すれ違う時間
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第18話
すれ違う時間
土曜日のニューヨークは、平日よりも少しだけゆるやかに流れていた。
街は相変わらず人で満ちている。
けれどその足取りには、仕事へ急ぐ硬さではなく、それぞれが自分の時間を持っている柔らかさがあった。カフェの窓際には本を読む人がいて、公園のベンチには手袋をした子どもと母親が座り、通りの角ではホットドッグの屋台から湯気が上がっている。遠くでは、少し早いクリスマスソングがまた流れていた。
秋田家の朝も、今日は少しだけいつもと違った。
朝陽は何でもない顔を装っていたが、家族全員が、今日が“何でもない日ではない”ことを知っている。ノアと会う約束。公園の近くのカフェ。映画や舞台の話をするのか、それとも全然違うことを話すのか。朝陽自身にもまだ分からない。
「行ってきます」
朝陽がそう言うと、北斗がにやっとする。
「頑張ってね」
「何を」
「いろいろ」
「北斗」
朝陽が睨むと、北斗は笑って逃げた。
梓はそんな姉を見送りながら、昨日図書室で起きたことを思い出していた。
いや、正確には“起きそうな気配”を思い出していた。
マーカスは昨日、最後に少しだけ妙な間を置いた。いつもの静かな話し方のまま、でも何かを決めたような目をしていた。気のせいかもしれない。けれど、気のせいで片付けるには、少しだけ胸がざわつく。
結局そのざわつきを抱えたまま、梓も午後にはサイエンスクラブのため学校へ向かった。
放課後の学校は、平日よりずっと静かだった。
廊下に響く足音も少ない。
教室の扉の向こうから聞こえる話し声も、平日のざわめきに比べれば細い。
サイエンスクラブの部屋では、数人の生徒がすでに簡単な実験の準備をしていた。
マーカスは窓際の机で、資料を広げていた。梓が入ってくるとすぐに顔を上げる。
「Hey. You came.」
(来たんだね)
「I said probably.」
(たぶんって言ったでしょ)
「That was close enough.」
(それで十分だったよ)
マーカスはそう言って、小さく笑った。
その日のクラブ活動は、水質サンプルの簡易分析だった。数字を比べ、結果を表にし、なぜ差が出たかを話し合う。派手ではないが、梓にはこういう地味な実験が好きだった。ひとつずつ確認していく感じが落ち着く。
マーカスも、そういう作業が好きなタイプだった。
余計なことを言わず、必要なことをちゃんとやる。
でも、黙りすぎるわけでもない。
説明が必要な時はちゃんと口を開く。
二人は自然に同じ机で作業する流れになった。
「Can you pass me the strip?」
(その試験紙、取ってくれる?)
「Here.」
(はい)
「You always write really neatly.」
(君って、字すごくきれいだよね)
「That’s a weird thing to notice.」
(そこ見るの、ちょっと変じゃない?)
「I notice useful things.」
(役に立つことは見るから)
「My handwriting is useful?」
(私の字、役に立つの?)
「More than mine.」
(少なくとも僕のよりは)
梓は思わず笑った。
その笑いのタイミングが重なったのを見て、マーカスも少しだけ表情をやわらげた。
ほんの少し、距離が縮まる。
活動が終わって、他のメンバーが先に帰り始めた頃だった。
夕方の光が窓に薄く残り、部屋の中の空気も静かになっている。
マーカスが、片づけの手を止めた。
「Azusa.」
(梓)
「ん?」
いつもより少しだけ、声が低かった。
マーカスは一度だけ呼吸を整えてから言った。
「I’ve kind of been thinking about this for a while.」
(これ、しばらく前から考えてたんだけど)
梓は黙って彼を見た。
マーカスは鞄の中から、封筒をひとつ取り出した。
薄い紙の封筒。中に何か硬いものが入っている。
「I wasn’t sure what you’d like for Christmas.」
(クリスマスプレゼント、何がいいのか分からなくて)
梓が目を瞬く。
「Wait… what?」
(ちょっと待って……え?)
