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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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21/59

家族という距離

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第21話


家族という距離


十二月のニューヨークは、夜になると街全体が少しだけ現実離れする。


ショーウィンドウは赤と金で埋まり、街路樹には細かなイルミネーションが巻きつけられ、デパートの前には大きなツリーが立つ。寒さは確かに厳しくなっているのに、街はむしろ外へ人を誘い出すみたいに明るかった。クリスマスが近づくにつれ、どこを歩いても歌が流れ、買い物袋を提げた人々が行き交う。


その華やかさの中で、秋田家にもまた、いつもとは少し違う時間が流れていた。


家族で過ごす時間。

それぞれが外で持ち始めた時間。

そして、その両方の間に生まれる、目に見えない距離。


距離というと冷たく聞こえる。

けれど本当は、それは離れていくことばかりではない。

近づくために必要な間合いでもあるのだと、誰もまだうまく言葉にできないまま感じ始めていた。


⸻


その日の夜、日本から電話がかかってきた。


リビングの固定電話が鳴る。

家の中でその音が響くと、秋田家は今でも少しだけ空気を変える。

呼び出し音は、向こう側に誰かがいることを直接感じさせる。

メールよりも、手紙よりも、ずっと今に近い。


「もしもし?」


最初に受話器を取ったのは北斗だった。

すぐに顔を輝かせる。


「おじいちゃん?」


その声を聞いて、朝陽も梓も、一平もさくらも自然とリビングに集まってきた。


受話器は最終的にスピーカーに切り替えられ、北海道の祖父母の声が部屋いっぱいに広がる。


「みんな元気かー」


「元気だよ!」


北斗が答える。

祖父が笑う声が聞こえた。


「北斗は相変わらず元気そうだなあ」


「うん。あと、前よりもっと足速くなった」


「それはすごいなあ」


梓がその横で少しだけ笑う。

祖母の声が続いた。


「朝陽ちゃんと梓ちゃんは? 学校どう?」


朝陽は少しだけ声を整えて答える。


「大丈夫。ちゃんとやってる」


梓も頷きながら続ける。


「友達もできたし、前よりは慣れたかな」


「そうかそうか」


祖母の声はやわらかい。

電話の向こうに、冬の北海道の空気まである気がする。


一平はその声を聞きながら、自分が少しだけ肩の力を抜いていることに気づいた。

どれだけニューヨークでの生活が日常になっても、向こうの声は別の場所に置いてきた自分を静かに引き戻す。


祖父がふいに言った。


「こっちはもう雪だぞ。駅のホームも真っ白だ」


北斗が目を輝かせる。


「いいなあ」


「お前の好きな特急も、ちゃんと走っとるぞ」


それを聞いて、一平は小さく笑った。


「そらそうやろ」


「写真送ったろうか」


「送って。北斗が喜ぶ」


北斗だけではない。

たぶん一平も喜ぶ。

雪のホーム、冷たい空気、列車のライト。

そういうものは、今も彼の中で“帰る場所”の輪郭を保っていた。


けれど子どもたちは少し違う。

同じ声を聞いても、同じ景色を懐かしむわけではない。

戻りたい場所であると同時に、少しずつ“今の自分”から遠ざかっていく場所でもある。


祖母が言った。


「クリスマスはどうするの?」


その問いに、朝陽と梓はほんの一瞬だけ目を見合わせた。

さくらが穏やかに答える。


「家でも少しやりますし、それぞれ予定もあるみたいです」


「へえ、そうなんだ」


祖母の声には、茶化しすぎない程度の笑いが混じっている。

それが妙に照れくさくて、朝陽は視線をそらした。


電話が終わったあとも、部屋には少しだけ向こうの空気が残っていた。

誰もすぐには次の話題へ移れない。


やがて北斗がぽつりと言う。


「声聞くと、帰りたくなるね」


