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第五話「あの日の影」

 その日の案件は、都内の古い住宅街だった。

 宇治神燈夜うじがみとうやは電車を降り、地図を確認することなく歩き始めた。この辺りは以前にも来たことがある。正確には、十数年前に一度だけ。

 住宅街は当時とさほど変わっていなかった。古い一軒家が並び、細い路地が入り組んでいる。街灯の数が少し増えた気がするくらいで、空気は変わっていない。

 燈夜は歩きながら煙草に火をつけた。

 今日の案件は軽い部類だ。古い公園の隅に残滓ざんしが居着いていて、近隣住民が夜中に妙な声を聞くという報告が上がっていた。処理自体は難しくない。

 ただ、場所が問題だった。

 この公園は、あの夜の現場から歩いて五分もかからない場所にある。

 葛乃くずのを連れてこなかったのはそのためだ。まだ早い。今の葛乃に見せていいものかどうか、燈夜にはまだ判断がつかなかった。


 公園は小さかった。

 錆びたブランコが二台、古びた滑り台が一つ。砂場は柵で囲われて久しく使われていない様子だった。平日の昼間ということもあって、人の姿はない。

 燈夜は公園の隅、古い桜の木の根元に向かった。

 近づくと感じた。淡い、消えかけた気配。昨日今日の残滓ではない。かなり長い間ここに留まっていたものだ。

 木札きふだを取り出し、指を走らせる。短く唱えると、根元の空気が僅かに揺れた。

 何の妖怪だったのかはわからなかった。名前もわからないほど希薄になっている。ただ、この公園が好きだったのだろうということは感じた。子どもたちの声が聞こえていた頃から、ずっとここにいたのかもしれない。

 木札が光った。

 気配が、静かに解けていった。

 燈夜は桜の木を一度だけ見た。それから煙草を取り出し、火をつけた。

 公園を出る前に、燈夜は一度だけ振り返った。錆びたブランコ、砂場の柵。

 昔、ここで子どもたちが遊んでいた。

 その中に、あの子もいたのだろうか。


 公園から十分ほど歩いたところに、古い喫茶店があった。

 燈夜は事前に調べていた住所と照らし合わせ、店に入った。カウンターに座り、コーヒーを注文する。しばらくして、ドアが開いた。

 入ってきたのは、二十代半ばの男だった。

 背は高くも低くもない。短く切った髪、真面目そうな顔立ち。燈夜を見つけると少し緊張した様子で近づいてきた。

「……宇治神さん、ですか」

「そうだ。源田雅博げんだまさひろくんだな」

 男は向かいの席に座った。コーヒーを注文してから、燈夜をじっと見た。

「葛乃のことで話があると聞きましたが」

「ああ」

「葛乃は今、どこにいるんですか。連絡はたまに来るんですが、最近何か様子が変わったような気がして」

「仕事をしている」

「仕事」

 雅博は少し意外そうな顔をした。

「葛乃、就職できたんですか。就活うまくいってないって言ってたのに」

「まあそういうことだ」

 燈夜はコーヒーを一口飲んだ。雅博はまだ燈夜を見ていた。警戒しているわけではない。ただ、測りかねているような目だった。

「それで、話というのは」

「葛乃の昔のことを聞きたい」

「昔、というのはどのくらい前ですか」

「小学校に上がる前あたりだ」

 雅博の目が、僅かに揺れた。


「……あの頃のことですか」

 雅博はコーヒーが来てから、ゆっくりと話し始めた。

「葛乃とは物心ついた頃からの付き合いで、家も近かったんで毎日一緒に遊んでました。明るくて、活発な子で。怖いものなんてない、みたいな感じで」

「それが変わった」

「はい」雅博は少し間を置いた。「六歳くらいの時だったと思います。ある日を境に、葛乃が変わった。急に大人しくなって、一人でいることが多くなって。何があったか聞いても、覚えてないって言うんです」

「覚えていない」

「最初は嘘をついてるのかと思いました。でも本当に覚えていないみたいで。それがずっと気になってて」

 燈夜は何も言わなかった。雅博は続けた。

「あの頃、葛乃の家の近くで何かあったらしいって話は聞いたことがあります。でも大人たちがあまり話したがらなくて、詳しいことはわからないままで」

「葛乃の家族とは今も連絡を取っているか」

「葛乃のお母さんとは年に一回くらいLINEをする程度です。葛乃のお父さんは……あの頃に亡くなっています」

 燈夜の手が、僅かに止まった。

「父親が亡くなったのはいつだ」

「葛乃が六歳の時です。あの頃と同じ時期に」

 燈夜は窓の外を見た。住宅街の風景が、夕暮れの光の中に沈んでいく。

「葛乃は父親のことを覚えていますか」

「それも、覚えていないって言ってました」雅博は少し俯いた。「お父さんの話をすると葛乃がつらそうな顔をするから、最近は話さないようにしてます」

 燈夜はしばらく黙っていた。

 葛乃の父親。その死が、あの夜の事件と同じ時期に重なっている。

 偶然ではない。燈夜にはわかっていた。わかっていたが、今まで確認を避けていた。

「最後に一つだけ聞く」

「はい」

「葛乃は今、幸せそうか」

 雅博は少し驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと答えた。

「……最近の連絡では、なんか生き生きしてる感じがします。今思えば就職できたからかと思いますけど」

 燈夜は小さく頷いた。

「そうか」

 それだけ言って、コーヒーを飲み干した。


 喫茶店を出ると、すっかり夕暮れになっていた。

 燈夜は煙草に火をつけながら歩いた。駅とは逆方向に、少しだけ。

 足が自然と向かったのは、あの夜の現場だった。

 今は誰も住んでいない一軒家だ。古びた外壁、錆びた門扉、庭に伸び放題の雑草。表札だけが残っていて、それ以外に人の気配はない。十六年前と変わらないような、どこにでもある住宅街の一角。

 燈夜はその場所に立ち、煙草を深く吸った。

 あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

 泣いている小さな子どもと、その傍らで動かなくなった男の姿。残滓に飲み込まれかけていた子どもを引き剥がした時の感触。記憶を封じる前に一度だけ合った目。

 あの目が、今も頭から離れない。

 葛乃の父親は、残滓に飲み込まれた。燈夜が間に合わなかった。葛乃を助けることはできたが、父親は間に合わなかった。

 それが、燈夜がこの仕事を続けている理由の一つだった。

 煙草の火が短くなった。燈夜は吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。

 葛乃は覚えていない。父親のことも、あの夜のことも。燈夜が封じたのだから当然だ。

 でも、いつかは話さなければならない。

 それがいつなのか、燈夜にはまだわからなかった。

 駅に向かって歩き始めた時、スマートフォンが振動した。画面を見ると、葛乃からのメッセージだった。

 報告書のフォーマットってどこにありますか

 燈夜は少し間を置いてから、返信した。

 棚の二段目

 それだけ打って、スマートフォンをポケットに戻した。

 事務所に戻れば、葛乃がいる。

 今日もきっと、何かを聞こうとするだろう。

 燈夜は煙草に火をつけながら、駅へと歩いた。


第五話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

次話もお楽しみに!


 康公こうこう

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