第十話「流れゆく命、還る場所」
一
案件の報告が上がってきたのは、平日の午前中だった。
都内を流れる古い川沿いで、夜になると妙な現象が起きているという通報が警察経由で届いた。水面が光る、川から声が聞こえる、近づいた人間が体調を崩す。いずれも原因不明とされていた。
三峰静華が書類を燈夜のデスクに置いた。
「川沿いの案件です」
宇治神燈夜は書類に目を通した。
「規模は」
「小さいですが、体調不良の報告が増えています。早めに対処した方がいいかと」
燈夜は立ち上がった。
「葛乃、只野、来い」
二
現場は都内の古い川沿いだった。
両岸はコンクリートで固められ、川幅も狭い。かつては自然の川だったのだろうが、今は整備されて無機質な水路に近い。水は濁っていて、川魚の姿もない。
安倍葛乃は川を覗き込んだ。昼間だというのに、水面がどこか暗く見えた。
「なんかここ、変な感じがします」
「わかるか」
「なんとなく……悲しい感じ、がします」
燈夜は川沿いを歩きながら、気配を探った。只野人志は少し後ろでキョロキョロしていた。
「何がいるんですか、ここに」
「まだわからん」
しばらく歩いたところで、燈夜が足を止めた。
「ここだ」
古い橋の下だった。コンクリートの橋脚に、薄い気配が漂っていた。形はない。ただ、水面にわずかな揺らぎがある。
「残滓か」
燈夜は木札を取り出した。指を走らせ、気配を読む。
「……河童だ」
「河童!?」
只野が目を丸くした。葛乃は水面を見た。確かに、悲しいような気配がそこにある。
「河童がなぜ残滓に」
「この川は三十年前まで自然の川だった。護岸工事で今の姿になった。長年ここに住んでいた河童が、住処を失って消えた。その残滓がまだここに留まっている」
葛乃は川を見た。コンクリートで固められた無機質な水路。かつてここに清流があり、河童が住んでいたという事実が、今は想像もできない。
「消えたくなかったんですね」
葛乃は呟いた。
燈夜は答えなかった。木札を構えた。
「待ってください」
葛乃が声を上げた。
三
「待ってください、宇治神さん」
燈夜が振り返った。
「消すんですか」
「残滓の処理が仕事だ」
「でも、この河童は悪いことをしているわけじゃないですよね。ただここにいたくて、留まっているだけで」
「だから体調不良が出ている。放置はできない」
「消すんじゃなくて、移せませんか」
燈夜は少し間を置いた。
「移す」
「田舎の川に。まだ自然の川が残っているところに。ここにいられないなら、いられる場所に移してあげることはできないですか」
只野が口を開いた。
「でも安倍さん、残滓ってそういうものじゃないんじゃないですか。消すしかないんでしょう?」
声のトーンは穏やかだった。でも葛乃には、その言葉の奥に何か別のものが滲んでいる気がした。
「宇治神さん、どうですか」
燈夜はしばらく葛乃を見ていた。それから、スマートフォンを取り出した。
「芦屋先生に聞いてみる」
四
電話はすぐに繋がった。燈夜が状況を説明すると、芦屋の声が返ってきた。
「移す、ですか。面白い発想ですね! ただ……残念ながら今の木札に移送の概念はないんです。残滓を別の場所に移すという術式は、私も考えたことがなくて。現状の木札では消滅か鎮魂しかできません」
「そうか」
「申し訳ありません。もし時間があれば研究してみますが、今すぐは難しいですね」
燈夜は電話を切った。葛乃を見た。
「聞いての通りだ。移す手段がない」
葛乃は川を見た。水面の揺らぎが、まだそこにある。悲しい気配が、まだそこにある。
「……そうですか」
葛乃は俯いた。
燈夜は木札を構え直した。
葛乃は咄嗟に燈夜の腕を掴んだ。
「待ってください」
「葛乃」
「本当に方法はないんですか。他に何か」
「ない」
燈夜の声は静かだった。感情がなかった。それがかえって葛乃には辛かった。
「でも……消してしまったら」
「消えることと、消すことは違う。残滓のままここに留まり続ければ、いずれ自然に消滅する。それより早く、楽に終わらせてやる方がいい場合もある」
