表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日空が裂けた  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

異国の朝の匂い



『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第2話


「異国の朝の匂い」



朝の光が、まだ柔らかいうちに、さくらは窓を開けた。


マンハッタンの空気は、日本の住宅街の朝とは少し違う。

どこか乾いていて、金属のような匂いが混じり、それでいて通りの角にあるベーグル店からは焼きたての香ばしい匂いが流れてくる。遠くでクラクションが鳴り、バスのブレーキ音が重なり、誰かが早口の英語で笑っている。


この街の朝は、静かに見えて、決して静かではない。

音も匂いも、ずっと動き続けている。


さくらは小さく息を吸った。


「……まだ、不思議ね」


独り言のようにそう言ってから、キッチンへ戻る。

炊飯器の代わりに鍋で炊いたご飯。味噌汁。卵焼き。ベーコン。オレンジジュース。アメリカに来てからも、朝食だけはできるだけ日本の輪郭を残したかった。


それは子どもたちのためでもあり、何より自分のためでもあった。


渡米して半年。

日用品を買うことにも、レジでのやり取りにも、地下鉄の乗り換えにも少しずつ慣れてきた。けれど、ふとした瞬間に「私は今、とても遠くにいる」と思い知らされることがある。スーパーで探していた調味料が見つからなかった時。洗濯洗剤の匂いが日本と違う時。電話越しの母の声が、思ったよりずっと遠く聞こえた時。


それでも、ここで暮らしていくと決めたのだ。

一平の仕事のため。

家族の新しい時間のため。

そして、いつかこの経験が子どもたちの中で何かになると信じて。


「お母さん、今日お弁当いる?」


後ろから声がして振り向くと、梓が制服代わりのカジュアルな服に着替え、髪を整えながら立っていた。十三歳。きちんとした目元に、少し大人びた落ち着きがある。


「今日はカフェテリアで食べるって言ってなかった?」


「うん、そうなんだけど、朝陽お姉ちゃんがやっぱりおにぎり欲しいって」


「え、昨日は要らないって言ってたのに」


「今朝気分変わったっぽい」


さくらは思わず笑った。


「思春期って便利な言葉よね。“気分変わった”で全部通るんだから」


「朝陽お姉ちゃんに言ったら怒るよ」


「本人の前では言わないわよ」


そこへ、長女の朝陽がリュックを肩にかけながら現れた。

十五歳。日本にいた時よりも少し表情の出し方が変わった。無理に明るく振る舞うのではなく、必要な時だけ笑うようになった気がする。それが成長なのか、異国で生きるための防御なのか、さくらにはまだ分からなかった。


「お母さん、おにぎり二つだけ作れる?」


「作れるけど、急ね」


「今日、ランチ微妙らしい」


「“微妙”って何が出るの?」


「なんか、ミートローフ」


梓が小さく吹き出す。


「朝陽お姉ちゃん、あれ苦手だもんね」


「嫌いじゃないけど、昼からあれ重いんだって」


「はいはい」


さくらは手早くラップを広げ、塩をつけた手で三角に握る。

鮭はないので、具はおかかと昆布。ニューヨークの朝に、少しだけ日本を持っていくための形。


「ねえ、お母さん」


朝陽が何気ない顔で言った。


「ん?」


「今日の放課後、ちょっと友達と残るかも」


さくらはその一言に、内心で少しだけ安堵した。

“友達”。その言葉が、この子の口から自然に出るようになったことが嬉しかった。


「いいわよ。誰と?」


「メーガンと、ソフィアと、あとジャスミン」


「へえ」


梓が横から口をはさむ。


「メーガンって、あの背高い子?」


「そう。バスケ部の」


「ソフィアってずっと喋ってる子?」


「そう」


「ジャスミンって」


「梓、情報整理しなくていいから」


朝陽の返しに、さくらが笑う。

姉妹のこういうやり取りが、最近少し増えてきた。最初の頃は学校の話題を避けがちだった朝陽が、今は名前を出して話す。それだけで十分な前進だった。



一方、その頃の一平は、世界貿易センタービルのオフィスで資料の束と格闘していた。


机の上には会議用のレポート、修正依頼の入った数表、昨夜のうちにまとめた売上見通し。現地スタッフのスピードに比べると、自分の英語はまだ遠回りだと感じる時がある。言いたいことを一度頭の中で日本語にしてから、英語へ組み直す癖が抜けない。


だが、それでも彼には彼なりの強みがあった。

数字の流れを見る目。

取引先の空気を読む感覚。

曖昧な状況を一度整理して、相手が飲みやすい形にする交渉の粘り。


日本商事ニューヨーク支店の中で、一平はまだ“若手の駐在員”に近い立場だったが、単なる補助役ではなかった。日本本社と現地スタッフの間に立ち、時には両方から無茶を言われながらも、何とか仕事をつなげる立場にある。


会議室では、上司のグリーンがホワイトボードを背に話していた。


“We need numbers that make sense both in Tokyo and here.”

