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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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3/6

高層ビルの窓から



『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第3話


「高層ビルの窓から」



朝の世界貿易センタービルは、街の鼓動をそのまま飲み込んでいるようだった。


回転ドアを抜けるたび、一平は少しだけ背筋を伸ばす。

外のニューヨークは風と排気ガスと人の波でできているが、この建物の中は別の秩序で動いていた。磨かれた床、規則正しく往来する人々、絶え間なく上下するエレベーター、各国の言葉が擦れ違うロビー。


誰もが急いでいる。

けれど、ただ慌ただしいわけではない。

それぞれが自分の役目に向かっている。


一平も、その一人だった。


社員証をかざし、セキュリティゲートを抜ける。

エレベーターの前には、すでに人の列ができていた。金融関係の男たち、配送担当らしい女性、観光客を案内しているスタッフ、そして一平のようなオフィスワーカー。顔見知りもいれば、知らない顔もいる。だが同じ時間にこの塔へ入る者たちには、どこか連帯感に似たものがあった。


箱の中に乗り込むと、エレベーターは一気に上昇する。

耳が少し詰まる。

その感覚に、一平はいつも北斗の顔を思い出した。


――僕は飛行機かな。

――空に関係ある仕事したい。


あいつなら、きっとこの上昇も楽しむ。

そう思うと、一平は少し笑いそうになる。


扉が開く。

オフィスフロアに降りると、すでに何人かがデスクで仕事を始めていた。


“Morning.”


“Good morning.”


“Hey, Ippei.”


短い挨拶が飛び交う。

一平もそれに応じながら、自分の席へ向かった。


窓際では、現地採用のエミリーが紙コップのコーヒーを両手で持ち、外を見ていた。


“Sky’s clear again.”

「今日もよく晴れてるわね」


一平も窓の外に目をやる。

朝の光に照らされたマンハッタンの街並みが、細密な模型のように広がっていた。ハドソン川は鈍く光り、遠くに自由の女神が小さく立っている。車も人も、ここから見ると信じられないほど小さい。


“Yeah.”

「そうですね」


“You still do that.”

「あなた、まだそれやるのね」


“What?”

「何をですか」


“Looking out like it surprises you every morning.”

「毎朝、驚いたみたいに外を見ること」


一平は少し照れたように笑った。


“Maybe it still does.”

「たぶん、まだ驚いてるんだと思います」


エミリーは肩をすくめる。


“Good. Means you’re still human.”

「それはいいことよ。まだ人間らしいってこと」


“Should I be worried if I stop?”

「見なくなったら心配した方がいいですかね」


“Definitely.”

「間違いなくね」


そんな軽いやり取りができるようになったこと自体、半年前の一平には考えにくかった。

赴任直後の彼は、英語そのものよりも“会話の間”に苦しんでいた。会議は何とかなる。資料も読める。だが、雑談が難しい。冗談を言われた時にどこまで笑えばいいのか、どの程度自分のことを話していいのか、その感覚が分からなかった。


日本支社から来た“真面目な駐在員”。

最初の一平は、きっとそう見えていたはずだ。

いや、今でも半分くらいはそうかもしれない。


ただ、最近は違った。

真面目なだけではなく、ちゃんと仕事を前に進める男として見られ始めている。数字を読み、取引先の感触をつかみ、東京本社の意向を現地の現実に合わせて調整する。その“間”を埋める仕事は、思っていた以上に重要だった。


一平が席に着くと、内線電話が鳴った。


“Yes, Akita speaking.”

「はい、秋田です」


受話器の向こうから聞こえてきたのは、日本商事ニューヨーク支店長の村瀬だった。五十代後半、駐在経験の長い男で、部下に対しては厳しいが理不尽ではない。


「秋田くん、昨日の修正版、先方が前向きらしい。十時から先方と打ち合わせに入るから、君も同席してくれ」


「分かりました」


「あと、東京からまた“楽観的な数字を出せないか”と言ってきてる。無理に合わせるな。現地見てるのはこっちだからな」


「はい」


受話器を置いて、一平は短く息をつく。

これが今の自分の役割だと思った。


本社は数字を見る。

現地は現実を見る。

その間で、ただ板挟みになるだけでは意味がない。両方がギリギリ納得できる線を探し、言葉にして、前へ進める。それが駐在員の仕事だ。


華やかな役職ではない。

目立つ仕事でもない。

けれど、“つなぐ”ということには確かな価値がある。



十時の会議室では、取引先のアメリカ企業の担当者二人がすでに待っていた。

一人は営業部門の責任者であるトム・ハリス。四十代、赤ら顔で、笑うと声が大きい。もう一人は財務担当のリンダ・チェン。無駄のない口調で、数字に関しては一切妥協しないタイプだ。


