第一話「残滓を視る女」
はじめまして、康公です。
本作は現代日本を舞台に、忘れられていく妖怪たちと向き合う人々の物語です。
ダークな雰囲気の中にも、時々笑えるシーンを交えながら書いていきます。
未熟な点もあるかと思いますが、ゆっくりお楽しみいただけたら幸いです。
一
夜の住宅街というのは、どこか息をひそめているような気がする。
安倍葛乃はイヤホンを片耳だけ外しながら、街灯の少ない路地を早足で歩いていた。時刻は午後十一時を少し回ったところ。コンビニでのアルバイトを終えた帰り道だ。疲れた足が、アスファルトを踏む音だけがやけに響く。
別に怖いわけではない。ただ、この道はどうにも好きになれなかった。
理由はうまく言葉にできない。強いて言うなら、空気が違う。薄い膜を一枚隔てたような、妙な感覚がずっとある。幼い頃からそうだった。誰かに話したことはないが、葛乃にとってそれはもう慣れた感覚でもあった。
だから最初は、いつもと同じだと思っていた。
路地の角を曲がった瞬間、空気が変わった。
正確には、なくなった。
音が消えた。風も、虫の声も、遠くを走る車のエンジン音も。まるで世界ごと綿に包まれたように、全ての音が途絶えた。葛乃は足を止め、イヤホンを外した。
静寂の中に、それはいた。
古びた電柱の影に、人の形をした何かが張り付いていた。人、と言うには輪郭が曖昧すぎた。滲んだ墨のように縁がぼやけ、足元は地面に溶けるように消えている。顔と思しき部分には、目も鼻も口もなかった。ただ、こちらを向いていた。向いている、と感じた。
葛乃の全身から、すっと血の気が引いた。
逃げなければ。
そう思った瞬間、足が動かなかった。恐怖で竦んだわけではない。足首に何かが絡みついていた。視線を落とすと、地面から黒い靄のようなものが這い上がってきていた。触れているはずなのに、温度も感触もない。あるのはただ、引っ張られるような感覚だけだ。
引きずり込まれる。どこへ、とは分からない。でも、それだけはわかった。
葛乃は声を上げようとした。喉が震えて、空気だけが漏れた。
その時。
背後から、低く落ち着いた声が聞こえた。
「邪魔だ。どいてろ」
二
宇治神燈夜は、面倒くさいと思っていた。
別に珍しい案件ではない。迷子の残滓が住宅街に居着いて、近隣住民の睡眠を妨害している。怪遺局に回ってくる仕事の中では、むしろ軽い部類だ。さっさと片付けて、さっさと帰る。それだけのつもりだった。
つもりだった、のだが。
角を曲がったところに、女が一人立っていた。二十代前半くらいだろうか。コンビニの制服らしいものを着ていて、明らかに一般人だった。よりによって残滓の真正面に突っ立っている。しかも足元はもう靄に絡め取られている。
燈夜は小さく舌打ちをした。
厄介なことになった。一般人に目撃されると、後処理が増える。記憶を消して、現場から遠ざけて、それから仕事に戻る。手順としては大したことはないが、余計な時間を取られる。
「邪魔だ。どいてろ」
我ながら愛想のない声だと思いながら、燈夜は女の横を通り抜けようとした。上着の内ポケットから細長い木札を取り出し、残滓に向き直る。
木札に指を走らせると、表面に刻まれた文字が薄く光った。
燈夜が短く何かを唱えた瞬間、残滓が反応した。人の形だったものがぐにゃりと歪み、電柱から剥がれるように動き出す。足元の靄が引き潮のように薄れていく。
そこで燈夜は気づいた。
女が、まだそこにいた。
逃げていない。腰を抜かして座り込んでもいない。蒼白な顔で、それでも立ったまま、残滓を見ていた。ただの恐怖ではない何かを、その目に宿して。
燈夜の手が、一瞬止まった。
残滓が動く。燈夜は意識を戻し、木札を鋭く空に走らせた。乾いた音がして、残滓が霧散した。溶けるように、跡形もなく。
静寂が戻った。虫の声が、遠くの車の音が、ゆっくりと染み込んでくる。
燈夜は女に向き直った。記憶処理用の小さな道具を取り出しながら、事務的に口を開く。
「何も見なかった。今から、そういうことになる」
女は燈夜を見た。震えていたが、声は思ったよりしっかりしていた。
「……あれは、なんですか」
「関係ない」
「私の足に絡みついてました」
「だから関係ない」
女は少し黙った。それから、静かに言った。
「昔も、同じものを見たことがあります」
燈夜の手が止まった。
今度は、意図したものではなかった。
三
気づいたら、見知らぬ建物の中にいた。
葛乃が状況を飲み込めたのは、パイプ椅子に座らされてから十分後のことだ。連れてこられたのは、どこかのビルの地下フロアらしかった。蛍光灯の白い光が、やけに目に刺さる。
向かいに、さっきの男が座っていた。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。くたびれたスーツに、結び目が少し緩んだネクタイ。髪は短いが寝ぐせが残っていて、目の下にはうっすらと隈がある。お世辞にも覇気があるとは言えない風貌だったが、目だけが妙に鋭かった。
男はテーブルに肘をつき、じっと葛乃を見ていた。値踏みするような目ではない。何かを確かめるような目だった。
「名前」
「……安倍葛乃です」
「年齢」
「二十二です」
「職業」
「大学を今年卒業して、今はアルバイトで……」
「昔見たというのは、いつの話だ」
葛乃は少し躊躇った。
「幼い頃です。小学校に上がる前くらい。……あまり、はっきりとは覚えていないんですけど」
男の目が、微かに動いた。それだけだった。表情は変わらない。
「覚えていない、か」
独り言のような呟きだった。葛乃には向けられていない言葉のような気がした。
「あの、結局あれは何だったんですか。それと、ここはどこで、あなたは何者で、私はなぜここに」
「妖怪の残滓だ」
「え」
「さっきお前が見たもの。妖怪が消える時に残す、未練の滓だ」
葛乃は数秒、固まった。
「……妖怪」
「信じられないなら別にいい。どうせ記憶を消す予定だった」
「予定だった、ということは」
「変更した」
男は立ち上がり、上着のポケットに手を突っ込みながら言った。
「明日から来い。色々と教えてやる」
「ちょっと待ってください、意味がわからないんですが」
「内閣情報調査室附属特殊事象対策部。表向きの名前はそうだ。実際の仕事は、妖怪が消えた後の片付けだ。お前はそこの職員になる」
「なりません」
「なれ」
「なぜ私が」
男は少し間を置いた。葛乃には、その間が何かを計算しているように見えた。
「適性がある」
それだけ言って、男は背を向けた。
「宇治神燈夜だ。明日、九時に来い。遅刻したら置いていく」
葛乃は開いた口が塞がらなかった。
四
地下フロアの廊下は、夜中になると人気がなくなる。
燈夜は一人、非常口の近くに立って煙草に火をつけた。吸い込んだ煙を、ゆっくりと吐き出す。
安倍葛乃。
その名前を、頭の中で静かに転がした。
安倍という苗字は偶然ではないかもしれない。いや、偶然のはずがなかった。あの夜のことを、燈夜は一度も忘れたことがない。
忘れられるはずがなかった。
煙草の火が、夜の暗がりの中で小さく揺れた。
───あの子が、こんなに大きくなったか。
燈夜は目を細め、煙草を深く吸った。それきり、何も呟かなかった。
第一話 了
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康公




