第七話「鎮魂、そして影」
一
事務所に戻ると、芦屋道雄がすでにいた。
三峰から連絡が入っていたらしく、デスクの上に道具を広げて作業中だった。燈夜たちが入ってくると顔を上げた。
「聞きましたよ! 勾陳様ですって!? いやあ、これは大変だ! 大変だけど面白い!」
「先生」
「わかってますわかってます! 被害者がいるんでしょう! でもねえ、勾陳様が荒魂化するなんて前代未聞ですよ! 一体誰がそんなことを!」
「それも含めて調査中です」
燈夜はデスクに書類を置き、芦屋の前に立った。
「鎮魂できますか」
芦屋は真剣な顔になった。普段のテンションが嘘のように、目が鋭くなった。
「できます。ただし通常の木札では無理です。勾陳様は陰陽道の十二神将の一柱。それ相応の術式が必要になる」
「どのくらいかかりますか」
「今夜中には仕上げます」
「頼みます」
芦屋は頷き、作業に戻った。葛乃は芦屋の手元を見た。いつもより細かく、複雑な文字が木札に刻まれていく。
只野は隅のデスクに座り、お茶を飲んでいた。手の震えはもう止まっていた。
葛乃は自分の手を見た。
まだ何ともない。
二
翌朝、芦屋が木札を完成させた。
通常の木札より一回り大きく、刻まれた文字が複雑に絡み合っている。芦屋はそれを燈夜に渡しながら言った。
「これは消滅させる木札ではありません」
「鎮魂用ですね」
「そうです。勾陳様は本来この土地の守護神です。消してしまっては集落の守りがなくなる。荒魂を鎮め、和魂に戻す。それがこの木札の役割です」
葛乃は芦屋を見た。
「消すんじゃなくて、戻すんですか」
「そうです」芦屋は葛乃を見た。「片付け屋の仕事は、ただ消すことじゃない。本来あるべき姿に戻すことも仕事のうちです」
葛乃は燈夜を見た。燈夜は木札を受け取りながら、何も言わなかった。
「ただし」と芦屋は続けた。「この木札を使うには条件があります。勾陳様に正面から向き合い、荒魂の中にある和魂の気配を見つけなければならない。力で押さえるのではなく、鎮める意志が必要です」
「わかりました」
「それともう一つ」芦屋は少し間を置いた。「昨日、葛乃くんが荒魂に触れても無事だったと聞きました」
葛乃は頷いた。
「勾陳様が戸惑ったように見えた、と宇治神くんから聞いています。それは……おそらく、葛乃くんの存在が勾陳様に何かを感じさせたからだと思います」
「私が、何かを」
「詳しくは今はまだ言えません」芦屋は眼鏡を押し上げた。「ただ、今日の現場では葛乃くんの存在が鍵になるかもしれない」
燈夜が芦屋を見た。芦屋は燈夜の視線を受け止め、小さく頷いた。
二人の間に、何かが通じたような気がした。葛乃にはわからなかった。
三
集落に戻ると、やすらぎの家はまだいた。
昨日の男が出迎えた。穏やかな笑顔は変わらない。
「お戻りになりましたか。状況はさらに悪化していまして……住民の方々の体調不良が広がっています」
「わかりました」
燈夜は短く答えて、神社に向かった。葛乃と只野がついていく。
鳥居の前で、燈夜は振り返った。
「只野、ここで待機しろ」
「え、また外ですか」
「住民の様子を見ていてくれ。何かあればすぐ連絡を」
「……わかりました」
只野は鳥居の前に立った。葛乃は只野を一瞥した。只野は営業スマイルで手を振った。
鳥居をくぐる。
昨日より空気が重かった。肌を刺すような圧力が、境内全体に満ちている。本殿の扉はまだ吹き飛んだままで、中から荒魂の気配が溢れ出していた。
「葛乃」
燈夜が静かに言った。
「昨日と同じように、俺の前に出るな」
「でも昨日は」
「だからこそだ」
葛乃は黙った。
燈夜は本殿に向き直り、芦屋から渡された木札を構えた。
四
木札に指を走らせた瞬間、境内の空気が変わった。
昨日とは違う光が広がった。柔らかく、深い光だった。荒魂の気配が揺れた。反発するように、力が膨れ上がる。
燈夜は短く唱えた。
荒魂が動いた。昨日より速く、昨日より強く。燈夜に向かって圧倒的な力が迫った。燈夜は木札を盾のように構え、光で押さえようとした。
しかし力が強すぎた。
燈夜が膝をついた。
「宇治神さん!」
葛乃が叫んだ。燈夜は片膝をついたまま、木札を手放さなかった。唱え続ける。光が揺れる。荒魂が押し返す。
均衡が崩れかけた瞬間。
葛乃は動いた。
燈夜の隣に立った。手を前に伸ばした。
「葛乃、来るな」
「でも」
「来るなと言った」
葛乃は止まらなかった。
伸ばした手が、荒魂の気配に触れた。
昨日と同じだった。荒魂が、止まった。
しかし今日は違った。
