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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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16/59

崩れない日常

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』

 第16話

 崩れない日常


 十一月に入ると、ニューヨークの空気はひとつ薄い膜をかぶったように変わる。


 朝の風は少しだけ鋭くなり、コートの襟を立てる人が増える。けれど街そのものは、寒さに縮こまるより先に、次の季節の華やかさをまとい始めていた。デパートのショーウィンドウには赤と金の飾りが並び、通りの角の店からは早くもクリスマスソングが流れてくる。まだ本番には遠いはずなのに、街は少しせっかちに祝祭へ向かっていた。


 マンハッタンの夕方、灯りのともった通りを歩いていると、それだけで何かいいことが起きそうな気がする。

 この街は、そういうふうに人の気持ちを持ち上げるのがうまかった。


 秋田家の朝は、そんな外の華やかさとは少し違う温度で始まる。


 味噌汁の湯気。

 トーストの香ばしい匂い。

 さくらがフライパンを返す音。

 一平が新聞をたたむ音。

 梓がノートの端を揃える癖。

 北斗が相変わらず片方の靴下を探している声。

 そして朝陽が、何でもない顔をしながら、土曜日の約束のことを心のどこかで考えている気配。


「朝陽、今日ちょっと機嫌いいね」


 梓が牛乳を飲みながら言う。


「普通だけど」


「最近その“普通”の精度が低いよね」


「何その言い方」


 北斗がパンをかじりながら割り込む。


「お姉ちゃん、絶対ノアのこと考えてた」


「北斗」


 朝陽が睨むが、北斗はまったくひるまない。


「だって顔に書いてあるもん」


 一平が新聞の向こうで笑いをこらえる。


「顔に書いてあるのはまずいな」


「お父さんまでやめて」


 さくらが皿を置きながら言う。


「いいじゃない。楽しみな予定があるのは、いいことよ」


 その一言で、朝陽はそれ以上反論する気をなくした。

 否定しきれないのも悔しい。けれど、本当に少し楽しみなのだから仕方がない。


 土曜日。

 ノアと会う。

 公園の近くのカフェ。

 ホットチョコレート。

 どんな話をするのだろう。

 ブロードウェイのあとで少し変わった空気を、今度はもっと普通の時間の中で確かめるみたいな気持ちがあった。


 大げさな恋ではない。

 まだそこまで言い切れるものではない。

 それでも、朝陽の中で何かは確かに動き始めていた。


 梓はそんな姉の横顔を見ながら、少しだけ口を尖らせた。


 別に、朝陽だけが先に進んでいるわけじゃない。

 そう思いたいのに、こういう朝の空気の中では、やっぱり少しだけ羨ましい。


 私にも、あんなふうに予定を考えるだけで少し気分が変わる相手ができるのだろうか。

 学校で目が合うだけで、帰り道に思い出すような誰かが。


 まだ十三歳だ。そんなに急ぐことでもない。

 でも、年齢と気持ちはいつも同じ速度で進むわけじゃない。


 その時、足元に柔らかいものが擦り寄ってきた。


 つばめだった。


 シャム猫らしい細身の身体。

 青い目。

 気まぐれな顔。

 なのに、自分がこういうことを考えている時に限って、なぜか絶妙なタイミングで甘えてくる。


「……何」


 梓がしゃがんで撫でると、つばめは当然のように喉を鳴らした。まるで「じゃあ僕がいるじゃないか」とでも言いたそうな顔をしている。


「つばめが人間の男の子だったらなあ」


 梓が小さくこぼす。


 北斗がすかさず反応する。


「え、つばめと付き合うの?」


「そういう意味じゃない」


「でも今かなりそれっぽかったよ」


「違うってば」


 朝陽が笑いを堪えきれずに言う。


「つばめ、確かにタイミングだけは完璧だもんね」


 梓は少し頬を赤くしたまま、つばめの背中を撫で続けた。

 つばめは何も言わない。

 何も分かっていない顔で、ただ甘える。

 その無責任なやさしさが、今の梓にはありがたかった。


 一平はいつものように世界貿易センタービルへ向かっていた。


 十一月の朝のマンハッタン。

 コート姿の人々。

 コーヒーカップを片手に急ぐ会社員。

 デリの前に並ぶ客。

 街角のラジオから流れる、少し早すぎるクリスマスソング。


 世界貿易センターの二つの塔は、そんな街の音を全部受け止めるみたいに高く立っている。


 ロビーへ入る。

 磨かれた床。

 吹き抜けの高さ。

 エレベーターを待つ人の列。

 毎朝変わらない流れ。


 警備員のラモスが、いつものように一平へ軽く顎を上げた。


 “Morning, Mr. Akita.”