その一言に、一平は少しだけ目を伏せた。

帰りたくなる。

その感覚は、自分にもある。

でも、“帰る”とは何を指すのか。

今の生活を閉じて戻ることなのか、それとも日本の記憶を心に置いたままここで生きることなのか。


朝陽は、その問いを口にはしなかった。

梓も同じだった。

家族だからこそ、言えない言葉がある。

同じものを聞いて、同じ懐かしさを感じているようでいて、その中身が少しずつ違い始めていることを、まだはっきり認めたくはなかった。


⸻


十二月の半ばを過ぎると、街の祝祭感はさらに濃くなった。


その頃には、朝陽と梓の外の時間も、少しずつ形を持ち始めていた。


クリスマス当日。

家の中にももちろん小さな飾りがあり、さくらは簡単な料理を用意していた。だが今年は、朝陽と梓のそれぞれにも少しだけ“外の予定”がある。


まだ“恋人”と呼ぶには少し早い。

でも、ただの友達だけとも少し違う。

そんな関係が、冬の街の中でゆっくり輪郭を持ち始めていた。


朝陽は午後、ノアと出かけた。


待ち合わせは、ミッドタウンの少しにぎやかな通り。

人の多いクリスマスの街にノアが立っているのを見ると、それだけで朝陽は少し気持ちが変わる。

ノアは手袋を片方だけ外して、軽く手を挙げた。


「You made it.」

(ちゃんと来たんだな)


「そっちこそ」

(そっちこそ)


「I had no intention of getting stood up on Christmas.」

(クリスマスに待ちぼうけ食らうつもりはなかったからな)


「大げさ」


二人はそのまま歩き出す。

スケートリンクのある広場を横切り、飾りつけのきれいな通りを眺め、途中でホットチョコを買って、寒い空気の中で湯気を分け合う。


今日のノアは、いつもより少しだけ静かだった。

朝陽も同じだ。

言葉がいらないわけではない。

ただ、並んで歩いているだけで少し満たされる感じがあった。


イルミネーションの下で、ノアがふいに言う。


「You know, this is dangerously close to being a real date.」

(これ、かなり本物のデートに近づいてる気がするんだけど)


朝陽は少しだけ顔を上げる。


「“近づいてる”って何よ」


「Meaning I’m trying not to say it first.」

(つまり、俺の方から先にそう言うのを我慢してるってこと)


朝陽は吹き出した。


「その言い方、ずるい」


「I know.」

(分かってる)


それから二人は、しばらく笑いながら歩いた。

劇的な告白があるわけではない。

手をつなぐわけでもない。

けれど、心の距離はもう、最初の頃よりずっと近かった。


一方、梓もその日、マーカスと出かけていた。


劇場街ほど派手ではないが、イルミネーションのきれいなショッピングエリア。

マーカスは前に映画へ行った時より少しだけ自然体で、梓も肩の力を抜けるようになっていた。


「Cold?」

(寒い?)


マーカスが聞く。


「A little.」

(少しだけ)


「Here.」

(はい)


差し出されたのは、温かいカップ。

ココアだった。

梓は少し驚きながら受け取る。


「You remembered.」

(覚えてたの?)


「You said hot drinks make winter less annoying.」

(“温かい飲み物があると冬のうっとうしさが少し減る”って言ってたから)


そんな細かいことを覚えていたのかと、梓は少しだけ胸の奥が熱くなった。


二人は映画を観たり、店をのぞいたり、少し早い夕方に軽く食事をしたりした。

マーカスは派手なことはしない。

でも、歩く速さを合わせるとか、寒くないか気にするとか、そういう細かいところがやさしい。


それが、梓にはとても合っていた。


帰り道、マーカスは遠慮がちに言った。


「I’m glad you came out with me today.」

(今日、一緒に出かけてくれてよかった)


