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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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17/59

心の温度差

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』


第17話


心の温度差


十一月の風は、朝よりも夕方の方が冷たかった。


昼間のニューヨークはまだ華やかだ。店先には赤と金の飾りが増え、通りを歩けばクリスマスソングが少し早すぎる季節感を連れてくる。けれど日が落ちると、空気は急に現実へ戻る。ビルの隙間を抜ける風が頬を刺し、ネオンの明るささえ少しだけ寒く見えた。


その日の放課後、朝陽はノアと並んで学校を出た。


校門の前には、いつものように生徒たちの波がある。誰かが試験の愚痴を言い、誰かが部活の予定を確認し、誰かが週末の話で笑っている。その中を、朝陽とノアはわざとらしくなく、けれど自然に同じ速度で歩いていた。


「So, Saturday’s still on.」

(土曜の約束、ちゃんと生きてるよな)


ノアが言う。


「That depends.」

(それは条件次第)


「Here we go.」

(はい来た)


朝陽は少しだけ笑った。


「If your mysterious café is actually terrible, I reserve the right to complain for the rest of the year.」

(あんたの“例のカフェ”が本当に微妙だったら、私は年内ずっと文句言う権利を保有するから)


「That’s a lot of pressure for hot chocolate.」

(ホットチョコに対する圧じゃないな、それ)


「Good.」

(それでいいの)


ノアは肩をすくめたが、その顔は明るかった。


「You know what I like about talking to you?」

(君と話してて好きなの、何だと思う?)


朝陽は一瞬だけ身構える。


「That sounds dangerous already.」

(その入り方でもう危ない)


「You always sound like you’re arguing, even when you’re clearly in a good mood.」

(機嫌いい時でも、いつも議論してるみたいに聞こえるところ)


「Maybe I am arguing.」

(実際そうしてるのかも)


「Yeah. But you keep showing up.」

(ああ。でも、ちゃんと来るんだよな)


その言葉に、朝陽は少しだけ黙った。


うまく返したかった。

でも、ノアの言い方が思ったよりまっすぐだったので、軽口でかわすには少し遅れた。


「…You’re not terrible to talk to either.」

(……あんたも、話してて最悪ってわけじゃない)


ノアが吹き出した。


「That might be the nicest thing you’ve ever said to me.」

(それ、今までで一番優しい言葉かもしれない)


「調子乗らないで」


「Too late.」

(もう遅い)


二人の間に笑いが落ちる。

その笑い方は、前よりもずっと自然だった。


朝陽は歩きながら思う。

最初はただ、トランペットを吹く少し気になる男子だった。

今は、会話の間が自分に合う相手になりつつある。


まだ大きな言葉はない。

好きだとか、そういうはっきりした名前は、まだ少し早い。

けれど、会うのが楽しみで、声を聞くと少し気分が変わって、土曜日のことを考えるだけで口元がやわらぐ。そういう変化は確かにあった。


校門の前で別れる前、ノアが言った。


「Don’t disappear before Saturday.」

(土曜までに消えるなよ)


「That’s my line.」

(それ、私の台詞だけど)


「Then we’re both covered.」

(じゃあ、お互い大丈夫だな)


「Maybe.」

(たぶんね)


「I’ll take maybe.」

(“たぶん”で十分)


ノアはそう言って手を上げ、夕方の通りへ消えていった。


朝陽は少しだけその背中を見送ってから、家へ向かって歩き出した。胸の奥が、静かにあたたかい。十一月の冷たい空気の中で、その熱だけが少しだけ浮いているようだった。


⸻


その頃、梓は図書室で本を返却しようとしていた。


夕方の図書室は静かだ。ページをめくる音、椅子が少し引かれる音、遠くの廊下からかすかに聞こえる話し声。それだけでできている空間は、梓にとって居心地がよかった。


カウンターで貸出票を出そうとした時、背の高い男子が先に本を抱えて立っているのが目に入った。


マーカス・リード。

同じ学年で、サイエンスクラブでも顔を合わせることがある。派手なタイプではないが、授業中の発言は的確で、少し不器用なくらい真面目な男子だった。話す時に一度だけ考えてから言葉を選ぶ癖があって、そのせいか、梓は彼と話していて疲れることが少なかった。


マーカスは梓に気づくと、少しだけ本を抱え直した。


「Hey, Azusa.」

(やあ、梓)


「Hey.」

(こんにちは)


「You’re returning that already?」

(それ、もう返すの?)


「Yeah. I finished it last night.」

(うん。昨日の夜読み終わったから)


マーカスは少し驚いた顔をした。


「That was fast.」

(早いな)


「It was good.」

(面白かったから)


一瞬だけ沈黙があった。

けれど気まずい沈黙ではなかった。


マーカスは自分の本を返し終えると、少しだけカウンターの横で立ち止まった。


「Are you going to science club on Thursday?」

(木曜のサイエンスクラブ、来る?)