「東京側にも、こちら側にも筋が通る数字が必要だ」


一平はメモを取りながら、表情を変えずに頷く。


“Mr. Akita, can you walk us through the revised estimate?”

「秋田さん、修正版の見積もりを説明してもらえますか」


“Yes.”

「はい」


彼は立ち上がり、配布資料をめくった。


“The original projection assumed a steadier demand in the fourth quarter, but after reviewing the local market movement, we adjusted the volume down by six percent.”

「元の予測では第4四半期の需要をもっと安定的に見ていましたが、現地市場の動きを見直した結果、取扱量を6%下方修正しました」


“However, the margin can still be maintained if we shift more aggressively into the commercial contracts already under discussion.”

「ただし、すでに交渉中の法人契約へより積極的に比重を移せば、利益率は維持できます」


会議室の数人が資料に目を落とす。

エミリーが隣で小さく頷いた。


“Good. That’s clearer.”

「いいですね。その方が分かりやすい」


一平は内心で少し息をついた。

発音に自信はなくても、伝えるべき中身が通ればいい。最近ようやく、そう思えるようになってきた。


会議が終わると、エミリーが紙コップのコーヒーを片手に近づいてきた。


“You’re getting faster.”

「だいぶ速くなってきたわね」


“With the numbers or with the English?”

「数字ですか、それとも英語ですか」


“Both. But mostly with surviving Mr. Greene.”

「両方。でも特に、グリーンに耐える力」


一平は苦笑した。


“That may be the real skill.”

「それが本当のスキルかもしれませんね」


“Exactly.”

「その通り」


こういう軽口も、最初の頃はうまく返せなかった。

少しずつだが、自分の居場所ができ始めているのを感じる。



朝陽と梓が通う地元の中学校は、レンガ造りの古い校舎だった。

正門の前では、色とりどりのバックパックを背負った生徒たちが、朝から大きな声でしゃべっている。笑い声。ロッカーの音。スニーカーの足音。紙袋の朝食を片手に、友人と肩をぶつけ合いながら歩く子たち。


ニューヨークの中学生たちは、とにかくよく喋る。

朝陽は最初、その勢いに圧倒された。

けれど今は、その渦の中に少しずつ自分の居場所を作り始めている。


校舎に入るとすぐ、背の高い金髪の少女が手を振った。


“Hey, Asahi! You did the history homework?”

「ねえ、朝陽! 歴史の宿題やった?」


朝陽は苦笑する。


“Yeah, but I’m not sure about the last question.”

「うん。でも最後の問題はちょっと自信ない」


“That one was weird.”

「あれ変だったよね」


横からもう一人、巻き髪の少女が口を挟む。


“I just wrote three paragraphs and hoped for the best.”

「私はとりあえず3段落書いて、あとは祈っただけ」


朝陽は思わず吹き出した。


“That’s not a strategy.”

「それ、作戦じゃないでしょ」


“It is in New York.”

「ニューヨークではそれも作戦よ」


三人が笑う。

メーガン、ソフィア、ジャスミン。最近ようやく、朝陽が自然に一緒に歩ける相手たちだ。


メーガンが朝陽の手元を見た。


“Are those rice balls again?”

「またそのおにぎり?」


“Yeah.”

「うん」


“They smell good.”

「いい匂いする」


“Want one tomorrow? My mom can make extra.”

「明日、いる? うちのお母さん、余分に作れるよ」


“Seriously?”

「ほんとに?」


“Seriously.”

「ほんと」


ソフィアが大げさに胸に手を当てる。


“That’s how international friendship begins.”

「こうして国際友情は始まるのね」


“By stealing lunch?”

「お昼をもらうことで?」


“By sharing culture.”

「文化を分かち合うことでよ」


朝陽は笑いながらも、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

来たばかりの頃、自分が話す英語はいつも半歩遅れていた。相手が冗談を言っても、意味が分かった頃には話題が次へ進んでいる。笑うタイミングを外して、ひとりだけ置いていかれる感じがした。


でも今は違う。

全部ではないにしても、ちゃんと会話の中にいる。

たまに自分から言葉を投げられる。

それだけで、世界の見え方は少し変わる。


一方、梓の方は朝陽よりも早く学校に馴染んでいた。


図書室の前で、同級生のエミリーンとマーカスが待っている。


“Azusa, are you coming to science club after school?”

「梓、放課後サイエンスクラブ来る?」


“I think so. Depends on how much math homework we get.”

「たぶん行く。数学の宿題がどれだけ出るかによるけど」


“That means yes.”

「それは来るって意味ね」


“Probably.”

「たぶんね」


マーカスが教科書を抱え直しながら言う。


“You always say ‘probably’ and then you show up anyway.”

「君はいつも“たぶん”って言うけど、結局来るよね」


梓は小さく笑った。


“That’s because I like experiments more than homework.”

「宿題より実験の方が好きだから」


“That’s the correct answer.”