梓は少しだけ視線を落としてから答える。


「私も」


その返事ができた自分に、ほんの少し驚く。

以前なら、もう少し曖昧にしたかもしれない。

でも今は、そのくらいの言葉ならちゃんと口にできる。


朝陽も梓も、少しずつ“大人の側”へ寄っていく。

それは劇的な変化ではない。

ただ、誰かと過ごす時間の中で、自分の気持ちを少しずつ引き受けていく、その繰り返しだ。


⸻


夕方、二人はほぼ同じくらいの時間に帰宅した。


玄関で顔を合わせ、少しだけ笑ってしまう。


「そっちも今帰り?」


「うん」


「どうだった?」


「……よかった」


それ以上は言わない。

でも、その短い言葉だけで十分だった。


つばめが先に玄関へ来て、二人の足元をくるくる回る。

まるで「おかえり」と「どうだった?」を同時に言っているようだった。


リビングでは、北斗がクリスマスの飾りの前で変なポーズを取っていて、一平がそれを写真に撮ろうとしている。

さくらはキッチンから振り返り、娘たちの顔を見ると、少しだけ目を細めた。


「おかえり」


「ただいま」


その一言の中に、それぞれの時間が静かに混ざる。


夜の食卓はあたたかかった。

小さなチキン。

スープ。

簡単なケーキ。

豪華ではないが、家の中にちゃんとした祝祭の気配がある。


一平は娘たちを見ながら、少しだけ不思議な気持ちになっていた。

二人とも、まだ子どもだと思っていた。

でも、今日の顔は少し違う。

朝陽には朝陽の時間があり、梓には梓の時間がある。

家族の中にいるだけでは育たない何かを、彼女たちは外で少しずつ手に入れ始めている。


それはうれしい。

だが、少しだけ遠くも感じる。


食後、一平とさくらは片づけをしながら、低い声で話した。


「二人とも、ほんまに大きくなったな」


「そうね」


さくらは皿を拭きながら微笑む。

だが、一平の声には、どこか別の色も混じっていた。


「守るって、何なんやろな」


その言葉に、さくらは手を止める。


「どうしたの」


「いや……何でもない」


一平はすぐに誤魔化したが、さくらはそのまま聞き流さなかった。


「何でもない時の顔じゃないわよ」


一平は少しだけ黙った。

そして、窓の外を見た。


ニュースでは相変わらず、海外の不穏な事件が続いている。

大使館。

爆発。

過激派。

訓練。

犯行声明。


この家の中のあたたかさを守りたい。

それは間違いない。

だが、もし本当に遠い場所の不安がこちらへ伸びてきた時、自分に何ができるのか。

それを考えると、言葉にならないざらつきが残る。


さくらは、その感覚を全部は共有していない。

もちろんニュースは見ているし、不安もある。

でも彼女にとって“守る”とは、まずこの家の中の温度を保つことだった。

今この子たちが笑えるようにすること。

約束を約束としてちゃんと楽しめるようにすること。

そのことの方が、まだずっと現実的だった。


「あなたが全部背負わなくていいのよ」


さくらが静かに言う。


一平はその言葉に苦く笑った。


「背負うつもりやなくても、考えてまう時はある」


「分かる。でも」


さくらは布巾を置いた。


「考えることと、怯えることは違う」


一平はその言葉を受け止める。

すれ違っているわけではない。

ただ、守ることの意味を少し違う角度から見ているだけだ。


「……せやな」


やがてそう答えた。


二人は並んで、片づけの続きをした。

同じ台所に立ちながら、少しだけ違う不安を持っている。

それでも、同じ家を守ろうとしていることに変わりはない。


⸻


その夜、朝陽は部屋の窓からイルミネーションを見た。

ノアと歩いた街の光が、まだ目の奥に残っている。

梓はつばめを膝に乗せて、マーカスとの会話を思い返していた。

北斗はクリスマスプレゼントのことを考えながら眠りに落ちた。

一平は黒くなったテレビ画面を見つめ、さくらはその横顔を静かに見ていた。


外の世界では、見えない流れがまだ止まっていない。

それでも、秋田家の中では、幸せが少しずつ増えている。


だからこそ、その対比は痛いほど鮮やかだった。


八ヶ月半後。

この家族が、世界を揺るがす大事件に巻き込まれることなど、誰も考えていない。


朝陽も梓も、今日という日の楽しさを、そのまま明日の続きを信じて受け取っている。

ノアもマーカスも、きっと同じだ。

一平もさくらも、守りたいものの輪郭を感じながら、それでもこの夜が続くと思っている。


楽しい時間は、ただ楽しい時間として過ぎていった。

あまりにも自然に。

あまりにも普通に。


それが、あとになってどれほど残酷なほどまぶしく思い出されることになるのかを、まだ誰も知らないまま。

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