「たぶん」


梓がそう答えると、マーカスは小さく笑った。


「You always say ‘probably.’」

(君っていつも“たぶん”って言うよな)


「便利だから」

梓は言いそうになって、少しだけ口をつぐんだ。

それは朝陽もよく使う言葉だったからだ。


代わりに、少しだけ違う返しをした。


「I like leaving room for reality.」

(現実のための余白を残すのが好きなの)


マーカスはその言葉を面白がるように目を細めた。


「That sounds like something a scientist would say.」

(それ、科学者っぽい言い方だな)


「Maybe.」

(かもね)


「Then I hope reality lets you come.」

(じゃあ、現実が君を来させてくれるといいな)


その言い方があまりに自然だったので、梓は返事を少し遅らせた。


「…Maybe it will.」

(……そうかもね)


たったそれだけの会話。

でも、図書室を出てからも、そのやり取りが少しだけ胸に残った。


誰かに期待されること。

ただ友達としてなのかもしれない。

でも、自分が来るかどうかを気にしてくれる相手がいること。

その感じは、朝陽を羨ましく見ていた時の感覚とは少し違っていた。


もしかしたら、自分の方にも、まだ名前のつかない何かが芽を出しかけているのかもしれない。


そう思った瞬間、梓は少しだけ自分が可笑しくなった。

今朝まで、つばめが人間だったらなどと考えていたくせに。


⸻


家へ帰ると、つばめはやっぱり先に玄関へ来た。


「ただいま」


梓が膝を折ると、つばめは当然のように擦り寄ってくる。

青い目を細め、喉を鳴らし、まるで「今日も待ってた」と言っているみたいな顔だ。


「ねえ、つばめ」


梓はその背中を撫でながら小さく笑った。


「今日ね、ちょっとだけ変な感じだった」


つばめはもちろん答えない。

でも、黙って聞いてくれる相手というのは、それだけでありがたい時がある。


「たぶん、ほんのちょっとだけ、私にも何か始まるのかなって思った」


言った瞬間、自分で少し恥ずかしくなって、梓はつばめの首元に顔を埋めた。


その時、キッチンからさくらの声がした。


「梓、おかえり。今日は少し機嫌いい?」


梓は顔を上げて、少しだけ慌てる。


「何で?」


「朝陽の時と同じ顔してるから」


その一言で、梓は思わず「うそ」と笑ってしまった。


心の動きは、案外、顔に出るものなのかもしれない。


⸻


一平とさくらの間にも、この頃、小さな温度差が生まれ始めていた。


夕食の支度の前、リビングではラジオからまた海外ニュースが流れていた。

列車爆破。

中東の緊張。

誘拐された子どもたち。

武装勢力。

過激派。

大使館への警戒強化。


一平は仕事帰りのまま、ネクタイを緩めながらそのニュースを聞いていた。

ここ数週間、こうした話が増えている。点だったものが少しずつ集まり、まだ形にはならないまでも、何か嫌な流れを作り始めているように感じる。


さくらはその横で、夕食のための野菜を切っていた。


「またそのニュース?」


「うん」


「最近、本当に多いですね」


一平は少しだけ間を置いて言った。


「……遠い話として聞いとってええんかな、って思う時がある」


包丁の音が一度止まる。


「どういう意味?」


「いや、分からん。でも、何かこう……ばらばらに見えるもんが、どっかでつながっとる気がして」


さくらはまな板の上に視線を落としたまま答えた。


「でも、子どもたちまでその空気に巻き込みたくないわ」


一平はすぐには返さなかった。


「別に不安を煽りたいわけやない」


「分かってる」


「ただ、何も言わんままの方がええんかどうか」


さくらは包丁を置き、ゆっくりと一平を見た。


「私はね、毎日をちゃんと毎日として過ごさせてあげたいの」


その言葉は静かだったが、芯があった。


「朝陽には朝陽の約束がある。梓には梓の学校がある。北斗には北斗の夢がある。その一つひとつに、まだ遠い不安の影を落としすぎたくない」


一平はその言葉を受け止めた。


さくらの気持ちも分かる。

この家の中まで世界の不穏さで曇らせたくない。

笑える時に笑っていてほしい。

それは親として自然な感情だ。


けれど一平の中には、別の感覚もあった。


遠いものが、遠いままで終わらないのではないか。

そんな、うまく説明できないざらつき。


「……せやな」


やがて一平はそう言った。

完全に納得したわけではない。

でも、さくらの言葉もまた正しかった。


それが、温度差だった。


どちらが間違っているわけでもない。

ただ、不安に触れる距離が少し違う。


⸻


その夜の食卓は、それでも明るかった。


北斗が学校で作った変な俳句の話をし、朝陽はノアと会う土曜日のことを頭のどこかで考えながら、でもちゃんと家族の会話に笑っていて、梓は何でもない顔をしているくせに少しだけ機嫌がいい。つばめは相変わらず椅子の脚の間を気ままに歩いている。


何も壊れていない。

何も崩れていない。

ここにはちゃんと幸福がある。


だからこそ、視聴者にだけは見えてしまう。

この幸福の外側にある、不穏な世界との落差が。


十一月のニューヨークでは、店先のクリスマスソングが少しずつ音量を上げている。

その一方で、世界のどこかでは列車が爆破され、幼い子どもが連れ去られ、銃を持たされている。


朝陽は食後、窓の外を見た。

街の灯りがきれいだった。

その灯りの中に、自分のこれからの小さな楽しみも混ざっている気がした。


梓はつばめを抱きながら、今日の図書室での会話を思い出していた。

何でもない一言が、あとからじわじわ効いてくる感じ。

それは少しだけ、姉を見ていた時の羨ましさとは違っていた。


一平はニュースを消したあとも、しばらく黒くなったテレビ画面を見ていた。

さくらはその横顔を見ながら、何も言わなかった。

言わなくても分かることと、言わないままでは足りないことの境目を、夫婦もまた探している。


外では、見えない高さを飛行機がひとつ、夜空を横切っていった。


この街の幸福は、本物だ。

それは間違いない。


だがその本物さが、世界の不穏さと並んだ時、胸をしめつけるような痛みになる。


まだ誰も、その痛みの正体を知らない。

だから明日も学校へ行き、仕事へ行き、約束をして、食卓で笑う。


その“普通”が続くと信じて。



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