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第二話「片付け屋の流儀」

 三峰静華みつみねしずかは、感情を顔に出さない。

 それは意図的な習慣なのか、あるいは生まれつきの性質なのか、燈夜とうやには十年近く一緒に働いていても未だにわからなかった。長い黒髪をきっちりと後ろで束ね、薄いフレームの眼鏡の奥から相手を見る目は、いつも静かで温度がない。年齢不詳という言葉がこれほど似合う人間を、燈夜は他に知らなかった。

 その三峰が、今朝は珍しく先に出勤していた。

 燈夜が地下フロアのドアを開けると、三峰はデスクで書類を捲りながら一度も顔を上げずに言った。

「昨夜の報告を」

 挨拶すらない。燈夜は小さく息を吐きながら上着をハンガーに掛けた。

「住宅街に居着いた残滓ざんしの処理。案件自体は問題なく完了しました」

「案件自体は、と言いましたね」

 三峰の目が、初めて書類から離れた。燈夜を見る。その視線だけで、部屋の温度が一度下がったような気がした。

「一般人の目撃者が一名いました」

「記憶処理は」

「していません」

 沈黙が落ちた。三峰はゆっくりとペンを置き、両手を組んでデスクに乗せた。その動作がひどく静かだったせいで、かえって圧があった。

「理由を聞かせてもらえますか。宇治神うじがみさん」

 名前を呼ぶ時だけ、声のトーンが僅かに下がる。それが三峰の癖だった。燈夜はそれを知っていたから、少しだけ姿勢を正した。

「適性があると判断しました。今日から部下にします」

「……私への報告ですか」

「はい」

「承認を取る気はないんですね」

「取りに来たら止めましたか」

 三峰は答えなかった。その沈黙が答えだった。燈夜は続けた。

「だから報告にしました」

「相変わらず姑息こそくな判断をする人ですね」

 嫌みでも怒りでもない、ただの事実を述べるような口調だった。それがかえって刺さる。燈夜は何も言わなかった。

 三峰は再びペンを取り、書類に視線を落とした。

「その方の名前は」

安倍葛乃あべくずの。二十二歳です」

 ペンが、一瞬止まった。

 止まった、と燈夜は思った。確かに止まった。しかし三峰はすぐに何事もなかったように書類に署名し、静かに言った。

「手続きは私の方で進めます」

「助かります」

「助かると思うなら次は先に相談してください」

善処ぜんしょします」

「その言葉、何度聞いたか数えていますよ」

 燈夜は黙った。三峰は書類を捲りながら、最後に一言だけ付け加えた。

「……その方のこと、ちゃんと見ていてあげてください。宇治神さん」

 燈夜は答えなかった。

 三峰も、それ以上は言わなかった。


 葛乃が地下フロアに辿り着いたのは、九時ちょうどのことだった。

 昨夜渡されたメモに書かれていたビルの名前と部屋番号を頼りに来てみたものの、エレベーターを降りた瞬間から既に雰囲気がおかしかった。蛍光灯の白い廊下、無機質なドア、どこかの省庁しょうちょうの出先機関のような看板。しかし人の気配がほとんどない。

 葛乃はドアの前で少し躊躇ためらってから、ノックをした。

「どうぞ」

 返ってきたのは、女性の声だった。

 中に入ると、広くはない部屋にデスクが四つ並んでいた。窓はない。棚には分厚いファイルが整然と並んでいて、壁には日本地図と、何かの記録らしい表が貼られている。

 奥のデスクに、女性が一人座っていた。

 長い黒髪、細いフレームの眼鏡、スレンダーな体型。年齢がまったく読めない。三十代にも見えるし、四十代にも見える。ただまとっている空気が静かで、妙に圧があった。

「安倍葛乃さんですね」

「は、はい」

「三峰静華です。こちらの部署の管理を担当しています」

 三峰は立ち上がり、葛乃に向かって軽く頭を下げた。所作しょさが綺麗だった。しかし笑顔はない。愛想がないわけではないが、必要以上の温度も感じない。

「突然のことで戸惑っているかと思いますが」

「戸惑っています」

「そうですね」

 三峰は特に表情を変えずに言った。

「それでも来てくださった。それで十分です」

 葛乃には、その言葉の意味がよくわからなかった。ただ、責められるわけでも茶化されるわけでもなく、ただ静かに受け取られたような気がして、少しだけ肩の力が抜けた。

 そこへ、ドアが勢いよく開いた。


「おはようございまーす! って、あれ、新しい人ですか?」

 入ってきたのは、三十歳前後と思しき男だった。

 特筆すべき点が何もない、という意味では確かに特徴的な男だった。顔立ちは整ってもいないが崩れてもいない。身長は平均的。スーツもどこにでも売っていそうな無難なもの。しかしその目だけが、やけにきょろきょろしていて落ち着きがない。

只野人志ただのひとしです! よろしくお願いします!」

 只野は葛乃に向かって、営業マンのような笑顔で頭を下げた。

「あ、安倍葛乃です……」

「安倍さん! 僕もここ最近配属されたんですよ、だから新人同士仲良くしましょう! というかここって本当に何をするところなんですか? 配属の書類には特殊事象対策とか書いてあったんですけど特殊事象って何なんでしょうね、僕まだよくわかってなくて」

 葛乃は只野を見た。それから三峰を見た。三峰は只野のことを一瞥いちべつし、それだけで何も言わなかった。その目には「またか」と書いてあるような気がした。

「……あなたは、妖怪の存在を知らないんですか」

 葛乃が恐る恐る聞くと、只野は目を丸くした。

「妖怪!? いるんですか!?」

「いるらしいです」

「すごい! じゃあここって妖怪退治とかするんですか!?」

「退治じゃなくて片付けらしいです」

「片付け! それもすごい!」

 只野は心底嬉しそうに言った。葛乃は少し脱力した。この人は本当に何も知らないのだろうか。それともこれが普通の反応なのだろうか。昨夜からずっと非常識な出来事が続きすぎて、もう何が普通なのかわからなくなってきていた。

