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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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始まりの空


『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第1話


「はじまりの空」



二〇〇〇年九月十一日。

ニューヨークの朝は、思っていたよりも静かに始まる。


マンハッタンの空は、もう夏の名残を少しだけ残しながら、秋の気配を含み始めていた。窓の外に見える高層ビル群は、朝日を受けて銀色に光り、その下を黄いろいタクシーがいくつも流れていく。遠くから救急車のサイレンがかすかに聞こえ、さらにその向こうでは、地下鉄の振動が街の奥底を低く鳴らしていた。


秋田一平は、キッチンのカウンターに片手をつきながら、コーヒーをひと口飲んだ。


「……やっぱり、まだ慣れんな」


そう呟くと、背後から小さく笑う声がした。


「何が?」


振り返ると、妻のさくらがトーストを皿に並べていた。薄いグレーのカーディガンを羽織り、まだ朝の眠気を少し残した顔で、それでも手元の動きだけは無駄がない。渡米してもう数か月経つのに、彼女はこうして日本と同じ朝を家の中に再現し続けていた。


「静かさや。ニューヨークって、もっと朝からガーッとしてるもんやと思っとった」


「それは映画の見すぎじゃない?」


「いや、映画のニューヨークって大体いつも誰か追いかけられとるやん」


「それはあなただけのニューヨーク像でしょ」


一平は肩をすくめ、カップを置いた。

そのやり取りを、ダイニングテーブルでシリアルの箱を抱えたまま聞いていた長男の北斗が、けらけら笑う。


「お父さん、また映画の話してる」


「またって何や。お父さんはな、ちゃんと国際都市の空気を語っとるんや」


「でも昨日も“地下鉄でサングラスの男とぶつかったら事件始まる思った”って言ってたよ?」


「それは一瞬な。一瞬だけや」


「一瞬でも十分だよ」


長女の朝陽が、オレンジジュースのグラスを口元まで持ち上げたまま、呆れたように言った。十五歳。肩にかかる黒髪を後ろでゆるくまとめ、制服代わりの私服もどこか気だるげに着こなしている。その仕草には日本にいた頃にはなかった都会的な諦めのようなものが混じっていて、一平は時々、娘の成長が嬉しいのか寂しいのか分からなくなることがあった。


その向かいでは、次女の梓がジャムを塗ったトーストをきっちり四等分しながら言った。


「でも、お父さんって分かりやすいよね。緊張してると余計なこといっぱい喋るし」


「梓まで言うんか」


「事実だから」


「この家、お父さんに厳しすぎへん?」


「世界はもっと厳しいのよ、一平さん」


さくらがさらっと言って、コーヒーを注ぐ。

その瞬間、一家のあちこちから笑いがこぼれた。


ニューヨークに来て半年。

この家は、まだ完全にはこちらの生活に馴染みきっていなかった。日本から持ってきた湯呑み、慣れないサイズの牛乳パック、現地スーパーで買った異様に甘いシリアル、時々急に恋しくなる味噌汁の味。そういう小さな違いの上に、秋田家の毎日は成り立っていた。


だが、それでも朝は来る。

学校も仕事も待ってくれない。

家族は、生活を続けていく。


「朝陽、今日は何時に帰るんだっけ」


一平がネクタイを整えながら聞くと、朝陽は少しだけ面倒そうに眉を上げた。


「放課後、図書館寄るから少し遅い。たぶん六時半くらい」


「暗くなる前には帰れよ」


「まだ九月だよ」


「ニューヨークやぞ」


「ニューヨークだから何?」


「ニューヨークは……なんかこう、いろいろあるやろ」


「雑すぎ」


梓が吹き出す。

北斗まで真似して低い声で「ニューヨークは、いろいろあるやろ」と繰り返すものだから、一平は観念したように両手を上げた。


「分かった分かった。お父さんの心配は雑や。認める。けどな、心配する権利くらいあるやろ」


その言葉に、朝陽は一瞬だけ黙った。

それから、小さく肩をすくめる。


「……分かってるよ」


たったそれだけの返事だったが、一平には十分だった。

この子は最近、言葉を短く切る。突き放しているようで、実はちゃんと受け取っている。親としては難しい年頃だが、まだ完全には遠くへ行っていない。そんな距離感が、今は何よりもありがたかった。


