第四話「片付け屋の素顔」
一
「書類整理しといてくれ」
宇治神燈夜はそれだけ言って、上着を掴んで事務所を出て行った。今日の案件は単独で向かうようだ。理由は説明しなかった。
安倍葛乃は取り残された事務所で、デスクの上に積まれた書類の山を眺めた。
高い。
「……これ全部ですか」
「そうです」
三峰静華が書類から目を上げずに答えた。
「どこに整理するんですか」
「棚のラベルを見ればわかります」
「わかりました」
葛乃は書類の山に向き直った。棚を見ると確かにラベルが貼ってある。年度別、案件種別、地域別と細かく分類されていた。几帳面な整理方法だった。三峰がやっているのだろうと思った。
葛乃は書類を手に取り、作業を始めた。
しばらくは黙々とやっていた。ただ手を動かしながら、自然と頭の中でいろんなことを考えていた。
三週間前の夜のことを。
路地の角で見た、人の形をした何か。足元に絡みついた黒い靄。そして背後から聞こえた、低い声。
邪魔だ。どいてろ。
あの声の主が今、どこかの現場で一人で仕事をしている。
葛乃は書類を棚に差し込みながら、宇治神燈夜という人物について考えた。三週間一緒に働いてみて、わかったことは多くない。仕事は速い。説明は最低限。感情を表に出さない。報告書を出すのが遅い。煙草を吸う。コーヒーはブラックで飲む。それくらいだ。
なぜあの夜、記憶を消さなかったのか。
なぜ自分を部下にしたのか。
なぜあの時、手が止まったのか。
葛乃は次の書類を手に取った。
二
「只野さん」
葛乃は書類を整理しながら、隣のデスクで資料を眺めている只野人志に声をかけた。
「なんですか?」
「宇治神さんって、ここに長いんですか」
只野は少し考えるような顔をした。
「長いと思いますよ。僕が来た時にはもういましたし。三峰さんとも長い付き合いみたいで」
「どんな人なんですか、宇治神さんって」
「どんな人」と只野は繰り返した。「うーん、なんか、孤独な人って感じですかね」
「孤独?」
「仕事は完璧にこなすし、実力もあるし、でも誰とも深く関わらないじゃないですか。なんていうか、最初から一人でいることに慣れてる人みたいな」
葛乃は少し意外だった。只野がそういうことを言うとは思っていなかった。
「只野さんって、意外と人を見てるんですね」
「そうですか? 僕ただ思ったことを言っただけですけど」
只野はにこっと笑った。
「でも安倍さんが来てから、なんか少し変わった気がしますよ、宇治神さん」
「変わった?」
「なんとなくですけど。うまく言えないんですけどね」
只野は首を傾けてから、また資料に目を落とした。それ以上は言わなかった。
葛乃は次の書類を手に取りながら、只野の言葉を頭の中で転がした。
三
昼過ぎに芦屋道雄が現れた。
いつものように白衣を着て、いつものように何かを呟きながら入ってきた。デスクに道具を広げ始めたところで、葛乃は声をかけた。
「芦屋先生」
「ん? ああ、安倍くん。書類整理ですか、大変ですねえ」
「少し聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「宇治神さんのことなんですが」
芦屋の目が輝いた。葛乃は少し後悔したが、もう遅かった。
「宇治神くんですか! いやあ、あの人は面白い。本当に面白い存在ですよ」
「面白い、というのは」
「適性の話ですがね」芦屋は木札を手に取りながら言った。「木札を使える人間というのは、妖怪の存在を感知できる適性を持っている。でも適性にも段階がありましてね。宇治神くんの適性は私が今まで見た中でも最高レベルです」
「そんなに」
「ええ。普通は残滓を感知するのがやっとですが、宇治神くんは残滓の性質や強さ、どの妖怪のものかまでほぼ正確に把握できる。長年の経験もありますが、それだけじゃない。元々の素質が違う」
「なぜそんな適性があるんですか」
芦屋は少し間を置いた。
「それはですね……」
芦屋が口を開きかけた瞬間、三峰が静かに言った。
「芦屋先生、今日の木札の納品書をいただけますか」
「ああ、そうでしたそうでした」
芦屋は話を切り上げ、書類を探し始めた。葛乃は三峰を見た。三峰は書類に目を落としたままだった。
今のは、意図的だったのだろうか。
葛乃にはわからなかった。
四
午後になって、葛乃は三峰に声をかけた。
「三峰さん」
「なんですか」
「宇治神さんについて聞いてもいいですか」
三峰は手を止めた。葛乃を見た。
「何を知りたいんですか」
「この仕事をなぜ続けているのか、とか。あの人がどういう人なのか、とか」
三峰はしばらく葛乃を見ていた。それから静かに言った。
「宇治神さんは、この仕事に誰よりも向いている人です」
「それは」
「それだけです」
葛乃は少し粘ってみた。
「他には」
「他は、本人に聞いてください」
「本人に聞いても答えてくれなそうで」
「そうですね」
三峰は少し間を置いた。
「でも、いつかは答えてくれると思いますよ」
それだけ言って、三峰は書類に戻った。
葛乃はその横顔を見た。三峰が燈夜について何かを知っている、という確信が葛乃の中にあった。でも何を知っているのかは、まだわからなかった。
五
夕方、書類整理をほぼ終えた頃、葛乃は棚の奥に古いファイルを見つけた。
他のファイルより古く、ラベルが色褪せていた。日付を見ると十数年前のものだった。葛乃は何気なく手を伸ばした。
「それは触らなくていいです」
三峰の声だった。静かだったが、有無を言わさない響きがあった。
「……すみません」
葛乃はファイルを戻した。
触らなくていい、ではなく、触ってはいけない、ということだ。葛乃はそう感じた。
十数年前。
葛乃が幼い頃に何かを見た、あの時期と重なる。
偶然かもしれない。でも、偶然ではない気もした。
六
燈夜が事務所に戻ってきたのは、夜になってからだった。
「お帰りなさい」
葛乃は立ち上がった。今日一日考えていたことが、頭の中で渦巻いていた。聞きたいことが、いくつもあった。
燈夜は上着をハンガーに掛け、コーヒーメーカーに向かった。
「書類整理終わったか」
「ほぼ終わりました」
「ご苦労」
燈夜はコーヒーを一口飲んだ。葛乃は少し深呼吸した。
「あの、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「宇治神さんって、なんでこの仕事を」
「腹減ったな」
「え」
「飯食ってないんだ。何かあるか」
燈夜はデスクの引き出しを開けて、中を漁り始めた。葛乃は少し呆気に取られた。
「…………カップ麺なら棚にありますけど」
「どこだ」
「あの、私の質問は」
「食いながら聞く」
燈夜はカップ麺を見つけて、電気ケトルのスイッチを入れた。葛乃は燈夜の背中を見た。
お湯が沸く音がした。
燈夜はカップ麺にお湯を注ぎ、椅子を引いて座った。蓋を押さえながら、葛乃を見た。
「で、なんだ」
「……いえ、なんでもないです」
葛乃は自分でも驚くほど、あっさりそう言った。
燈夜は少し葛乃を見てから、カップ麺に視線を落とした。
「そうか」
それだけだった。
事務所に、カップ麺の香りが漂った。葛乃はもう一度だけ燈夜を見て、自分の片付け残した書類に向き直った。
聞けなかった。
でも不思議と、悔しいとは思わなかった。
まだ時間はある、と思った。なぜかそんな気がした。
第四話 了
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康公