「その答え、正解」


梓は派手に前へ出るタイプではない。

けれど相手の話をよく聞き、落ち着いて返すので、クラスメイトたちが自然と話しかけてくる。英語も慎重だが正確で、教師からの信頼も少しずつ得ていた。


廊下の向こうを見れば、朝陽が友人たちと笑いながら歩いている。

梓はその姿を見て、少しだけ安心する。


姉は強そうに見えて、知らない場所では意外と緊張する。

でも最近は、あの笑い方が自然になってきた。

それが妹として、ちょっと嬉しかった。



昼過ぎ、さくらは近所のグロサリーストアからの帰り道、紙袋を抱えて歩いていた。


牛乳、卵、パン、リンゴ、シリアル、そしてようやく見つけた醤油。

この街では、買い物ひとつにも少しした冒険が必要だ。どこへ行けば日本のものに近い食材があるのか。どのブランドの牛乳が子どもたちに飲みやすいのか。卵のサイズ表記が違うだけで、最初は妙に戸惑った。


交差点で信号を待っていると、顔見知りの女性がベビーカーを押して近づいてきた。上の階に住むメアリーだ。三十代後半くらいで、明るい茶髪をラフに束ねている。


“Hi, Sakura!”

「こんにちは、さくら!」


“Hi, Mary.”

「こんにちは、メアリー」


“Grocery day?”

「買い出しの日?」


“Yes. And I finally found soy sauce.”

「ええ。それに、やっと醤油を見つけたの」


メアリーが目を丸くする。


“That sounds important.”

「それは大事件ね」


“It is. My family may survive another week now.”

「ええ。これでうちの家族、あと一週間は生き延びられるわ」


二人とも笑った。


“Listen, some of us are meeting in the lobby on Friday evening. Just coffee and chatting. You should come.”

「ねえ、金曜の夕方に何人かでロビーに集まるの。コーヒー飲んでおしゃべりするだけ。あなたも来たら?」


さくらは少し驚いたが、すぐに柔らかく頷いた。


“I’d like that.”

「ぜひ行きたいわ」


“Good. Bring the kids if you want.”

「よかった。子どもたちを連れてきてもいいわよ」


“Thank you.”

「ありがとう」


信号が青に変わる。

二人は手を振って別れた。


さくらはそのまま歩きながら、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じていた。

異国で暮らすというのは、特別なことの連続ではない。むしろ逆だ。こういう、ほんのささやかなつながりで日々が支えられていく。


誰かが名前を呼んでくれる。

ちょっとした集まりに誘ってくれる。

それだけで、「ここで暮らしてもいいのかもしれない」と思える。



夕方。

秋田家のダイニングには、また四人分の笑い声が戻ってきた。


一平はネクタイを少しゆるめ、今日の会議の話をし、北斗は理科の授業で飛行機の模型を見たと興奮気味に話した。梓はサイエンスクラブで火山模型を作るらしいと言い、朝陽は何でもないような顔で言った。


「明日、おにぎり多めにお願いしていい?」


さくらが顔を上げる。


「何個?」


「……四つ」


「四つ?」


「私の分含めて」


一平がにやっとする。


「友達に人気やな、日本の米外交」


「お父さん、その言い方やめて」


「ええやん。立派な文化交流や」


梓がくすっと笑う。


「メーガンたちでしょ?」


朝陽は一瞬だけ眉をひそめるが、否定はしなかった。


「……そうだけど」


さくらはそれ以上聞かず、ただ穏やかに頷いた。


「じゃあ、朝ちょっと早く起きないとね」


朝陽は小さく「うん」と言う。

その声は短かったが、前より柔らかかった。


窓の外には、ニューヨークの夕暮れが広がっていた。

高いビルの隙間に橙色の光が差し、通りの車の列が赤い尾を引く。遠くでサイレンが鳴り、どこかの部屋からテレビの音が漏れてくる。


この街は相変わらず速い。

冷たい瞬間もある。

言葉の壁はまだ完全には消えていない。

それでも秋田家は、少しずつこの場所で暮らす方法を覚え始めていた。


大きな変化ではない。

劇的でもない。

ただ、確かに根が伸びていく。


この街で笑うこと。

この街で学校へ行くこと。

この街で仕事をして、帰ってきて、食卓を囲むこと。


その当たり前が、少しずつ家族の中に積み上がっていく。


まだ誰も知らない。

この穏やかな積み重ねが、どれほどかけがえのないものだったのかを。

そして、一年後、この“いつもの夕暮れ”をどれほど激しく恋しく思うことになるのかを。


だが今はまだ、誰も知らないままでいい。


一平がふと窓の外を見て言った。


「明日も晴れそうやな」


北斗が元気よく答える。


「じゃあ空、いっぱい見えるね」


その言葉に、さくらは一瞬だけ空を見た。

高く、広く、どこまでも続いていくようなニューヨークの空を。


「そうね」


彼女は静かに微笑んだ。


「きっと、きれいに見えるわ」



第2話 終



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