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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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23/59

その日が近づく

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第23話


その日が近づく


冬休みの終わりが見え始める頃、ニューヨークの空気は少しだけ硬くなる。


クリスマスの名残はまだ街のあちこちに残っていたが、正月を過ぎると、人々の足取りにはもう“日常へ戻る速さ”が戻っていた。イルミネーションはまだ灯っている。店先にはまだ赤い飾りもある。けれどその下を歩く人々の顔つきは、祝祭より仕事に近い。


街は、またいつもの自分に戻ろうとしていた。


秋田家でも同じだった。


朝陽はノートと本を机に積み直し、新学期の始まりをどこか面倒くさそうに、それでも嫌ではない顔で受け止めていた。冬休みの間にノアと過ごした時間は、まだ胸のどこかに残っている。会えばまた自然に話せるのか、学校という場所に戻ると少し違って見えるのか、そのへんが少しだけ気になっていた。


梓もまた、新学期の準備をしながら、マーカスとの距離感をどう扱えばいいのか考えていた。

映画のあと、すべてが急に変わったわけではない。

けれど、何も変わっていないとも言えない。

前より少しだけ目が合う。

前より少しだけ、沈黙が気まずくない。

その変化が嬉しくもあり、妙に落ち着かなくもあった。


北斗はそんな二人とはまったく違う方向で、冬休み明けを楽しみにしていた。

理由は単純だった。


「ジェシカに、新しい日本語教えよっと」


朝食の席でそう宣言すると、朝陽がすぐに言う。


「まず変な言葉を増やさないでよ」


「変じゃないよ。“なんでやねん”は超使えるもん」


梓が笑う。


「それは否定できないけど」


「あと、“しらんけど”も覚えさせたい」


一平が吹き出した。


「小四の国際交流としてだいぶ偏っとるな」


「実用的だよ」


北斗は大真面目だった。

その様子に、家族はまた笑う。


何も壊れていない。

何も崩れていない。

少なくとも、この食卓の上では。


だからこそ、そのすぐ外側で起きていることとの落差が、見る者には痛いほど伝わってしまう。


⸻


一平の職場でも、年明けの空気が戻っていた。


世界貿易センタービルのロビーは、相変わらず人の流れで満ちている。

スーツ姿の男女。

配送員。

観光客。

コーヒーの匂い。

磨かれた床。

高い天井。

そして、毎朝繰り返される短い挨拶。


ラモスが軽く顎を上げる。


“Morning, Mr. Akita.”

(おはようございます、秋田さん)


“Morning.”

(おはようございます)


いつものやり取り。

いつもの場所。

いつもの上昇。


エレベーターの中で、一平は妙な圧迫感を覚えた。

混んでいるわけではない。

息苦しいわけでもない。

ただ、何かが少しだけ違う気がする。


説明できる違和感ではない。

誰かが変な行動をしたわけでもない。

だが、ここ数週間、彼の中で同じ感覚が少しずつ大きくなっていた。


フロアに着き、窓の外を見る。

マンハッタンの朝はきれいだった。

きれいで、整っていて、強そうに見える。


エミリーがコーヒーを持ってやって来る。


“You’ve got that look again.”

(またその顔してる)


「どんな顔や」


“The one where you’re trying to decide if your instincts are useful or just annoying.”

(自分の勘が役に立つのか、ただ鬱陶しいだけなのか、見極めようとしてる顔)


一平は苦笑した。


「鋭いな」


“I’ve worked with you long enough.”

(長く一緒に働いてるから)


デイビッドも書類を抱えて近づいてきた。


“What now?”

(今度は何だ)


エミリーが肩をすくめる。


“He thinks something’s off.”

(この人、何かおかしいって思ってるのよ)


デイビッドは一平を見る。


“Do you?”

(思ってるのか?)


一平は少しだけ迷った。

言葉にすれば、ただの神経質に聞こえるかもしれない。


「……分からん。でも、ここしばらくのニュース見とると、全部が“別件”に見えん時がある」


デイビッドはすぐには何も言わなかった。

やがて、低く答える。


“I know what you mean. I just don’t know what to do with that feeling.”

