第三話「垢嘗の残り香」
一
「案件持ってきました!」
只野人志が書類を片手に事務所に飛び込んできたのは、午前十時を少し回った頃だった。
宇治神燈夜はデスクで報告書を書く手を止めずに言った。
「ノックしろ」
「すみません! でも急ぎの案件で!」
「急ぎじゃない案件はない」
安倍葛乃は自分のデスクで只野を見た。配属されてから二週間ほど経つが、只野のこのテンションにはまだ慣れない。慣れる日が来るのかどうかも、正直わからなかった。
「どんな案件ですか」
葛乃が聞くと、只野は書類をテーブルに広げた。
「都内の住宅街なんですけど、16歳の女の子が風呂場から出られなくなってるらしくて。もう三日になるそうです」
「三日」
燈夜が初めて手を止めた。
「食事も水も取れてないんですか」
「親御さんの話だと、ドア越しに差し入れようとしても受け取らないみたいで。泣き続けてるらしいです」
「病院は」
「救急を呼んだら本人が暴れて手がつけられなかったと。精神科への入院も検討してるみたいですが、どうにも様子がおかしいと思って相談してきたそうです」
燈夜は書類を手に取り、さらっと目を通した。それから葛乃を見た。
「行くぞ」
「わかりました」
葛乃は立ち上がりながら、只野に聞いた。
「只野さんはどこでこの話を」
「え? ああ、まあ色々とルートがありまして」
只野はいつもの営業スマイルで答えた。それ以上は言わなかった。葛乃は少し気になったが、深く聞かなかった。
三峰静華が書類から目を上げずに言った。
「報告書、忘れずに」
「必ず」
「只野さんも昨日の分が出ていませんよ」
「今日中に出します!」
「昨日も同じことを言っていましたね」
只野が肩を縮める横を、燈夜と葛乃は足早に通り過ぎた。
二
現場は閑静な住宅街の一角にある、築二十年ほどの一軒家だった。
出迎えたのは四十代と思しき女性だった。目の下に濃い隈があり、憔悴しきった顔をしていた。燈夜たちを見た瞬間、縋りつくような目になった。
「来てくださった……お願いします、娘を、娘を助けてください」
「詳しく聞かせてください」
燈夜の声は事務的だったが、女性はそれでも構わず話し始めた。
娘の名前は杏奈、高校一年生。三日前の夜、入浴中に突然泣き声が聞こえ、以来風呂場から出てこない。ドアは内側から鍵がかかっていて開けられない。声をかけると返事はするが、会話が成立しない。ただ泣き続け、風呂の縁に縋りついているらしかった。
「娘の声なんですけど、なんか違うんです。娘の声なのに……なんか、違う」
女性の声が震えた。葛乃は胸が痛くなった。
燈夜は黙って話を聞き終えてから、立ち上がった。
「案内してください」
風呂場のドアの前に立つと、中から聞こえてきた。
泣き声だった。
か細く、途切れ途切れの泣き声。確かに若い女性の声だったが、どこか空洞のような響きがあった。感情があって泣いているというより、ただ泣くことだけが残っているような、そんな声だった。
葛乃は鳥肌が立った。
「杏奈さん」
燈夜がドア越しに声をかけた。泣き声が一瞬止まった。
「……だれ」
「少し話がしたい。ドアを開けてもらえますか」
沈黙の後、また泣き声が始まった。答える気がないらしかった。
燈夜は葛乃に目配せし、廊下の隅に移動した。
「残滓だ。かなり濃い」
「あの泣き声が……?」
「取り憑かれてる。意識はまだあるが、残滓に引っ張られてる状態だ」
「どんな妖怪ですか」
「あかなめだろうな」
「あかなめ」
「風呂場の垢を舐める妖怪だ。昔は不衛生な風呂が多かったから各地にいたが、今は風呂も綺麗になって垢がない。忘れられて消えた」
葛乃はドアを見た。中からまだ泣き声が聞こえている。
「消えたのに、なぜ」
「消えきれなかった残滓が漂っていたんだろう。風呂場という場所に引き寄せられて、中にいた人間に取り憑いた」
「剥がせますか」
「やってみる」
燈夜は木札を取り出し、ドアに手を当てた。文字に指を走らせ、短く何かを唱える。木札が光った。
しかし。
泣き声は止まらなかった。
燈夜の眉が僅かに動いた。もう一度唱える。木札の光が強くなる。それでも、ドアの向こうの泣き声は続いていた。むしろ少し大きくなった気がした。
燈夜は木札をポケットに戻した。
「撤退する」
「え、でも」
「今の木札では対処できない。戻るぞ」
葛乃は母親を見た。縋りつくような目が、こちらを見ていた。
「あの、少し時間をください。必ず戻ります」
葛乃が言うと、母親は唇を噛んで頷いた。
三
事務所に戻ると、見慣れない人物がいた。
六十代と思しき男だった。白衣を着ていて、髪は白く乱れていた。デスクの上に無数の木札と道具を広げ、何かを呟きながら作業している。只野がその横で興味深そうに覗き込んでいた。
「あの人は」
葛乃が三峰に小声で聞くと、三峰は書類から目を上げずに答えた。
「芦屋道雄先生です。木札の製作と管理を担当していただいています」
「先生?」
「民俗学と呪術理論の専門家です。……少々、独特な方ですが」
三峰の「独特」という言葉に、葛乃は少し不安になった。
燈夜は迷わず芦屋に近づいた。
「芦屋先生」
芦屋は顔を上げなかった。
「あかなめの残滓だ。今の木札では対処できなかった」
その瞬間、芦屋が動きを止めた。
それから、くるりと振り返った。
目が、爛々《らんらん》と輝いていた。
