第六話「荒ぶる神と片付け屋」
一
その案件が怪遺局に届いたのは、朝一番のことだった。
三峰静華が警察からの極秘連絡を受け取り、燈夜のデスクに書類を置いたのは九時前だった。
「北関東の集落からの案件です。警察が対処できないと判断して回ってきました」
宇治神燈夜は書類に目を通した。眉が僅かに動いた。
「集落全体が影響を受けているのか」
「そのようです。三日前から住民が次々と体調不良を訴えています。原因不明の発熱、幻覚、意識障害。病院では異常が見つからない」
「妖怪絡みだな」
「おそらく。ただ規模が通常の案件とは違います」
三峰は少し間を置いた。
「それと、やすらぎの家がすでに現場に入っているという情報があります」
燈夜の手が止まった。
「やすらぎの家が」
「被害者支援として入ったようです。ただ状況は改善していない」
燈夜は書類を置き、立ち上がった。
「葛乃、只野、来い」
安倍葛乃は書類から顔を上げた。只野人志はコーヒーを飲んでいた手を止めた。
「え、僕もですか」
「人手がいる」
「わかりました!」
只野は立ち上がり、鞄を掴んだ。葛乃は燈夜の横顔を見た。いつもより少し硬い表情だった。
「宇治神さん」
三峰が静かに言った。
「気をつけてください」
燈夜は答えなかった。上着を掴んで、廊下を歩き始めた。
二
北関東の集落は、都心から電車と車を乗り継いで二時間ほどの場所にあった。
山に囲まれた小さな集落だった。田畑が広がり、古い民家が点在している。過疎化が進んでいるらしく、人の姿が少ない。しかし集落の中心には小さな神社があり、手入れが行き届いていた。
車を降りた瞬間、葛乃は感じた。
空気が重い。
昨日今日のものではない。何か大きなものが、この集落全体を覆っているような感覚だった。
「宇治神さん、なんかここ……」
「わかってる」
燈夜は短く答えた。葛乃を一瞥してから、先を歩き始めた。
「只野、葛乃から離れるな」
「はい! って、なんで安倍さんの傍にいるんですか?」
「言われた通りにしろ」
只野は葛乃の隣に並んだ。葛乃は周囲を見回した。集落の端々に、住民らしき人々が不安そうにこちらを見ている。
神社の前に、数人の男女が集まっていた。揃いのジャケットを着ている。胸元に小さなバッジがついていた。
「あれが、やすらぎの家ですか」
葛乃が燈夜に聞くと、燈夜は頷いた。
男女の一人が気づいてこちらに近づいてきた。四十代と思しき男だった。穏やかな笑顔を作っていたが、目が笑っていなかった。
「怪遺局の方ですか。お待ちしていました。やすらぎの家の者です。三日前からこちらの皆さんのご支援に入っているんですが、なかなか状況が改善せず……」
「状況を教えてください」
燈夜は事務的に言った。男は少し表情を固めてから、続けた。
「集落の中心にある神社の御神体が、三日前から異常な状態になっています。住民の方々は代々ここの神様を大切に祀ってきたんですが、突然……その、荒ぶるというか」
「神社を見せてください」
三
神社の鳥居をくぐった瞬間、葛乃は足が止まった。
境内の空気が、外とは全く違った。重いというより、圧迫されるような感覚だった。肌が痛い。目に見えない何かが、境内全体を満たしている。
「葛乃」
燈夜が振り返った。
「無理なら外にいろ」
「大丈夫です」
葛乃は一歩踏み出した。足が震えていたが、止まらなかった。
本殿の前に立った時、それが見えた。
いや、見えたというより、感じた。
本殿の中から、何かが溢れ出している。形はない。ただ、圧倒的な存在感がある。怒りと悲しみが混ざり合ったような、複雑な気配だった。
「これが……」
「勾陳様だ」
燈夜は静かに言った。
「陰陽道の十二神将の一柱。元々はこの土地の地主神として古くから祀られてきた存在だ。穏やかで、この集落を長い間守ってきた」
「それがなぜこんな状態に」
「誰かが刺激した」
燈夜の目が、鋭くなった。
「和魂を無理やり消そうとした。その結果、荒魂が暴走した」
葛乃はやすらぎの家の男を見た。男は神社の鳥居の外から、こちらを見ていた。
穏やかな笑顔のまま。
四
燈夜は木札を取り出した。
「下がっていろ」
葛乃と只野が後退する。燈夜は本殿に向き直り、木札に指を走らせた。短く唱える。
しかし。
木札の光が、かき消された。
本殿から溢れる気配が、光を飲み込んだ。燈夜が一歩後退した。葛乃には、それがどれほど異常なことかわかった。燈夜が後退するところを、一度も見たことがなかったから。
「宇治神さん」
「問題ない」
燈夜はもう一度木札を構えた。今度は力を込めて唱える。木札が強く光った。
次の瞬間、本殿の扉が吹き飛んだ。
衝撃波が境内を走った。葛乃は吹き飛ばされそうになり、とっさに柱を掴んだ。只野が葛乃の腕を掴んで支えた。
本殿の中から、それが出てきた。
形があるようで、ない。光のようで、闇のようで。ただ圧倒的な力だけがある。勾陳様の荒魂が、境内に顕現した。
「でかい……」
只野が呟いた。その声は震えていた。
燈夜は木札を構えたまま、動かなかった。
木札が、また光を失った。
汎用の木札では、歯が立たない。燈夜にはわかっていた。これは規模が違う。土地神の荒魂だ。通常の残滓とは次元が異なる。
「撤退する」
「え」
「今の装備では無理だ。一度戻る」
葛乃は燈夜を見た。その横顔に、悔しさが滲んでいた。ほんの僅か、それだけ。
荒魂が動いた。
燈夜に向かって、圧倒的な力が迫った。燈夜が木札で防ごうとした瞬間、葛乃は気づいた。
間に合わない。
葛乃は気づいたら、走っていた。
燈夜の前に立った瞬間、荒魂の力が葛乃の手に触れた瞬間、止まった。
止まった、というより、戸惑ったような気がした。
境内が、一瞬だけ静かになった。
荒魂の気配が揺れた。怒りではない何かが、そこに混じった。
燈夜が葛乃の腕を掴んだ。
「走れ」
五
境内を出た三人は、車まで走った。
荒魂は追ってこなかった。境内の外には出られないらしい。
車に乗り込んでから、しばらく誰も喋らなかった。只野が震える手でシートベルトを締めた。葛乃は自分の手を見た。荒魂に触れた手は、何ともなかった。
「安倍さん、大丈夫ですか」
只野が聞いた。声が掠れていた。
「大丈夫です」
「いや大丈夫じゃないですよあれ! 普通当たったら吹き飛ぶやつでしたよね!?」
葛乃は答えられなかった。
燈夜は運転席でハンドルを握ったまま、前を向いていた。
「宇治神さん」
「……芦屋先生に連絡する。専用の木札が必要だ」
「それより」
葛乃は燈夜を見た。
「やすらぎの家の人、あの人変じゃないですか」
燈夜は少し間を置いた。
「なぜそう思う」
「目が笑ってなかった。それに、私たちが境内に入った時、止めなかった。むしろ……見ていた気がして」
燈夜はエンジンをかけた。
「よく見てた」
それだけ言って、車を出した。
後部座席で、只野は窓の外を見ていた。その目は、葛乃には見えなかった。
第六話 了
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康公