マーカスは顔を赤くしながらも、目はそらさなかった。
「So I got this instead.」
(だから、代わりにこれを持ってきた)
封筒を差し出す。
「It’s movie tickets. Would you maybe… go with me?」
(映画のチケットなんだ。もしよかったら……一緒に行かない?)
一瞬、音が消えたように感じた。
梓は封筒を見た。
そしてマーカスを見た。
自分に向けられている言葉の意味が、少し遅れて胸に落ちてくる。
「……私でいいの?」
それは、とても小さな声だった。
マーカスはすぐに答えた。
「You. Because it’s you.」
(梓がいいんだ。梓だから)
梓は息を止めるみたいにして、その続きを待った。
マーカスは少しだけ照れながら、それでもちゃんと続ける。
「You’re bright.」
(君は明るいし)
「You’re funny when you actually let yourself be.」
(自分を出した時、すごく面白いし)
「And even when everyone else is just talking, you always seem to know where the line actually is.」
(それに、みんなが適当に喋ってる時でも、君はちゃんと筋がどこにあるか分かってる感じがする)
梓は何も言えなかった。
「I guess I just… want to know you better.」
(だから、その……もっと君のこと知りたいなって)
教室の外では、誰かが遠くの扉を閉める音がした。
でもこの小さな部屋の中だけ、時間が少し遅くなったみたいだった。
梓は封筒を受け取るかどうか、一瞬だけ迷った。
嬉しい。
でも戸惑う。
こんなふうに、まっすぐ来るものだと思っていなかった。
「でも」
ようやく出た言葉は、それだった。
「なんか、すごい積極的じゃん?」
マーカスは少しだけ笑った。
肩をすくめる。
「I mean… this is America.」
(まあ……ここアメリカだし)
梓が思わず吹き出す。
「That’s your explanation?」
(それが説明なの?)
「Pretty much.」
(だいたいね)
それから、もう少しだけ真面目な顔になる。
「Here, people usually act first.」
(こっちでは、まずは行動してみることが多いから)
「Before overthinking it to death.」
(考えすぎて全部ダメにする前にね)
その言い方が可笑しくて、でも少しだけ羨ましくもあった。
梓は日本にいた頃から、何でも一度心の中で整理してからでないと動けない方だった。
けれどマーカスは、ちゃんと考えたうえで、それでも踏み出してきた。
そのまっすぐさに、少しだけ胸が熱くなる。
梓は封筒を受け取り、両手で持った。
「……すぐには、上手く返事できない」
正直な気持ちだった。
マーカスは静かに頷く。
「That’s okay.」
(それでいいよ)
「But if you say yes, I’d really like that.」
(でも、もし“うん”って言ってくれたら、本当に嬉しい)
梓は少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「……考える」
「I can work with that.」
(それなら十分だ)
また、ほんの少しだけ笑いが落ちる。
その柔らかさに、梓は少し救われた。
帰り道、封筒をコートのポケットに入れたまま歩きながら、梓は何度もその感触を確かめた。
紙の薄さ。
その中のチケット。
そして、一緒に行かない?という言葉。
世界が少しだけ変わった気がした。
家へ帰ると、朝陽はもう戻っていた。
頬が少し赤く、コートを脱ぎながらも、どこか機嫌がいい。ノアとの時間はうまくいったらしい。詳しく聞きたい気持ちもあったが、それどころではなかった。梓の方も、胸の中がいっぱいだった。
夕食のあと、食器が片づいて、北斗がつばめと遊び始めた頃。
梓は意を決して、朝陽の袖を引いた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「……一緒にお風呂入ろ」