「あかなめ! あかなめが出たんですか! いやあ、それは珍しい! 残滓とはいえあかなめが現代に! いつ出たんですか! どんな状態でしたか! 取り憑かれた人間の症状は!?」
「落ち着いてください」
「落ち着けません! あかなめですよ!? 私ね、あかなめの残滓が現代に出る可能性を論文にまとめたことがあるんですが、まさか本当に出るとは! 宇治神くん、これは貴重なデータになりますよ!」
「被害者がいます」
「ああそうでした失礼! で、症状は?」
葛乃は只野の横に立った。
「……いつもあんな感じですか」
「最初からあんな感じでしたよ」と只野は楽しそうに言った。「でもなんか憎めないんですよね」
葛乃は何となくわかる気がした。
四
「木札というのはね」
芦屋は道具を手に取りながら、葛乃に向かって話し始めた。誰も説明を求めていなかったが、芦屋は構わず続けた。
「もともとは陰陽道の呪符が原型です。紙ではなく木を使うのは、木の方が霊的な定着力が高いからですね。そこに私が妖怪側の概念語を組み込んだ。これが怪遺局の木札の基本構造です」
「妖怪側の概念語?」
「妖怪というのはね、人間の言葉では完全に捉えられない存在なんです。人間の畏れや信仰から生まれた存在ですから、人間の論理だけでは扱えない。だから妖怪が認識できる概念を木札に刻み込む必要がある」
「だから普通の人間には使えないんですか」
「そうです。適性のない人間が使っても、ただの木切れです」芦屋は葛乃をじっと見た。「あなたが安倍葛乃さんですね。宇治神くんから聞いています。面白い存在だ」
「面白い、は余計です」
「褒めてるんですよ」
葛乃は複雑な気持ちになった。
「で、あかなめには今の木札では対処できない理由は」
燈夜が話を戻した。芦屋は我に返ったように頷いた。
「今の木札は汎用型でしてね。ある程度の残滓なら対処できるんですが、特定の妖怪の残滓が人間に深く取り憑いた場合は専用の術式が必要になる。あかなめは水と垢に強く結びついた妖怪ですから、その概念に対応した木札でないといかんのです」
「作れますか」
「もう作ってます」
芦屋はデスクの上から一枚の木札を取り上げた。さっきまで広げていた道具の中から作っていたらしい。燈夜の木札より少し大きく、刻まれた文字も複雑だった。
「ただし」と芦屋は言った。「これを使う時、取り憑かれた人間を水から引き離す必要があります。あかなめは水場に強く結びついている。水の中にいる限り残滓の力が強くなる」
「風呂の湯を抜けばいい?」
「それだけでは足りません。本人が自ら水を離れようとする意志が必要です。残滓に引っ張られていても、本人の意識はまだある。その意識に届かないといけない」
葛乃はドアの向こうの泣き声を思い出した。空洞のような、それでも確かに人間の声を。
「行きましょう」
葛乃が立ち上がると、燈夜が少し意外そうな顔をした。それだけだった。何も言わなかった。
五
再び風呂場のドアの前に立った。
泣き声は続いていた。三日間、ずっとこうなのだ、と葛乃は思った。十六歳の女の子が、三日間泣き続けている。
「杏奈さん」
葛乃はドアに手を当てて声をかけた。燈夜が少し後ろで見ていた。
泣き声が止まった。
「……だれ」
「安倍葛乃です。あなたを助けに来ました」
「……むり」
「なぜ」
「ここが……ここにいないと……」
声が途切れた。また泣き始める。
葛乃はドアに額を当てた。残滓に引っ張られながらも、まだ言葉が出てくる。意識はある。
「杏奈さん、お母さんがずっと外で待っています。三日間、ずっとここにいます」
泣き声が変わった。
「……おかあ、さん」
「そうです。だからドアを開けてください。水から出てください。あなたはここにいなくていい」
長い沈黙があった。
それから、かちり、と音がした。
鍵が開いた。
燈夜が素早く動いた。ドアを開け、木札を構える。芦屋から渡された専用の木札に指を走らせ、短く唱えた。
光が広がった。今までとは違う、水のように透き通った光だった。
風呂場の空気が変わった。淀んでいた何かが、光に溶けるように薄れていく。葛乃には見えなかったが、感じた。あの淡い気配が、ゆっくりと解けていくのを。
床に座り込んでいた少女が、顔を上げた。
目が、焦点を取り戻していた。
「……ここ、どこ」
「お風呂場です」
「なんで私、お風呂場に」
葛乃は少し安堵した。
「後で説明します。まず出ましょう」
廊下で待っていた母親が、娘の姿を見た瞬間崩れるように泣いた。娘が母親に抱きついた。葛乃はその場から少し離れて、二人を見ていた。
六
帰り際、母親が燈夜に声をかけた。
「本当にありがとうございました。あの……こちらのことは、やすらぎの家さんから紹介していただいたんですが」
燈夜の表情が、僅かに動いた。ほんの一瞬だけ。
「そうですか」
「はい。困ったことがあれば相談してみてください、って。まさかこんなことになるとは思いませんでしたが……本当に助かりました」
「お大事に」
燈夜は短く答えて、踵を返した。葛乃は母娘に会釈して後を追った。
「やすらぎの家って何ですか」
葛乃が聞くと、燈夜は少し間を置いた。
「さあな」
それだけ言って、歩き続けた。
葛乃はその背中を見ながら、「さあな」が本当に知らないのか、知っていて言わないのか、判断できなかった。
夕暮れの住宅街を、二人は並んで歩いた。
第三話 了
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康公