止まった荒魂の気配の中に、葛乃は感じた。怒りの奥に、悲しみがある。悲しみの奥に、何か別のものがある。
長い時間、この土地を守ってきた記憶。
人々の祈りを受け取ってきた記憶。
それを、無理やり消されかけた怒りと痛み。
「……勾陳様」
葛乃は呟いた。
わかった、という気がした。言葉ではなく、感覚として。
この存在は悪ではない。ただ、傷ついている。
荒魂の気配が揺れた。
燈夜が立ち上がり、木札を構え直した。光が強くなった。今度は押さえるのではなく、包み込むような光だった。
葛乃の手を通じて、何かが伝わったような気がした。
荒魂が、静かになっていった。
圧力が薄れる。怒りが溶けていく。ゆっくりと、確実に。
本殿の中から、柔らかい光が溢れた。荒魂とは違う、穏やかな光だった。
和魂が、戻ってきた。
境内の空気が、一気に軽くなった。
五
本殿の前に立った時、気配は穏やかになっていた。
怒りも痛みもない。ただ静かな、古い存在の気配だけが残っていた。
燈夜は木札をポケットに戻した。
「終わったか」
「……はい」
葛乃は手を下ろした。まだ少し震えていた。
「勾陳様は」
「和魂に戻った。集落の守護神として、また存在し続ける」
燈夜は本殿を見た。
「消えなかった。それでいい」
葛乃はその言葉を聞いた。消えなかった、それでいい。燈夜がそう思っているということが、葛乃には少し意外だった。割り切ったように仕事をするこの人が、消えなかったことを良しとしている。
葛乃は本殿に向かって、小さく頭を下げた。
六
境内を出ると、只野が鳥居の前で待っていた。
「終わりましたか!? 外からすごい光が見えて!」
「終わった」
「よかった!」
只野は心底安堵したような顔をした。葛乃は少し息を整えながら、集落を見回した。
やすらぎの家の人間が、住民に話しかけている。昨日の男もいた。こちらに気づいて、穏やかな笑顔で近づいてきた。
「お疲れ様でした。状況は落ち着きましたか」
「ええ」
燈夜は短く答えた。男を見ていた。最初から、ずっと見ていた。
男は住民の一人に声をかけ、少し離れた場所に移動した。燈夜はその動きを目で追った。
男が、スマートフォンを取り出した。
誰かに連絡している。口元が動いている。表情が、穏やかな笑顔ではなくなっていた。
燈夜が歩き始めた。
男が気づいた。目が合った瞬間、男の顔から表情が消えた。
男が走った。
燈夜が追った。葛乃も走った。路地に入り、塀を抜け、田畑の脇を走った。燈夜が距離を詰めた瞬間、男が角を曲がった。
角の先には、車が待っていた。
男が乗り込む。ドアが閉まる。車が走り出す。
燈夜は立ち止まった。ナンバープレートを見た。目に焼き付けた。
葛乃が隣に並んだ。息が上がっていた。
「逃げられました」
「ナンバーは控えた」
燈夜は振り返った。只野が遠くから走ってくるのが見えた。
「何があったんですか!?」
「やすらぎの家の幹部が逃げた」
「え!? あの人が!?」
只野は驚いた顔をした。
葛乃はその顔を見た。
驚いていた。確かに驚いていた。
ただ、目が笑っていないように思えた。
ほんの一瞬だけ。それだけだった。
七
その夜、事務所に戻ってから、三峰に報告した。
「やすらぎの家の幹部が今回の件に関与していることが確認されました。背後に組織がある可能性が高い」
三峰はしばらく黙っていた。
「やすらぎの家の裏に、組織が」
「はい。ただ全容はまだわかりません」
三峰は書類に視線を落とした。その目が、僅かに曇った。
「……わかりました。調査を進めます」
燈夜が三峰に向き直った。
「勾陳様は和魂に戻りました。集落の守護神として存在し続けます」
「消えなかったんですね」
「はい」
三峰は少し間を置いた。
「……それでよかった」
静かな一言だった。
葛乃は報告を聞きながら、只野を横目で見た。只野はいつもの営業スマイルで書類を整理していた。鼻歌を歌いながら、何事もなかったように。
葛乃は窓の外を見た。夜が広がっていた。
北関東の集落では今頃、勾陳様が静かにその土地を守っているだろう。
消えなかった。それでいい。
ふと、窓ガラスに室内が映り込んでいることに気づいた。
その中に、只野の顔があった。
勾陳様が和魂に戻ったという報告を聞いた時から、ずっとその表情は変わっていなかった。笑顔のまま、書類を捲っている。
ただ、目が笑っていないように思えた。
葛乃は自分の手を見た。まだ、わからないことだらけだ。
でも今日は、それでいいと思った。
第七話 了
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康公