村瀬が挨拶を交わし、簡単な導入の後、一平に視線を向けた。


“Mr. Akita has reviewed the local estimates.”

「現地見積もりは秋田が確認しています」


トムが頷く。


“Then I want to hear from him.”

「なら、彼の話を聞きたい」


一平は資料を開いた。

こういう場で、“日本から来た若手”としてではなく、ひとりの担当者として扱われる瞬間が最近増えてきた。それが緊張でもあり、手応えでもあった。


“The main issue is not the overall demand, but the timing.”

「大きな問題は総需要そのものではなく、そのタイミングです」


“If we push volume too early, we increase storage costs and expose both sides to unnecessary risk.”

「出荷量を早い段階で増やしすぎると、保管コストが膨らみ、双方に不要なリスクが生まれます」


リンダが資料に目を落とす。


“So your proposal is to hold back now and move faster in late quarter?”

「つまり、今は抑えて、四半期後半で加速する提案ということ?」


“Yes. Because the contracts already under discussion support that schedule better.”

「はい。現在交渉中の契約の方が、その日程に合っています」


トムが腕を組み、椅子にもたれた。


“Hm. Conservative.”

「ふむ。慎重だな」


一平は落ち着いて答える。


“Careful, yes. But not passive.”

「慎重ではあります。ただ、消極的ではありません」


“One bad forecast hurts both of us. A slower start with a stronger close is better than a fast start that collapses in November.”

「予測を誤れば、双方が損をします。序盤で無理をして11月に崩れるより、慎重に始めて最後を強く締める方がいい」


数秒の沈黙。

それから、リンダが小さく頷いた。


“That makes sense.”

「筋は通ってるわね」


トムも鼻で笑うように息を吐いた。


“You sound less like a salesman and more like someone who wants us alive next quarter.”

「営業というより、来期も俺たちが生き残ることを考えてる人間の言い方だな」


一平は少しだけ笑った。


“That’s the plan.”

「そのつもりです」


会議が終わったあと、村瀬が廊下で足を止めた。


「今のよかったよ」


「ありがとうございます」


「相手に迎合しすぎないのがいい。駐在員は英語が流暢かどうかより、どこで踏みとどまるかの方が大事だ」


一平はその言葉を胸の中で繰り返した。

どこで踏みとどまるか。

それは仕事にも、生活にも通じる気がした。



昼休み、一平は社員食堂ではなく、ビルの一角にある小さな休憩スペースでさくらの作った弁当を広げた。照り焼きチキン、卵焼き、ブロッコリー。派手ではないが、見た瞬間に肩の力が抜けるような中身だった。


窓際の席に座ると、同じフロアのデイビッドがやって来た。二十代後半、眼鏡をかけた細身の男で、数字に強く、人づき合いはやや不器用だが悪い男ではない。


“Is that homemade?”

「それ、手作り?」


“Yes. My wife made it.”

「ええ、妻が作ってくれました」


“Looks better than whatever I bought downstairs.”

「下で買った俺の昼よりずっといいな」


デイビッドは自分の巨大なサンドイッチを持ち上げる。

確かに具が厚すぎて、どこから食べるべきか分からない。


一平は思わず笑った。


“I told my family these sandwiches are designed to test human limits.”

「うちでは、ここのサンドイッチは人間の限界を試してくるって話してるんです」


デイビッドが噴き出した。


“That is… actually accurate.”

「それは……実際かなり正確だな」


二人で少し笑う。

こういう時間も、最初の頃はなかった。

仕事の話はできても、それ以上には進まない。けれど日々のやり取りを重ねるうち、ようやく同じ場所で働く仲間として並べるようになってきた。


デイビッドが窓の外を見た。


“You know, I’ve worked in this building for three years, and I still forget how strange this view is.”