(おはようございます、秋田さん)


 “Morning.”

(おはようございます)


 隣ではデイビッドが資料を読みながら立っている。


 “You know it’s too early for Christmas music, right?”

(クリスマスソングにはまだ早すぎるって分かってるよな)


 一平が言うと、デイビッドは顔も上げずに答えた。


 “This city is incapable of waiting.”

(この街は待つってことができないんだよ)


 “That sounds true.”

(それはたしかにそうやな)


 エレベーターに乗り、上昇する。

 耳が少し詰まり、身体が一瞬軽くなる。

 扉が開けば、見慣れたフロア。

 見慣れた机。

 見慣れた窓の向こうに、見慣れたマンハッタンの朝。


 一平は毎朝、席に着く前に一度だけ窓の外を見る。

 ハドソン川。

 整然と並ぶビル群。

 遠くに見える橋。

 少し白っぽい十一月の光。


 もう特別ではない。

 特別ではないからこそ、大事な景色になっている。


 エミリーがコーヒーを持って通りかかった。


 “You’re doing the window thing again.”

(また窓の外見るやつやってるのね)


 “Maybe I need to remind myself this is real.”

(これが現実やって確認しとかんとあかんのかも)


 “That’s either poetic or unhealthy.”

(それ、詩的か不健康かどっちかね)


 “Can’t it be both?”

(両方じゃあかんか)


 エミリーは笑って、そのまま会議室の方へ歩いていった。


 日常は、こんなふうに小さな会話でできている。

 仕事の数字も、交渉も、スケジュールももちろん重要だ。だがそれだけでは一日は形にならない。誰かの冗談、窓の外を見る数秒、毎朝同じ場所に立つこと。そういうものが積み重なって、“いつもの朝”になる。


 一平は今日も、日本産の魚介類や農産品の出荷予定を確認しながら、年末商戦に向けた流通先との調整に入った。


 北海道から来る冷凍ホタテ。

 九州の農産品。

 青森のりんご。

 誰かが育て、誰かが収穫し、誰かが運び、自分の手元を通って、やがてアメリカの食卓へ届く。


 食べ物の旅の途中に、自分がいる。

 前に朝陽が言ったその表現を、一平は最近気に入っていた。


 学校では、朝陽とノアの約束が少しずつ現実味を帯びていく。


 休み時間。

 ロッカーの前。

 階段の踊り場。

 中庭へ続く廊下。


 二人は、わざとらしくない範囲で自然に会話を重ねるようになっていた。


「Saturday. Three o’clock. Don’t disappear.」

(土曜、3時ね。消えないでよ)


「I said I wouldn’t.」

(消えないって言っただろ)


「You say a lot of things.」

(あんた、口では何とでも言うし)


「And yet, you still agreed to meet me.」

(それでも会う約束したのは君だけどな)


 朝陽は少しだけ視線をそらす。


「That doesn’t prove anything.」

(それで何か証明されるわけじゃないし)


 ノアは笑った。


「Sure.」

(はいはい)


 そのやり取りをしているだけなのに、朝陽の胸の奥は静かにあたたかくなる。

 学校の喧騒の中に、少しだけ自分だけの時間ができたみたいだった。


 昼休み、ソフィアがその様子を見てわざとらしく眉を上げた。


 “You two are getting very ‘casual’ in a suspicious way.”

(あんたたち、その“不自然なほど自然”な感じ、だいぶ怪しいんだけど)


 朝陽は即座に返す。


 “We are literally talking.”

(ただ喋ってるだけだけど)


 メーガンが笑う。


 “That’s how it starts.”

(だいたい、そうやって始まるのよ)


