第八話「平穏という名の災難」
一
「宇治神さん!」
三峰静華の声が、事務所に響いた。いつもより低い。
宇治神燈夜はコーヒーを飲む手を止めた。
「報告書、何枚溜まっていると思いますか」
「……数えてないが」
「七枚です。先週の北関東の案件以前のものも含まれています」
燈夜は視線を逸らした。三峰はデスクの上に書類の束を積み上げた。音を立てて。
「葛乃さんと只野さんは休暇です。今日は静かに仕事ができる日のはずでした」
「そうだな」
「なぜ報告書を書かないんですか」
「忙しかった」
「忙しいのは私もです」
三峰の目が、燈夜を捉えて離さなかった。燈夜は小さく息を吐いた。
「……書く」
「今すぐ、ですね」
「今すぐだ」
燈夜は渋々デスクに向き直り、ペンを取った。三峰は満足げに頷き、自分のデスクに戻った。
事務所に静寂が戻った。燈夜はペンを動かし始めた。最初の数行は順調だった。
二
「宇治神くん!」
扉が勢いよく開いた。芦屋道雄が、満面の笑みで飛び込んできた。
「聞いてください! 新しい発明ができました!」
燈夜はペンを止めた。三峰が顔を上げた。
「先生、今は」
「いやこれは見てもらわないと! 画期的なんです!」
芦屋はデスクに何かを置いた。木札のような形をしているが、いつもより小さく、複雑な紋様が刻まれている。
「これはですね、残滓を検知する範囲を大幅に拡大した試作品です! 今までは半径十メートル程度しか感知できませんでしたが、これなら半径百メートル! 革命的でしょう!」
「報告書を書いている最中だ」
「だからこそ試してほしいんです! ちょっとそこに翳すだけでいいので!」
三峰が口を挟んだ。
「芦屋先生、安全性は確認済みですか」
「もちろんです! 理論上は!」
「理論上、というのが気になりますが」
「大丈夫です大丈夫です! ほら宇治神くん、ちょっとだけ!」
燈夜はペンを置いた。報告書から逃げられる口実ができたことに、内心安堵していた。
「一回だけだぞ」
「もちろんです!」
燈夜は試作品を手に取った。芦屋の指示通り、指を走らせる。
「で、唱える言葉は」
「あ、まだ言葉を決めてませんでした」
「は?」
「適当でいいので何か唱えてください」
「適当って」
三峰が眉をひそめた。
「先生、それは流石に」
「大丈夫です理論上は!」
燈夜は少し迷ってから、短く何かを唱えた。
その瞬間。
試作品が、激しく発光した。
三
「うわっ」
燈夜は咄嗟に試作品を放り出した。光が事務所中に広がった。棚のファイルが吹き飛び、デスクの上の書類が舞い上がった。
「先生! これ何が起きてるんですか!」
「想定外です!」
「想定外て!」
光はさらに強くなった。事務所の壁に妙な紋様が浮かび上がる。三峰が立ち上がった。
「二人とも下がってください!」
三峰は冷静に窓を開け放った。光が窓の外に逃げていく。しばらくして、ようやく光が収まった。
事務所は、惨憺たる有様になっていた。
ファイルが床に散乱し、書類が部屋中に舞い、燈夜の机の上にあったコーヒーカップが倒れて中身が広がっていた。
静寂が落ちた。
三峰がゆっくりと、二人を見た。
「説明してもらえますか」
「いや、これは」と芦屋が言いかけた。
「理論上は安全だったんですよね」
「……そのはずでした」
「宇治神さん」
燈夜は黙っていた。三峰の視線が痛かった。
「報告書を書く時間が、また減りましたね」
「……すみません」
「片付けは二人でやってください。報告書はその後です」
三峰はそれだけ言って、自分のデスクに戻った。床に落ちていた書類を一枚拾い上げ、燈夜のデスクに静かに置いた。
「これも書いてください」
燈夜は床に散らばった書類の山を見た。芦屋は気まずそうに頭をかいていた。
「すみません、宇治神くん」
「先生のせいだろう」
「いやでも唱えた言葉が悪かったのかも」
「何でもいいから片付けるぞ」
燈夜はため息をついて、書類を拾い始めた。芦屋もしゃがみ込んで手伝い始めた。
「ちなみに何を唱えたんですか」
「忘れた」
「気になります」
「片付けが先だ」
四
夕方になって、ようやく事務所が元通りになった。
燈夜はデスクに座り、報告書を書き始めた。今度は邪魔が入らなかった。芦屋は試作品を回収し、何やらぶつぶつ言いながら修正点をメモしている。
「次は安全装置をつけます」
「最初からつけておけ」
「そうですね……」
三峰は書類を整理しながら、二人を見ていた。何も言わなかったが、その沈黙には呆れが滲んでいた。
「先生」
「はい?」
「次に試作品を持ってくる時は、必ず私に先に確認を取ってください」
「わかりました……」
燈夜は黙々とペンを動かしていた。三峰の視線が、ちらりと燈夜に向いた。
「宇治神さんも」
「わかってる」
燈夜は報告書を書き終え、三峰のデスクに提出した。三峰はそれを受け取り、目を通した。
「七枚のうち、一枚終わりましたね」
「……明日も書く」
「今日中に終わらせてください」
「無理だ」
「無理じゃありません」
燈夜は小さくため息をついて、また書類に向き直った。芦屋は隅のデスクで試作品の修正をしながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。
事務所の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。
いつもと変わらない、静かな夕方だった。
第八話 了
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次話もお楽しみに!
康公