「このビルで三年働いてるけど、今でもこの景色が変だって忘れる時があるよ」


一平も外を見る。


“Strange?”

「変だ?」


“Yeah. Like… too high to feel real.”

「そう。なんていうか……高すぎて現実感がない」


“That’s true.”

「たしかに」


“You ever miss home?”

「故郷、恋しくなる?」


突然の質問に、一平は弁当箱の蓋を見つめた。


“Yeah.”

「ええ」


“Every day?”

「毎日?」


一平は少し考えてから答える。


“Not all day. But every day, at some point.”

「一日中じゃないです。でも毎日、どこかの瞬間では」


デイビッドは黙って頷いた。


“That seems honest.”

「正直でいいな」


一平は少しだけ笑う。


“What about you?”

「あなたは?」


“I was born in Queens. I still miss it when I’m in Manhattan too long.”

「俺はクイーンズ生まれだけど、マンハッタンに長くいすぎるとそれでも恋しくなるよ」


その返しが妙に可笑しくて、一平は声を立てて笑った。

デイビッドも少しだけ口元を緩める。


故郷を恋しがる気持ちは、国境をまたいでも変わらないのかもしれない。



その日の午後、学校を終えた北斗は地元の陸上クラブへ向かっていた。


ランドセルではなくバックパック。

日本の小学校とは違う校舎。

けれど彼はもう、すっかりこの町の四年生だった。


北斗は、教室でもよく目立つ子だった。

算数は早く、英語も吸収が早い。社会科の授業では、地図や国の話になると目を輝かせる。そして何より、とにかく足が速い。校庭を走れば、他の子たちが「Wait, wait!」と笑いながら追いかけるほどだった。


クラブのコーチは、最初に北斗の走りを見た時に眉を上げた。


“You’ve got real speed, kid.”

「おまえ、本物のスピードあるな」


北斗は照れくさそうに笑う。


“I just like running.”

「走るのが好きなだけです」


“Well, that’s a good start.”

「それは最高のスタートだ」


けれど北斗が人気者なのは、足が速いからだけではない。

休み時間になると、彼はクラスメイトと即興のギャグコントを始めることがあった。顔をしかめた先生の真似、やたら劇的なニュースキャスター、宿題を忘れた子の大げさな言い訳。英語で、身振り手振りも全開でやるものだから、周囲はすぐに笑いに巻き込まれる。


その日も、練習前にチームメイトのジェイデンとルイスを相手に、北斗は妙な寸劇を始めていた。


“Breaking news! I lost my homework on the train!”

「速報です! 宿題を電車でなくしました!」


ジェイデンが大げさに驚く。


“Again?!”

「またかよ!?」


北斗が片手を上げる。


“But wait! The train was so fast… it turned into math!”

「でも待って! その電車、あまりに速すぎて……数学になりました!」


ルイスが腹を抱える。


“That makes no sense!”

「意味分かんないって!」


北斗は真顔で続ける。


“Exactly. That’s why I couldn’t do the homework.”

「その通り。だから宿題ができなかったんです」


三人が爆笑する。

コーチが笛を鳴らしながら苦笑した。


“Save the comedy for after laps!”

「コントは周回のあとにしろ!」


“Coach, comedy is part of the warm-up!”

「コーチ、コメディはウォームアップの一部です!」


また笑いが起きる。

その輪の中心に北斗がいる。


一平が北海道にいた頃、函館本線や室蘭本線・千歳線を駆け抜ける特急北斗を見て、この名前をつけたいと思った。速く、力強く、遠くへ走る列車。その響きに、男の子らしいまっすぐさを感じたのだ。