(言いたいことは分かる。ただ、その感覚をどう扱えばいいのか分からないだけだ)


エミリーが窓の外を見た。


“That’s the problem, isn’t it? If you can’t name it, you can’t really act on it.”

(そこが問題なのよね。名前がつけられなければ、ちゃんと動けない)


その通りだった。


違和感はある。

流れも感じる。

だが、それを一つの言葉にできないうちは、社会は何も変えようがない。


一平は自分の机に置かれた資料へ目を落とした。

日本産の魚介類。

農産品。

年明けの流通計画。

いつも通りの数字。


日常の仕事は、違和感の有無に関係なく進んでいく。

だから人は、余計にそれを“気のせい”の棚へ押し込みたくなるのかもしれなかった。


⸻


同じ頃、ワシントンD.C.


ペンタゴンでは、マイケル・ドノヴァンが年明け最初の整理報告を前にしていた。

エレノア・グラントは、数日前より少し疲れた顔で資料をめくっている。


壁のスクリーンには、海外で起きた一連の事件が並んでいた。

アメリカ関係の施設。

外交拠点。

周辺警備。

関連するとみられる声明。

だが、依然として“決定打”はない。


マイケルが言う。


“The incidents keep accumulating. The pattern still holds.”

(事件は積み上がり続けています。パターンも維持されたままです)


エレノアが聞く。


“And still no direct command structure?”

(それでも、単一の指揮系統はまだ見えていないのね)


“No confirmed structure.”

(確認できる構造はまだありません)


“Meaning?”

(それはつまり?)


“Meaning either we’re looking at disciplined compartmentalization…”

(つまり、徹底した分断運用を見ているか)


彼は一拍置いた。


“…or we’re forcing a shape onto something more fluid and distributed.”

(……あるいは、もっと流動的で分散したものに、こちらが無理に形を当てはめようとしているかです)


エレノアは眉を寄せた。


“Neither option is comforting.”

(どちらにしても安心材料にはならないわね)


“No, ma’am.”

(なりません)


しばらくして、別の担当者が新しいメモを持って入ってきた。

海外発の情報。

数人の人物が、訓練を終え、目立たない形でアメリカ国内へ散っている可能性。

目的は不明。

証拠は弱い。

だが無視はできない。


エレノアが低く言う。


“Do we know who they are?”

(誰なのか分かる?)


“Not in a way that would hold up operationally.”

(作戦上使える精度では、まだ)


“Do we know what they’re here for?”

(彼らが何のためにここにいるのかは?)


“No.”

(分かりません)


また、その答えだった。


だが「分からない」は、空白ではなかった。

分からないまま、何かが近づいてきている。

その感覚だけが、部屋の温度を少しずつ下げていた。


エレノアは椅子の背に寄りかかり、静かに言う。


“Keep them on every board we have. I don’t care how incomplete it looks.”

(使えるボードには全部載せておいて。不完全に見えても構わない)


“Understood.”

(了解しました)


マイケルは頷いた。

その頷きには、徹夜明けのような重さがあった。


⸻


FBIでも同じような時間が流れていた。


ダニエル・ハートの机の上には、紙の束がさらに増えていた。

レイラ・モリスは、別の画面に表示された移動記録を追っている。


“We’ve got travel, we’ve got training, we’ve got statements, and we’ve got fragments of intent.”

(移動もある、訓練もある、声明もある、意図の断片もある)


ダニエルが言う。


“But no clean bridge from one to the next.”

(でも、その全部を綺麗につなぐ橋がない)


レイラが小さく息を吐く。


“Maybe there isn’t one bridge.”

(橋は一本じゃないのかもしれない)


ダニエルは彼女を見た。


“You’re thinking nodes.”

(点の集合だと思ってるんだな)


“I’m thinking we keep expecting an organization to behave like a traditional organization.”