「お父さん、今日もあの大きいビル行くの?」


北斗が聞く。


「ああ。今日も行くで」


「上まで?」


「今日は七十八階までやな」


「すご……」


北斗の目が丸くなる。十歳の彼にとって、父が働く世界貿易センタービルは、もはや秘密基地か宇宙船のような存在だった。空に突き刺さるようなその巨大な建物を初めて見た日から、彼は何度も何度も同じ質問を繰り返している。


高いところは怖くないのか。

エレベーターはどれくらい速いのか。

窓から自由の女神は見えるのか。

雲は近いのか。


一平はそのたびに、少し誇らしい気持ちになった。

自分の仕事そのものは地味だ。数字と書類、交渉と報告、会議と電話。その積み重ねでしかない。けれど息子の目には、自分は“空の近くで働く人”に見えている。そのことが、妙に嬉しかった。


「北斗も大きくなったら、ああいうビルで働くか?」


「うーん……僕は飛行機かな」


「飛行機?」


「うん。操縦する人か、作る人か、まだ分かんないけど。空に関係ある仕事したい」


一平は一瞬だけ目を細めた。

空に関係ある仕事。

それは子どもらしい、まっすぐな夢だった。


「ええやん」


「でも高いとこ平気なの?」


朝陽がからかうように聞く。


「平気だよ。お姉ちゃんよりは」


「何それ」


「前に展望台で手すりから離れられなかったじゃん」


「違うから。あれはただ風が強かっただけ」


「見た見た。朝陽、顔ちょっと固まってた」


「梓まで乗らないで」


また食卓が笑いに包まれる。

さくらはその様子を見ながら、少しだけ安心したように表情をやわらげた。


家族がこうして同じテーブルで笑える朝は、思っていた以上に貴重だ。

一平の帰宅が遅くなる日もある。朝陽は思春期で、時折家族の輪から半歩だけ外側に立つ。梓は気を遣いすぎるところがあるし、北斗はまだ寂しさを言葉にするのが下手だ。さくらはそんな全員の間を埋めるように動き、ふとした瞬間に一人だけ疲れた顔を見せることがあった。


それでも、今この朝はちゃんと保たれている。

壊れていない。

まだ、誰も失っていない。


一平は腕時計を見て、軽く息を吐いた。


「そろそろ出るわ」


「はい、お弁当」


さくらが差し出したランチバッグを受け取る。

アメリカのデリでも食事は済ませられるのに、彼女は週の半分以上、自分で簡単な弁当を作って持たせてくれていた。今日は照り焼きチキンと卵焼きとブロッコリー。昨夜のうちに下ごしらえしていたのを、一平は知っている。


「助かる」


「ちゃんと食べてね」


「食べる食べる。会議で変なサンドイッチ食わされる前に食べる」


「変なサンドイッチって」


「なんか、パンより具が分厚いやつ」


「それ普通においしそうだけど」


「いや、でかすぎるねん。口の限界を試してくる」


北斗がまた笑う。

梓も笑う。

朝陽だけは少しあきれた顔をしながらも、最後には口元を緩めた。


一平は玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけたところで振り返る。


「ほな、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


三人の声が重なり、少し遅れてさくらが穏やかに続けた。


「気をつけてね」


その一言だけ、少し静かだった。

一平は一瞬だけ立ち止まり、頷いた。


「そっちもな」



マンハッタンの朝の空気は、地上に降りると少し違っていた。

ビル風が頬を撫で、歩道にはコーヒーの香りと排気ガスの匂いが混じっている。スーツ姿の人々が早足で行き交い、新聞スタンドでは見出しの大きな英字新聞が並んでいた。路上のベンダーはベーグルを焼き、犬を散歩させる人が信号待ちをしている。


世界有数の大都市。

この街は、常に誰かの朝を急かしている。


一平は通勤鞄を肩にかけ直し、人の流れに乗って歩き出した。

地下鉄に降りることもあるが、今日は天気が良かったので、途中まで地上を歩くつもりだった。歩けば街が見える。街が見えると、自分がこの場所で暮らしていることを少しだけ実感できる。


交差点を渡りながら、彼はふと空を見上げた。


ビルの間に切り取られた青空は、やけに高く、澄んでいた。


日本にいた頃、一平は“ニューヨーク支店勤務”という言葉に多少の高揚を覚えた。商社マンとしてはひとつの花形だ。出世コースとまではいかなくても、確かな実績になる。英語は得意ではなかったが、仕事で積み上げてきた交渉力と現場感覚で何とかやれると思った。何より、家族に違う世界を見せたい気持ちがあった。


