第九話「それぞれの休日」
一
久しぶりの休暇だった。
安倍葛乃は渋谷の雑踏を歩きながら、なんとなく解放感を覚えていた。怪遺局に配属されてから、まともな休みは数えるほどしかなかった。
ショーウィンドウを覗きながら歩いていると、後ろから声をかけられた。
「葛乃?」
振り返ると、見知った顔があった。
「雅博」
源田雅博だった。仕事帰りらしく、スーツ姿だった。
「久しぶり。こっちで働いてるんだっけ」
「うん、まあ近くで」
「ちょうど昼休憩なんだ。よかったらランチでもどう?」
葛乃は少し迷ってから頷いた。
二
近くのカフェに入り、向かい合って座った。雅博はサンドイッチを頼み、葛乃はパスタを頼んだ。
「最近どう? 就職決まったって聞いたけど」
「うん、まあなんとか」
「どんな仕事してるの」
「えっと……事務系、かな」
葛乃は曖昧に答えた。怪遺局の仕事を説明できるはずもない。雅博はそれ以上深く聞かなかった。
「そう言えば、お母さんは元気?」
「うん、元気。たまに連絡来るよ」
葛乃はサラダをつつきながら、何気ない会話を続けた。学生時代の話、共通の友人の近況、最近見た映画。特別なことは何もない、ただの雑談だった。
でも葛乃は、それがどこか心地よかった。
雅博がふと、葛乃を見た。
「なんか、葛乃」
「何?」
「前より、明るくなった気がする」
葛乃は少し驚いた。
「そうかな」
「うん。前はもっと、なんていうか、固いというか。今はなんか自然な感じがする」
葛乃は自分の頬に触れた。自覚はなかった。でも言われてみれば、確かに何かが変わった気がした。
「仕事が楽しいのかな」
「かもね」
葛乃は笑った。雅博も笑った。
昔から、こうやって笑い合える関係だった。
三
ランチを終えて店を出ると、雅博が腕時計を見た。
「そろそろ戻らないと」
「うん、引き止めてごめん」
「全然。また連絡するよ」
葛乃は頷いた。その時、ふと視線が横に逸れた。
通りの向こう、人混みの隙間に、何か淡い気配があった。残滓だ。微かなものだったが、葛乃には感じ取れた。
葛乃の表情が、一瞬だけ変わった。視線が一点に固定され、呼吸が止まったように静かになる。
「葛乃?」
雅博の声で、葛乃は我に返った。
「あ、ごめん、なんでもない」
「……今、なんか様子変わったよ」
「気のせいだよ」
葛乃は笑ってごまかした。雅博はしばらく葛乃を見ていた。納得していないような目だった。
「そう、かな」
「うん。じゃあまたね、雅博」
「……うん、またね」
雅博は雑踏に紛れて去っていった。
葛乃はその背中をしばらく見ていた。
雅博が感じた違和感が何だったのか、葛乃にはわからなかった。でも、なんとなく胸の奥がざわついた。
それを振り払うように、葛乃は駅に向かって歩き出した。
四
只野人志の休日は、朝から騒がしかった。
駅前を歩いていたら、いきなり男がぶつかってきた。只野は体勢を崩し、その場に踏みとどまった。男はそのまま走り去っていく。直後、後ろから「泥棒!」という声が聞こえた。
気づいたら、ぶつかった時に男のひったくったカバンの紐が只野の腕に引っかかっていた。男は紐を引っ張ったが外れず、諦めてカバンごと置いて逃げていった。
被害者の女性が駆け寄ってきた。
「ありがとうございます! カバンを取り返してくれたんですね!」
「え、あ、いえ、これは別に」
「本当にありがとうございます!」
女性は深々と頭を下げた。只野は曖昧に笑って、その場を後にした。
昼過ぎ、商店街を歩いていると、足元の段差につまずいた。
体勢を崩して前によろめき、前にいた老婦人に向かって倒れ込みそうになった。咄嗟に手をついて何とか踏みとどまったその瞬間、老婦人の頭上から看板が落ちてきた。
只野がよろめいた方向に老婦人が一歩退いていたおかげで、看板は老婦人の真横に落ちた。
「あらあら、大丈夫ですか?」
「い、いえ、こちらこそすみません」
老婦人は「助かりましたよ」と笑いながら去っていった。只野は落ちた看板を見て、しばらく動けなかった。
夕方、公園のベンチで休んでいると、子どもが泣いているのが見えた。迷子らしく、周囲を見回しても親らしき人物がいない。只野が声をかけると、子どもは泣きながら親の名前を繰り返した。
なだめながら話を聞いたが、泣き止む様子がない。只野は仕方なく子どもの手を引いて、近くの交番に連れて行った。
交番の扉を開けた瞬間、中にいた女性が叫んだ。
「○○ちゃん!」
子どもが泣きながら母親に飛びついた。母親も子どもも泣いている。親も子どもを探しに交番に来ていたらしかった。
「この方が連れてきてくださったんですか」
「は、はい、まあ」
「本当にありがとうございます!」
母親は何度も頭を下げた。只野は曖昧に笑って交番を後にした。
公園に戻ってベンチに座り、空を見上げた。
「……なんなんだ、今日は」
誰に言うでもなく呟いた。
五
夜、只野は自宅に帰った。
ワンルームのアパートは、必要最低限のものしか置かれていなかった。テレビ、小さなテーブル、布団。生活感がほとんどない部屋だった。
ただ一つ、テーブルの上に写真立てがあった。
中には、家族写真が収まっていた。幼い只野と、両親。母親は優しそうに笑っていた。
只野は鞄を置き、コンビニで買ってきたカップ麺を用意した。お湯を注ぎ、テーブルに座る。写真立てを少しだけ眺めた。
「今日も騒がしかったよ」
誰に言うでもなく、写真に向かって呟いた。母親は笑ったまま、何も答えなかった。
カップ麺を食べ終え、只野はスマートフォンを手に取った。
画面をスクロールし、一つの連絡先を選んだ。短いメッセージを打ち込んだ。
返信はすぐに来た。
只野はスマートフォンを置いた。
部屋の中は静かだった。昼間の騒がしさが嘘のようだった。只野は写真立てをもう一度見た。
口元が、ゆっくりと歪んだ。
笑っているようで、笑っていないような、そんな表情だった。
「もうすぐだからね」
誰に言うでもなく呟いて、只野は部屋の明かりを消した。
第九話 了
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康公