(私たちは“組織ならこう動くはずだ”って期待しすぎてるのかもしれない)


彼女は画面を指す。


“Small cells. Loose ties. Shared doctrine. Repeated language. Enough coordination to point in one direction, not enough structure to expose the whole machine.”

(小さな単位。ゆるい結びつき。共有された教義。繰り返される言葉。同じ方向を向くには十分な連携、でも全体機械を露出させるほどの構造はない)


ダニエルは黙った。

その説明は、嫌になるほど筋が通っていた。


別の分析官が短く報告する。


“We’ve got indications that some individuals completed aviation-related training and then disappeared into the country.”

(航空関連の訓練を終えた何人かが、その後国内に紛れた可能性があります)


ダニエルが顔を上げる。


“Disappeared where?”

(どこへ紛れた?)


“Unknown. Multiple states. Nothing stable enough yet.”

(不明です。複数州に痕跡がありますが、まだ固定できません)


レイラの声は低かった。


“So we know enough to be afraid, and not enough to intervene cleanly.”

(つまり、恐れるには十分、でも綺麗に止めるには足りないってことね)


その言葉に、誰も反論しなかった。


⸻


その頃、秋田家では、冬休みの終わりが近づく気配が濃くなっていた。


宿題の残り。

学校の準備。

制服代わりの服。

ノート。

教科書。

朝の時間割が、また家の中に戻ってくる。


朝陽は、ノアと次に会う話を少しずつ当たり前のように口にするようになっていた。

梓も、マーカスとの会話が以前より自然になっていることを感じている。

北斗は、ジェシカに新しい日本語を教える計画を立てていた。


「“しらんけど”って絶対ウケると思う」


北斗が言うと、朝陽が即座に返す。


「やめて。意味が複雑すぎる」


「そこがいいんじゃん」


梓が笑う。


「北斗、そのうちジェシカの方が使いこなしそう」


「それはありえる」


その会話の温度は、あまりにも普通だった。

家族の冬休みの終わり。

少し名残惜しくて、少し次が楽しみで。

何一つ特別ではない。


だからこそ、その背景で進んでいる別の時間が、視聴者にだけは見えてしまう。


訓練を終えた誰かが、もうこの国の中にいるかもしれないこと。

名前も顔も分からないまま、意図だけが静かに前へ進んでいること。

ペンタゴンもFBIも、その輪郭に指を伸ばしながら、まだ掴みきれていないこと。


冬休みの終わりと、新学期の始まり。

その当たり前の節目のすぐ隣で、“その日”は少しずつ近づいていた。


⸻


夜、朝陽は窓の外を見た。


街の灯りは変わらずきれいだった。

ノアのことを考えれば、胸は少しあたたかくなる。

学校が始まれば、また会える。

また話せる。

たぶんまた笑える。


梓も別の部屋で、マーカスのことを少し考えていた。

返事はまだ途中だ。

でも、その途中にいる自分が嫌ではない。


一平は、ニュースを消したあとのテレビ画面を見ていた。

黒い画面に映る自分の顔の向こうに、家族の灯りがある。


さくらがその隣に座る。


「まだ考えてるの?」


「うん」


「分からないことばかり?」


「分からんことばっかりや」


一平は苦く笑う。


「でも、分からんまま進んどる感じが一番嫌やな」


さくらは、その言葉にすぐには返事をしなかった。

やがて、静かに言う。


「それでも明日は来るのよね」


「……せやな」


その言葉は慰めでもあり、諦めでもあった。


明日は来る。

学校も始まる。

仕事も始まる。

約束もある。

笑い声もある。


だから人は、今日の幸せをそのまま明日へ持っていけると思う。


その感覚が、何よりも普通で、何よりも脆い。


外では、見えない高さを飛行機がまたひとつ通り過ぎた。

ただの夜の風景。

ただの都市の一部。


けれど、視聴者だけが知っている。

その“ただの風景”の中に、もう取り返しのつかないものが混じり始めていることを。


⸻


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