だが、実際に来てみると、この街は華やかさだけではできていなかった。

速い。冷たい。広い。近いようで遠い。

誰もが自分の方向へ急いでいて、立ち止まる者には少しだけ容赦がない。


それでも、一平はこの街を嫌いにはなれなかった。

空が高い。

人が多い。

違う言葉が飛び交う。

その全部が、自分の世界を少しずつ広げてくれている気がした。


やがて視界の先に、二本の巨大な塔が現れる。

世界貿易センター。

朝の光の中で、それは都市そのものの象徴のように立っていた。近づくほどに、その高さは感覚を狂わせる。真下から見上げると、上階は空の中へ消えていくようだった。


一平は自然と背筋を伸ばす。

ここで働いているという事実は、いまだに少しだけ現実味が薄い。


ロビーへ向かう人の流れに紛れ込みながら、彼はいつものように社員証を取り出した。警備員に軽く会釈し、回転ドアを抜ける。磨き上げられた床。高い天井。吹き抜けを行き交う無数の足音。多国籍の言葉が交差し、エレベーターの到着音が絶え間なく鳴っている。


その巨大な建物の内部で、一人ひとりは小さい。

けれど、それぞれに仕事があり、家族があり、帰る場所がある。


一平もその一人だった。


「Morning, Ippei!」


背後から明るい声がして、彼は振り返った。

金髪を後ろで束ねた女性が、書類の束を抱えながら手を振っている。現地スタッフのエミリー・ロジャース。三十代前半、仕事は早く、笑顔は軽やかで、最初はそのテンポについていくのに苦労した相手だ。


「Morning, Emily」


「You look better today. No more war with the copy machine?」


一平は苦笑した。

三日前、彼は大型コピー機に資料を吸い込まれ、紙詰まりを起こし、ひとりで悪戦苦闘した末に社内のちょっとした笑い話になっていた。


「Today, no war. Peace treaty」


「Good. We need peace around here」


エミリーはくすっと笑い、それから少し真面目な顔で続けた。


「Morning meeting moved to nine-thirty. Mr. Greene wants the revised numbers before that」


「Got it. I finished most of them last night」


「Perfect. You may actually save us all」


「No pressure, huh?」


「Exactly」


軽い会話を交わしながら、二人はエレベーターの前に並んだ。

周囲にはスーツ姿の男女、配送スタッフ、警備員、来訪者らしき人々が入り混じっている。誰もが自分の朝を抱えている。コーヒーを片手に新聞を読む男、メモ帳を見つめる女性、少し眠そうにあくびを噛み殺す若い社員。


エレベーターが到着し、扉が開く。

人々が流れ込む。

一平も、その一人として箱の中へ入った。


上昇が始まると、わずかな耳鳴りとともに身体がふっと軽くなる。

北斗ならきっと目を輝かせるだろう。梓なら冷静な顔で「速いね」とだけ言うかもしれない。朝陽は平然を装いながら、たぶん窓のない箱の中で少しだけ肩に力を入れる。


そんなことを考え、一平は小さく笑った。


「What?」


隣のエミリーが聞く。


「Nothing. Just… my son would love this elevator」


「Then you should bring him someday」


「Yeah. Maybe I will」


その“いつか”を、一平は何の疑いもなく口にした。



オフィスに着くと、窓の外にはニューヨークの街が広がっていた。

ハドソン川の鈍い光、遠くに見える自由の女神、細かいブロックのように並ぶ建物群。地上の喧騒はここまで来るとかすかな揺らぎに変わり、世界はひどく整然として見えた。


一平はデスクに鞄を置き、書類を並べた。

電話メモ、売上資料、会議用の報告書。机の片隅には、家族写真が立ててある。先月セントラルパークで撮ったものだ。さくらが笑い、北斗がやや前に出すぎていて、梓は少しすました顔、朝陽は控えめだがちゃんと笑っている。


一平はその写真に目をやり、ネクタイを整えた。


仕事をする。

家族を守る。

今日を終えて、また家に帰る。


それだけでよかった。

それだけが、確かな人生のはずだった。


窓の外の空は、どこまでも青かった。



第1話 終



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