からないけど、ジェシカが言うと毎回ぴったりに聞こえる)
別の子が続けた。
「She’s bilingual in chaos.」
(ジェシカは“混乱語”のバイリンガルなんだよ)
北斗は思わず吹き出した。
「That’s not a real language.」
(そんな言語ないって)
ジェシカは得意げに胸を張る。
「It should be.」
(あってもいいと思うけど)
◇
二人は放課後もよく一緒に過ごした。
宿題の分からないところを教え合い、校庭を走り回り、時には教室の隅で意味の分からない寸劇を始める。
北斗が勢いだけで話を広げても、ジェシカは表情と声だけで立派なツッコミへ変えてしまう。
冬休み前、最後の登校日。
教室では授業が早めに終わり、しばらく自由時間が設けられた。
生徒たちが絵を描いたり、カードゲームをしたりしている中、北斗は教室の後ろに立った。
両手を腰に当て、駅員のように胸を張る。
「Attention, please. This train is delayed because of extremely dramatic weather.」
(この列車は、極端にドラマチックな天候のため遅れております)
近くにいた子たちが振り返る。
ジェシカはすぐに北斗の前へ出た。
「なんでやねん」
(What does that even mean?)
(それ、どういう意味やねん)
北斗は真顔を崩さない。
「The snow was too emotional.」
(雪が感情的になりすぎたんだ)
ジェシカは両手で頭を抱えた。
「儲かりまっか!」
(How does that help anyone?)
(それ、誰の役にも立ってないやん)
一瞬の沈黙のあと、教室中が爆笑に包まれた。
先生まで口元を押さえ、肩を震わせている。
「ジェシカ、それはたぶん使い方が違うよ」
北斗が笑いながら言う。
「But everyone laughed.」
(でも、みんな笑ったよ)
「まあ、それなら正解かも」
北斗が答えると、また笑いが起きた。
北斗は、隣で笑うジェシカの顔を見た。
ジェシカは日本語の意味をすべて理解しているわけではない。
北斗も、英語の細かな感情をまだ完全にはつかめないことがある。
それでも二人は、同じところで笑っていた。
言葉が少しずれていても、笑い声はきちんと重なる。
恋人というものが何なのか、北斗にはまだよく分からない。
けれど、誰かと一緒にいるだけで楽しくなり、その人が笑うと自分までうれしくなる。
それが特別なことなら、ジェシカは少しだけ特別なのかもしれない。
だが、それを本人に言うのは恥ずかしかった。
北斗は何でもない顔をして、次のコントを考えることにした。
◇
家へ帰ると、朝陽がソファから声をかけた。
「今日もジェシカと“なんでやねん”してきたの?」
「“してきた”って何だよ」
「また教室を笑わせたんでしょ」
梓も興味深そうに北斗を見る。
「先生まで笑ったって本当?」
「誰から聞いたの?」
「北斗、自分で昨日言ってたじゃん」
「そうだっけ」
北斗は上着を脱ぎながら、少しだけ得意そうに言った。
「ジェシカ、発音うまいんだよ」
「そこを褒めるんだ」
朝陽がにやりと笑う。
「やっぱり気に入ってるじゃん」
「違うって」
「じゃあ、どうしてそんなに詳しいの?」
北斗はすぐに答えようとした。
だが、少し考えたあと、ぽつりと言った。
「一緒にいると面白いから」
言った本人が、一番驚いたように黙る。
朝陽と梓は顔を見合わせた。
今度は、すぐにはからかわなかった。
「それなら、いい友達だね」
朝陽が穏やかに言う。
「面白いって大事だよ」
「うん」
北斗は短く答えた。
その時、つばめがソファから飛び降り、北斗の膝へ乗った。
当然のように体を丸める。
梓が笑う。
「つばめ、ジェシカに対抗してるんじゃない?」
「お前は別枠だから」
北斗はつばめの頭を撫でた。
「つばめは家族だもん」
一平が新聞から顔を上げる。
「ええこと言うやないか」
「だって、本当だし」
キッチンにいたさくらが、振り返って尋ねた。
「じゃあ、ジェシカさんは?」
北斗は困った顔をした。
「……クラスメイト」
ほんの少しだけ間が空いた。
朝陽が吹き出し、梓も笑い、一平とさくらまで声を上げた。
「何がおかしいんだよ!」
北斗はむくれながらも、結局つられて笑った。
つばめだけが何の話か分からないまま、北斗の膝の上で満足そうに目を閉じている。
◇
夜。
一平は仕事の資料を閉じ、リビングから聞こえてくる家族の笑い声に耳を傾けていた。
テレビのニュースでは、海外で起きた不穏な事件が報じられている。
争い。
憎しみ。
遠い国で失われる命。
だが、その夜の秋田家には、それらを押し返すような生活の音があった。
朝陽には、ノアと過ごした冬の記憶がある。
梓には、マーカスと少しずつ育てている感情がある。
北斗には、ジェシカと笑い合える時間がある。
さくらは、家族の変化を静かに見守っている。
そして、つばめは誰かの膝の上で安心して眠っている。
この家の中では、未来が確かに育っていた。
一平は窓の外へ目を向けた。
ニューヨークの夜景は、冬の空気の向こうで静かに輝いている。
誰もが、今日と同じように明日が来ると信じていた。
朝になれば家族で食卓を囲み、学校へ行き、仕事へ向かう。
くだらないことで笑い、時には言い争い、夜になれば同じ家へ戻ってくる。
そんな毎日が、いつまでも続くと思っている。
けれど、続くはずの日常が、どれほど脆いものなのか。
それを秋田家が知る日は、もう遠くなかった。
今はまだ、北斗がジェシカの名前を出されて照れくさそうに笑っている。
朝陽と梓が弟をからかい、さくらが夕食の支度をし、一平がその声を聞いている。
冬休みを迎える家の中には、温かな笑い声が満ちていた。
それだけで十分に幸せな夜だった。
第23話 終