「何が始まるのよ」


 朝陽が言い返しても、友達たちのにやにやは止まらなかった。


 それでも、以前の朝陽ならこういう話題自体を嫌がっていたかもしれない。

 今は少し照れるだけで、全部を跳ね返したいわけではない。

 その変化を、朝陽自身が一番不思議に思っていた。


 一方、梓の日常も穏やかに進んでいた。


 授業。

 図書室。

 友達との会話。

 先生の質問。

 宿題。

 そして家へ帰れば、つばめがいる。


 その日の放課後も、梓が玄関を開けると、つばめは待っていたみたいにすぐ足元へ来た。細い身体を擦り寄せ、上目遣いで見上げてくる。


「……あんた、ほんとタイミングいいよね」


 梓が抱き上げると、つばめは当然のような顔で腕の中に収まった。


「つばめが人間だったら、絶対ちょっと生意気な男の子だと思う」


 誰に向かって言うでもない独り言。

 でも、口にすると少しだけ気持ちが軽くなる。


 つばめはその意味なんてもちろん分からない。

 ただ、梓の腕の中で気持ちよさそうに喉を鳴らしている。


「でも、そういう子の方が案外優しかったりするのかな」


 自分で言って、自分で少し恥ずかしくなる。

 その時、北斗が帰ってきて玄関先で止まった。


「梓お姉ちゃん、またつばめに恋愛相談してる」


「してない」


「してる顔だった」


「顔で判断しないで」


 北斗は笑いながらランドセルを下ろした。


「でもつばめ、確かにモテそう」


「猫として?」


「いや、人間だったら」


 梓はつい吹き出してしまう。

 結局、つばめが人間だったらという話で二人して妙に盛り上がってしまい、その様子を見たさくらがキッチンから「何の会話してるの」と笑った。


 何でもない午後だった。

 何でもないからこそ、こういう時間は心に残る。


 その一方で、世界の別の場所では、まるで違う時間が流れていた。


 列車の爆発。

 駅に響く破裂音。

 吹き飛ぶ窓。

 叫び声。

 血の匂い。

 土煙。


 別の地域では、幼い子どもが連れ去られていた。

 泣く間もなく、名前を奪われ、命令に従うことだけを教え込まれる。

 銃を持たされ、引き金の重さを覚えさせられ、自動小銃の射撃訓練に立たされる。

 まだ遊びの延長でしかないはずの年齢の子どもが、恐怖と飢えの中で「従うこと」と「撃つこと」を同時に叩き込まれていく。


 祈りの言葉は、そこで何度も口にされた。

 だがそれは祈りではなく、従属の合図に変えられていた。


 世界のどこかでは、十一月の街にクリスマスソングが流れている。

 別のどこかでは、列車が吹き飛ばされ、子どもが銃を持たされている。


 同じ地球の上で、その両方が同時に進んでいる。


 ニュースはそれを短い時間に切り分けて伝える。

 ひとつの爆発。

 ひとつの誘拐。

 ひとつの分析。

 だが、ばらばらに見えるそれらの底には、同じ種類の歪みが流れていた。


 人の怒り。

 人の恐怖。

 人の絶望。

 それを利用し、自分たちの目的のためにねじ曲げる者たち。


 その暗い流れは、まだニューヨークの家庭の窓からは見えない。

 だが、確かに世界を通っていた。


 夜。

 秋田家の食卓には、今日も笑い声があった。


 北斗は学校でやったコントの新作を披露し、朝陽は時々ぼんやりしながらもちゃんと笑っていて、梓はつばめの“人間だったら設定”を北斗にからかわれて少しむっとする。一平は仕事帰りの疲れを感じながらも、その光景を見ていると肩の力が抜けていくのを感じた。さくらは料理を取り分けながら、誰の話も自然に拾って、食卓の真ん中に戻していく。


 何も崩れていない。

 少なくとも、この部屋の中では。


 食後、ラジオをつけると、また海外ニュースが流れた。

 列車爆破。

 紛争地帯。

 行方不明の子どもたち。

 武装勢力。

 注意喚起。


 さくらが静かに手を止める。


「同じ世界の話とは思えないですね」


 一平は答えなかった。

 窓の外を見ていた。


 ニューヨークの夜景はきれいだった。

 イルミネーションが増え始めた通り。

 デパートの赤い飾り。

 遠くに見える光の帯。

 どこかの店から微かに漏れるクリスマスソング。


 そのきらめきの向こう側に、列車の爆発や、子どもの泣き声や、銃の訓練の音が重なっているとは、うまく想像できない。

 想像できないのに、同じ世界で起きている。


「……崩れへんもんやと思ってまうな」


 一平がぽつりと言う。


「何が?」


 さくらが聞く。


 一平は少し考えてから答えた。


「日常ってやつが」


 さくらは何も言わなかった。

 ただ、その言葉を静かに受け止めた。


 朝陽はその時、ノアと会う土曜日のことを考えていた。

 梓は、もし本当に自分にも好きな人ができたら、どんな顔をするのだろうと少しだけ想像していた。

 北斗は飛行機の図鑑を閉じたあとも、空の道を思い描いていた。

 つばめは何も知らずに丸くなっていた。


 日常は、こうして続いていくように見える。

 続く前提で、人は笑い、約束をし、明日の予定を考える。


 だからこそ、それが崩れるなんて誰も思わない。


 十一月の夜、ニューヨークの街には早すぎるクリスマスの音楽が流れていた。

 その一方で、世界のどこかでは、爆発の音と泣き声が続いていた。


 まったく対照的な世界が、同じ時間の上に並んでいる。


 そして、その距離はまだ、十分に遠いと思われていた。

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