「只野さん」

 三峰が静かに口を開いた。只野がびくりと背筋を伸ばした。

「朝の書類整理が終わっていません」

「あ、すみません今すぐやります!」

「昨日も同じことを言っていましたね」

「……肝に銘じます」

 只野は小走りで自分のデスクに向かった。葛乃はその背中を見ながら、三峰が只野に向ける目が燈夜に向けるものと微妙に違うことに気づいた。燈夜には圧と静けさが混じった目を向けるが、只野には呆れと諦めが僅かに滲んでいる。

 長い付き合いなのかもしれない、と葛乃は思った。

 燈夜が部屋に入ってきたのは、それから少ししてからだった。葛乃を一瞥し、時計を見て、それだけで何も言わなかった。

「宇治神さん」

 三峰の声に、燈夜の動きが一瞬止まった。

「今日の案件が入っています。報告書は帰ってから必ず出してください。昨日の分もまだ出ていませんよ」

「……帰ってから出します」

「善処ではなく、必ず、です」

「必ず出します」

「よろしい」

 燈夜は葛乃に目を向けた。

「葛乃、来い」

 葛乃は名前を呼ばれたことに少し驚きながら立ち上がった。

「あの、私も行くんですか」

「部下だろ」

「でも昨日なったばかりで」

「見てるだけでいい」

 燈夜はそれだけ言って、既に廊下を歩き始めていた。葛乃は慌てて鞄を掴み、後を追いかけた。

「行ってらっしゃい」

 三峰の静かな声が、背中に届いた。それから少し間があって、只野の声が続いた。

「行ってらっしゃーい! お土産はいらないですよ!」

「只野さん、手が止まっています」

「すみません!」

 廊下に出た葛乃は、思わず小さく笑った。自分でも気づかないうちに、笑っていた。


 案件の現場は、都内の古い商店街だった。

 シャッターの閉まった店が並ぶ昼間の商店街は、閑散かんさんとしていてどこか寂しい。燈夜は地図を確認することもなく、迷いのない足取りで歩いた。葛乃はその二歩後ろをついて歩きながら、周囲を観察した。

「あの、今日の案件というのは」

「残滓の回収だ」

「残滓というのは昨夜の、あの黒いやつですか」

「似たようなもんだ。今回は形がない。気配だけが残っている状態だ」

「危険ですか」

「お前には触れない」

 断言する口調だった。根拠を説明するわけでもない。ただそう言った。葛乃は少し迷ってから、聞いた。

「なぜわかるんですか」

 燈夜は答えなかった。

 商店街の奥、一軒の閉店した花屋の前で燈夜は足を止めた。シャッターにはさびが浮いていて、軒先のきさきに古い鉢植えが残されている。土だけになった鉢植えが、いくつか。

「ここか」

 燈夜は小さく呟き、上着の内ポケットから木札きふだを取り出した。

 その瞬間、葛乃は感じた。

 空気が、少し揺れた。揺れた、というより滲んだ。花屋の前だけ、世界の輪郭が僅かに曖昧になったような気がした。昨夜のような恐怖ではない。それよりもっと淡い、消えかけた何かの気配。

「……なんか、います」

 葛乃が呟くと、燈夜が振り返った。

「見えるか」

「見えるというか、感じる、みたいな」

 燈夜はしばらく葛乃を見ていた。それから前に向き直り、木札に指を走らせた。

「花屋をやっていた爺さんの話を聞いた。三年前に店を畳んで、去年死んだ。長年この場所にいた何かが、まだここを離れられずにいる」

「妖怪が、ここにいたんですか」

「いたんだろうな。名前もわからん程度の、小さな何かが。ただ、ここが好きだったんだろう」

 木札が光った。淡く、温かみのある光だった。昨夜の鋭い光とは違う。

 滲んでいた空気が、すうっと落ち着いた。葛乃が感じていた気配が、静かに薄れていく。消えた、というより、解けた。そんな感じがした。

 燈夜は木札をポケットに戻し、花屋を一度だけ見た。

「行くぞ」

「……それだけですか」

「それだけだ」

「なんか、もっと大げさなものかと思ってました」

「大半はこんなもんだ」

 燈夜は歩き出した。葛乃はもう一度だけ花屋を振り返った。錆びたシャッター、土だけの鉢植え。何もない、ただの閉まった店。

 でも、さっきまでここに何かがいた。

 長い間ここにいて、ここが好きで、それでもう逝けなかった何かが。

 葛乃は小さく息を吐いて、燈夜の後を追った。


 帰り道、葛乃は少しだけ考えた。

 逃げることはできる。昨夜だって、今日だって、まだ間に合う。記憶を消してもらえばいい、と燈夜に頼めばいい。そうすれば元の生活に戻れる。コンビニのバイト、就活の不安、普通の毎日。

 でも。

 あの花屋の前の気配を、葛乃はまだ覚えていた。消えかけた、淡い、名前もわからない何かの気配を。

 誰かが片付けなければ、あれはずっとそこにいたのだろうか。

 葛乃は燈夜の背中を見た。くたびれたスーツ、寝ぐせの残る髪、目の下の隈。どこからどう見ても冴えないその背中が、今日は少しだけ違って見えた。

 まだ、わからない。

 この仕事が何なのか。自分がなぜここにいるのか。あの男が何を考えているのか。

 でも今日は、もう少しだけここにいてみようと思った。

 それだけだった。それだけで、葛乃は歩き続けた。


第二話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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次話もお楽しみに!


 康公こうこう

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