朝陽が少し驚く。
「急だね」
「いいから」
朝陽はその顔を見て、何かあったのだとすぐに分かった。
「うん、いいよ」
浴室に湯気が満ちる。
湯船のお湯は、冬の入口に入ったみたいな夜にはちょうどいい温度だった。
二人で並んで湯に浸かるなんて、もう何年ぶりだろう。
子どもの頃は当たり前だったのに、今は少しだけ照れくさい。
それでも今日の梓には、その照れくささより“話したい”が勝っていた。
朝陽が先に言う。
「で、何があったの」
梓は湯面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……今日ね」
それから、図書室じゃなくてサイエンスクラブのあとだったこと。
マーカスが封筒を出したこと。
クリスマスプレゼント、何がいいか分からなかったからって、映画のチケットを渡してきたこと。
そして、「梓だからいい」と言ったこと。
全部を話し終えるころには、湯気の中で自分の声まで少し熱くなっていた。
朝陽は最後まで黙って聞いて、それから目を丸くした。
「え、何それ。すごいちゃんとしてる」
「そうなんだよ……」
梓は両手で顔を覆いたくなるのをこらえる。
「なんか、すごい積極的じゃん?って言っちゃったし」
朝陽が吹き出した。
「それ言ったの?」
「言った」
「梓、それはだいぶ素直」
「仕方ないじゃん。ほんとにそう思ったんだもん」
朝陽は笑いながら肩を寄せた。
「で、何て返されたの?」
「“ここアメリカだし”って」
一瞬、浴室が静まり、それから二人同時に吹き出した。
「それ、ずるい」
「でしょ」
「でも分かる」
「分かるの?」
「うん。ノアも、たまにそういう“まず動く”感じあるし」
梓は少しだけ真面目な顔になる。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「こういう時って、どうしたらいいのかな」
朝陽は少し考えた。
自分も、別に何でも分かっているわけではない。ノアのことだって、まだ手探りだ。
それでも、姉として言えることはあった。
「すぐに答え出さなくていいと思う」
梓は黙って聞いている。
「でも、“嬉しかった”なら、それはちゃんと大事にした方がいい」
その言葉に、梓はゆっくり頷いた。
嬉しかった。
それは否定できない。
戸惑ったし、照れたし、どうしていいか分からなかった。
でも、嬉しかった。
「……私、少しだけ羨ましかったんだと思う」
梓がぽつりと言う。
「何が?」
「お姉ちゃんのこと」
朝陽は目を瞬いた。
「私?」
「うん。ノアと話してる時のお姉ちゃん、最近ちょっと違うから。いいなあって思ってた」
その言葉に、今度は朝陽の方が少し照れた。
「そんなの、自分じゃ分かんないよ」
「でも、見てたら分かる」
湯気の中で、二人は少しだけ黙る。
その沈黙は、悪いものではなかった。
「……で?」
朝陽がにやっとする。
「マーカスのこと、どう思うの」
梓はすぐには答えられなかった。
でも、ポケットの中の封筒の感触を思い出す。
自分を見てくれていた言葉を思い出す。
“もっと知りたい”と言われた時の、胸の奥の小さな震えを思い出す。
「……悪くない」
朝陽が笑う。
「それ、かなりいい方だよね」
「うるさい」
二人はまた笑った。
浴室の外では、北斗がつばめ相手に何か実況中継みたいなことをしている声が聞こえる。
リビングでは一平とさくらが、低い声で何か話している。
家の中には、いつもの夜の音が流れている。
それはあまりにも穏やかで、あまりにも普通だった。
だからこそ、その普通の外にある世界の不穏さとの落差が、見る者には痛いほど伝わってしまう。
秋田家の中では、恋の話が始まっている。
約束があり、戸惑いがあり、少しの嫉妬があり、少しの勇気がある。
その一方で、世界の別の場所では、爆発の音や銃声が夜を裂いている。
列車は狙われ、子どもは奪われ、信仰はねじ曲げられ、誰かの未来が無理やり閉ざされていく。
あまりにも対照的な二つの世界。
それが、同じ時間の上に並んでいる。
それでも今夜、秋田家の浴室には姉妹の笑い声があった。
梓は自分の中の小さな変化を、ようやく誰かに話せた。
朝陽は姉としてそれを聞きながら、自分もまた少し前へ進んでいることを感じていた。
普通の幸せは、こうして静かに育っていく。
だから人は、それが崩れる未来なんて思わない。