朝陽も、梓も、鉄道好きの一平がつけた名前だった。

旅の途中で見た朝の光。

線路沿いに揺れる梓の葉。

そして、最速で駆け抜ける北斗。


ニューヨークへ来てから飼い始めたシャム猫にまで、彼はつばめと名付けた。

さくらには「あなた、本当に筋金入りね」と呆れ半分に笑われたが、一平にとって名前とは、願いと記憶を乗せるものだった。


だから北斗が走る姿を見るたび、一平はどこか胸が熱くなる。

ああ、この子は本当に“北斗”なんだ、と。



その夜、一平が帰宅すると、リビングのソファの上でシャム猫のつばめが丸くなっていた。青い目を細め、尻尾だけをゆっくり動かしている。


「ただいま」


そう声をかけると、つばめは一度だけ「ニャ」と短く鳴いた。

歓迎なのか、単なる返事なのかは分からない。


ダイニングでは、北斗が今日の練習の話を身振り手振りで熱弁していた。


「でね、最後のダッシュで僕が一番だったんだよ! それでコーチが、“You’ve got a rocket in your legs”って!」


「脚にロケット入っとるんか、おまえは」


一平が笑う。


「入ってるかもしれない」


「入ってたら病院やな」


「えー」


梓が横から口をはさむ。


「でも本当に速いよね、北斗」


朝陽も水を飲みながら頷く。


「今日、学校でも男子が“Hokuto runs like crazy”って言ってた」


北斗は得意げに胸を張った。


「あとね、僕のコントもウケた」


一平が目を細める。


「コント?」


「うん。ニュースキャスターの真似した」


さくらがくすっと笑う。


「この子、最近ほんとによく英語でふざけるのよ」


「ええやん」


一平は椅子に腰掛け、ネクタイを外した。


「言葉ってのはな、勉強だけやなくて、笑えるようになったら強いんや」


朝陽が少し意外そうな顔をする。


「お父さん、たまにいいこと言うよね」


「たまにて何や」


「いつもじゃない」


「ひどい家族やなあ」


食卓が笑いに包まれる。

その笑いの中に、一平は今日の会議室とは違う、自分のもう一つの役割を感じていた。


ここへ帰ること。

この声の中に戻ること。

そのために働いているのだ。


食後、北斗が算数のノートを開き、一平の横に座った。


「これ、ちょっと見て」


分数の問題だった。

一平は鉛筆を持ち、紙の端に簡単な図を書きながら説明する。


「ほら、これを列車やと思え」


「また列車」


「ええやろ、分かりやすいんやから。一本の長い編成を半分に切って、それをさらに」


北斗が笑いながら言う。


「お父さん、何でも鉄道にするよね」


「世の中の大体のことは鉄道で説明できる」


「絶対うそ」


「いや、ほんまや」


そのやり取りをキッチンから見ていたさくらが、ふっと微笑む。


一平はニューヨークで働いている。

高層ビルの上で、英語に囲まれながら、慣れない責任を抱えて。

でも、この人の根っこは変わらない。

鉄道が好きで、家族が好きで、少し不器用で、けれど誰かをつなぐことに向いている。


それはきっと、仕事でも同じなのだろう。



その夜遅く、子どもたちが寝静まったあと、一平は一人で窓のそばに立った。


マンハッタンの夜景が遠くまで続いている。

無数の灯り。

まだ眠らない街。

その中に、自分の働く塔も見えていた。


一平はガラス越しにその光を見つめる。


駐在員としての生活は、華やかに見えて、実際には地味な忍耐の積み重ねだった。

言葉の壁。

文化の違い。

本社と現地の間での調整。

家族を異国で暮らさせている責任。

自分が弱音を吐けば、その揺れは家庭にも伝わる。


孤独がないわけではなかった。

ふとした瞬間に、日本の駅のホームや、北海道の冷たい朝や、あの頃見た特急列車のライトを思い出す。帰りたい、とは少し違う。けれど、遠さは確かに胸にある。


それでも——と思う。


この街で働く意味は、少しずつ見えてきていた。


ただ昇進のためではない。

ただ海外経験のためでもない。

ここで自分は、違う世界と違う世界をつないでいる。

人と人を、考え方と考え方を、現実と希望を、少しでも無理なく結ぶために働いている。


そして家では、子どもたちが英語で笑い、走り、友達を作っている。

さくらはこの街で買い物の道を覚え、名前を呼んでくれる人を増やしている。

秋田家は、ちゃんとここで生き始めている。


一平は夜空を見上げた。

高層ビルの隙間にのぞく空は、昼よりもずっと遠く見える。


「……悪くないな」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


異国の街。

巨大な塔。

慣れない言葉。

それでも、自分はここで働いている。

家族とともに、生きている。


そのことが、今夜は少しだけ誇らしかった。


窓の外では、ニューヨークの灯りが静かに揺れていた。



第3話 終



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