「それって……この河童が望んでいることなんですか」
燈夜は答えなかった。
「望んでいないかもしれない。ただここにいたいだけかもしれない。なのに消すって、そんなの」
「仕方ないんだ」
燈夜の声に、僅かに何かが滲んだ。葛乃はその声を聞いた。
「仕方ない……でも、仕方ないって、あんまりです……住む場所を奪われて、消えるしかないなんて」
声が、震えた。
葛乃は自分でも気づかないうちに、目の奥が熱くなっていた。この仕事を始めてから、消えていく妖怪をいくつも見てきた。それでもまだ、慣れていなかった。慣れたくなかった。
燈夜は葛乃を見た。今にも泣きそうな顔だった。腕を掴む手が、震えていた。
燈夜は少し間を置いた。
「……そうだな」
静かな一言だった。否定でも肯定でもない。ただ、受け止めるような言葉だった。
それでも木札を下ろさなかった。
葛乃は唇を噛んだ。腕を掴んだまま、川を見た。水面の揺らぎが、まだそこにある。
その時だった。
五
葛乃の口から、言葉が漏れた。
意図したものではなかった。気づいたら、何かを呟いていた。言葉というより、音に近かった。でも確かに、意味を持った何かだった。
燈夜の手が止まった。
木札が、光り始めた。
いつもとは違う光だった。柔らかく、水のように揺れる光。木札の文字が変化するように揺らめいた。
「葛乃」
燈夜が静かに言った。
「そのまま続けろ」
葛乃は自分でも何を言っているかわからなかった。でも口は動き続けた。川に向かって、水面の揺らぎに向かって、ただ想いを言葉にするように。
木札の光が川面に伸びた。
水面の揺らぎが、光の中に引き寄せられていく。悲しい気配が、少しずつ木札の中に収まっていく。
そして。
燈夜が木札を空に向かって放った。
光が弧を描いて、空へと消えた。
橋の下の気配が、消えた。
ただし、霧散したのではない。どこか遠くへ、向かっていったような感覚だった。
葛乃は呆然と立っていた。
只野は川を見ていた。その目が、一瞬だけ細くなった。
「……また、消さなかったんですね」
穏やかな声だった。笑顔だった。
でも葛乃には、その言葉の奥に何かが滲んでいる気がした。
六
事務所に戻って報告すると、芦屋が飛び上がった。
「移送できたんですか!? 葛乃くんの詠唱が木札に作用して!?」
「そうなった」
「これは前代未聞です! 木札に移送の概念がないのに、葛乃くんの力が術式を書き換えた!? いや書き換えたというより、新しい術式を生み出した!?」
芦屋は興奮のあまり、デスクの上の道具を引っくり返した。
「論文が書けます! いや書かないといけません! 葛乃くん、詠唱の内容を教えてもらえますか!」
「えっと……覚えていないんですが」
「覚えていない!? それはもったいない! でも再現できるかもしれない! 次の機会に!」
「先生」
三峰が静かに口を挟んだ。
「道具を片付けてください」
「あ、すみません! でも三峰さん、これは本当に画期的で」
「片付けてから話してください」
「……はい」
芦屋は渋々道具を片付け始めた。葛乃は苦笑しながらその様子を見ていた。
ふと、只野を見た。
只野はいつもの営業スマイルで書類を整理していた。芦屋の興奮を横目に、何も言わなかった。
ただ、その手が一瞬だけ止まっていた。
笑顔のまま、止まっていた。
燈夜はデスクの椅子に座り、コーヒーを一口飲んだ。葛乃を見た。
「今日のことは、芦屋先生に詳しく話してやれ」
「わかりました」
葛乃は頷いた。
あの河童の残滓は、今頃どこかの自然の川に辿り着いているだろうか。
コンクリートではなく、土の川底に。魚が泳ぐ清流に。
還れた。心の奥でそう感じていた。
第十話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます!
面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。
次話もお楽しみに!
康公




